イエス、弟子のペテロの離反を予告② ~逆欠席裁判~
【欠席裁判とは】
当事者や代理人が出席しないまま、又は意見を述べられないままで行われる裁判。
また比喩表現で当事者に意見陳述の機会を与えないまま当事者の不利になる決定を行うことを欠席裁判と表現することがある。
そうして出された判決を、『不在判決』と呼ぶこともある。
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裁判の世界に現実に関わる人は、読者の皆様の中でもそう多くはないだろう。
そんなものTV番組やドラマの中だけでしか見ない、という人も多いに違いない。
でも、人は心の世界(認識の世界)の中で、『逆欠席裁判』というものをよくやっているのだ。
欠席裁判という言葉に関しては、冒頭で説明した。
では、「逆」欠席裁判とは一体何か。
欠席裁判は、あなた(当事者)が裁判の場にいないのをいいことに、あなたに不利になるように周りに勝手に進められることを言う。
逆欠席裁判とはそれと逆で
●あなただけが法廷にいて、そのほかの人間はゼロ。
●他がいないのをいいことに、あなたが勝手に自分に都合のよい判決を下すこと。
では、以下の聖書のエピソードをお読みいただきたい。
ペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」 と言った。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」 と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
【マタイによる福音書 26章34~35節】
聖書にある、イエスと第一弟子のペテロとのやりとりである。
(※新共同訳聖書では「ペトロ」だが、筆者は口語訳で慣れているため「ペテロ」という表記にさせていただきますがご了承ください)
イエスは、自分は十字架にかかって死ぬことになる、と予言した。
その時、情に厚い一番弟子のペテロは、「私は何があってもあなたを離れない」 と断言する。それはとりもなおさず、イエスのためなら命をも惜しまない、という覚悟の表明である。
ペテロに、悪気はなかった。それは恐らく、その時点においての彼の「本心」だっただろう。
でも彼は、安易に考えた。「もしも、師が捕まり、処刑されたら?」というのは、彼が体験したことがない状況なので、色々重要な要素がすっぽり抜け落ちた想像 (シュミレーション)となったことだろう。でも彼は、そんな欠陥に気付かない。
しかし。この後に実際イエスが逮捕された時、肝心のペテロはというと——
逃げた。しかも、あとでこっそりイエスの裁判を見に来ているのをばれて、「あなたはあいつの弟子だった!」と指摘されて、三度否定している。
これでイエスが予言した通りになり、自分が実に軽はずみな発言をしたと思い知った彼は、激しく泣いたと言われている。
こういうのを、逆欠席裁判という。
出席者は、ペトロ本人だけ。その他は誰も、裁判所にいない。
何の判断材料もないから、自分の見聞や経験、感覚だけで重要なことを決定する。
経験すらしてないこと、その生の場に身を置いた時どうなるかなど読めない状況に対して謙虚になれず、「恐らくこうだろう」と、具体的に考慮すべき要素の一切を排除して、実に自分に都合の良い判決を下すのだ。
ペテロは、死というものが自分の身に迫った時の人の弱さなど、それまで知らなかった。知らない癖に、自分はさも知っているかのように、「自分は絶対大丈夫。死よりも、師を裏切ることのほうを恐れるはずだ」と実に無責任な予想を立てた。
案の定、そんなもろい想像は完膚なきまでに砕け散った。
空に触れたことのない者が、空(悟り)を語る。
死んだことのない者が、死後の世界を語る。
絶対な宇宙の真理などないのに、自分の体験といくつかの見出した観察対象の共通事項を根拠として、自分の一意見に過ぎないことを「宇宙の法則」とか言ってしまう。これら皆、逆欠席裁判である。
必要な人員がそろっていないのに、自分だけなのに裁判を始める。
我々人間が、証拠が十分でない状況でいかにフライングして物事を決めつけているか。いかに勇み足が多いか。
数えあげて自覚できたら、ゾッとするほどである。
でも、だからといって 「じゃあ、どういう状況だったら判決を下していいのか?これだけ証拠や情報がそろえば判決を下すのに十分だ、とどこで分かるのか?」 と聞かれても困る。
だって、そういうのは人間キャラには分かりっこない。
これで絶対とか、これで十分とか、これ以上新たな情報や手がかりが存在しない、などとどこの生身の人間が自信を持って言えるのか? 無理だ。
無理なのだから、我々人間ができる最善は——
●いつでも、「これで十分なんてのはない」という意識を持つこと。
でも、この世界ではいつかどこかで、判断を決めてしまわないといけないタイミングがある。それにベストを尽くすことだけ。
しかし、そうして出てきた判断すら、「絶対ではない」と自覚しておくこと。
今以上に採用すべき情報が現れた時素直に受け入れられように、常に受け入れ準備をしておくこと。
もし、イエスの弟子ペテロがイエスに「お前裏切るよ」と言われた時に、「いいえ、そんなことはありません!」という逆欠席裁判の結果に自信を持ちすぎずに「いや待てよ? 師の言うことは一考に値するのでは? 私は確かに今の気持ちを正直に述べているが、その正直な判断の正体は情報不足・経験不足から来る『から元気で』ある可能性もないとは言えないぞ?」 と考えることができていたら、彼のその後の魂の旅は、少々違うものになっていたかもしれない。
逆欠席裁判は、人間キャラとして生きる以上避けられない。
どうしても、してしまうことになる。
ならば。どうしてもしてしまうのなら、「マシにする」努力しかできない。
裁判で負ける可能性しかないのなら、せめて刑を軽くする「情状酌量」の線で戦っていくしかない。
我々人間は、飽くなき『チャレンジャー』である。
絶対、という領域には足を踏み入れられないと分かりながらも、その線スレスレでも行ってやれという風にあきらめない冒険野郎である。
越えられない壁でも果敢に挑み、どこまでやれるのかを見るのが、人としてのロマンなのだろう。そういう意味では、ペテロはそのロマンの最たるものに挑み、結果外して大恥をかいた、世界一恥ずかしい人だった。
(その後の改心はまた別の話として)
ペテロは(イエスもそうだが)、まさか自分の一世一代の大恥が勝手に他人に記事として書かれ、聖書として二千年後もの未来の人間の大勢に知られてといるとは、さぞビックリであろう。
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