声優になりたかったアラサー女子と、声優になりたい男子高校生

卯月なな

1章

新川彩月

彩月さつき、一人の前途洋々たる若人を救ってみないか?」


 半年前に結婚して新婚生活がよほど楽しいのか、めったに実家に寄り付かない、高校教師をしている2つ年上の兄、和希かずきが珍しく新居ではなくこちらに帰って来た。


 昨日のうちに母には連絡が来ていたらしく、夕飯は四人分用意されていた。タイミング良く母が夕飯作りの当番の日だったが、これがもし彩月が担当の日だったら小言の四つや五つ言っていただろう。


 大好きな新妻のいる愛の巣ではなく、こちらへ来るなんてどういう風の吹き回しだろうと、ちらりとは思ったが別に理由を知りたいとは思わない。

 夕飯を食べ終えて、彩月はスマートフォンのアプリでマンガを物色していた。


「いきなり、何?」


 彩月の両眼は不審なものを見るそれになっていた。


「お前に人助けをさせてやると言っている」


 真正面に腰かける眼鏡をかけた兄がダイニングテーブルに両肘をつき、組んだ両手で口元を隠すポージングをしているのは明らかに某アニメキャラクターを意識していると彩月は気づいた。


 誰かを助けたいなら、妻に会いたい一心で息子さえ駒にして世界を滅ぼそうとするオヤジをチョイスするのは間違っている。

 そう思ったが、大してアニメに詳しくない和希に説いたところで馬の耳に念仏だ。


 作り手へのリスペクトが足りない兄の態度にイライラした。


「お前の悲惨な現状を聞けば、声優になろうなんて夢はなくなると思うんだよなー」


 ずいぶんな言われようだが、世間では兄の身上が『普通』なのだから、彩月は反論できずにぐっと唇を結ぶ。胸の辺りが鈍く痛んだが、こんなことを言われても仕方がないと甘んじて受け入れている彩月がいることも否定できない。


 台所で食事の後片付けをしている母の反応を気にして横目で覗き見たが、特に変わりはないように感じて安堵したことに彩月は更に自己嫌悪を感じた。

 ダイニングとひと続きになっているリビングで、ソファーに深く腰かけて刑事物のテレビドラマを見ている父も会話に入ってくる様子はない。


 結婚だ、就職だと言ってこない両親に甘えて迷惑をかけていると、肩身の狭い思いをしているのは彩月自身だ。結局、『常識』に一番囚われているのは彩月かもしれない。


「一年の時の成績は良いし、顔も悪くない……と思う。ちゃんと大学に行って、真っ当に生きろって言ってやってくれ」

「『真っ当』って、何よ? 声優だってちゃんとした職業。公務員になったって犯罪で捕まる人もいるのに」

「声優として成功できるのは、ほんの一握りだ。お前みたいに学歴なし、職なし、恋人なしのアラサーになったらどうするんだ?」


 和希の身も蓋もない言い様に、彩月は沈黙することで心を守った。反論すれば更に心ない言葉が飛んでくることはわかっている。


 全員分の温かいお茶を用意してくれた母が、まず兄の前に湯飲みを置いた。


「お兄ちゃん、そういう言い方は良くないわ。今はそんな時代じゃないのよ」

「母さんも、こいつのこと甘やかし過ぎ」


 母は小さく肩をすくめて、それ以上は何も言わずに彩月にお茶を渡してから父のところへ行った。


「……私の現状を話すって言われても、知らない高校生にどうやって会うの? だいたい、その子だって私の失敗した過去なんて聞きたくな……」

「お前の休みの日いくつか教えて。相手に伝えてみるから。失敗談から学ぶことも多いだろ」


 兄の無神経な言葉に、彩月のまだ乾いていない傷は抉られていた。


 これだから和希には帰って来てほしくないのだ。ずっと学校と言う狭い世界にしかいないのに、偉そうに語る姿がに障る。


「……送ったから、あとは知らない」


 スマホのスケジュール張を確認してから、メッセージアプリを使って兄に休みの日付を送った。


 これ以上この場にいたら空気がよどむ。そう感じた彩月はスマホを手にそそくさと自室へ戻った。




 ♪




 見ず知らずの男子高校生といきなりサシで会うなんて、どんな罰ゲームだ。


 彩月は心の中でそう毒づきながらも待ち合わせ時間の十分前に、約束した渋谷のハチ公口の、緑色の電車の近くに立っていた。


 日曜日の昼間のこの場所は恐ろしく混雑している。目印は濃いピンク色のリュックだと伝えたが、見つけてもらえるだろうか。


 バイト先に大学生の男の子は数人いるので、年下と話すことに抵抗があるわけではない。しかし高校生となると、どう接すれば良いのかと彩月は眉間にシワを寄せる。


 和希を介したやり取りで、あれよあれよと言う間に彩月と高校生の対面が決まっていた。最寄り駅でも良かったのだが、何となく和希の都合も考えてしまった。


 その和希自身は担任するクラスの生徒を一人だけ特別扱いは、などと尤もらしいことを言って全て彩月に押し付けた。


 兄の受け持つ2年2組の高橋たかはしれんは、個人面談で声優になりたいと言ったらしい。それ以外に興味はないと。


 それを聞いた和希は真っ先に妹の姿を思い出し、これは大変だと彼の説得を試みたが失敗に終わり、彩月に助けを求めたというのが先日の出来事。


 彩月からすれば、本人がやりたいなら挑戦すれば良いと思う。上手くいかなくても自分の責任だ。


 兄の言う通り、成功できる人のほうが圧倒的に少ないが、そこに飛び込むのは他の誰でもない自らの意思なのだから。他人に言われたからという理由であきらめたら後悔が残るし、精神状態によってはアイツのせいでと恨みにさえなるかもしれない。


 とは思うが、担任の先生としてお節介だが親切心なのだろうということもわからなくはない。和希が働いているのはそれなりの進学校でもあるから、親御さんの期待もあるだろう。


 身内にこんな体たらくの人間がいれば、教え子が心配になるかもしれない。


 来月誕生日が来たら二十八歳になる新川しんかわ彩月は今、フリーターだ。

 フルタイムでデパートの地下食料品売り場にテナントを出している惣菜店で働いている。


 働く時間が長いので社会保険や厚生年金などには加入しているが、正社員ではないので辞めても保障はないし、あるはずの有給もない。


 だからと言って、今働く店で正社員になりたいとも思わなかった。頑張れば契約社員からの出発だが声をかけてくれる会社ではあるのだが、彩月にその意欲はない。


 デパートだからかもしれないが、客層もそれほど悪くない。面倒な客がいないわけではないが、おそらく接客業の中では揉め事も少なく時給が良い方だと思う。


 実家暮らしだから、そこで稼げる分で困ることは今のところない。両親が健在だからできている生活なのだが、そのありがたさから目をそらしつつぬるま湯に浸かっている。


 去年の三月まではとある声優事務所に預りという形で所属していた。三年間その事務所にいたが、経験した仕事は両手で数えられる。


 高校を卒業してすぐ、彩月はアルバイトをしながら大手声優事務所が母体の養成所に週三回通っていた。

 進学校の中でそれほど学業の成績が良くなかったことと、退路を断つ意味でそうしていた。今となっては、それを反省しなくもない。


 そこは二年通うシステムになっており、進級時と卒所時に試験があった。一年目の進級試験は合格したが、卒所時に受けた所属試験は不合格だった。しかし声優になる夢を諦めきれず、一年間バイトに明け暮れてお金を貯めた。そして今度はあまり規模の大きくない声優事務所が運営する養成所に二年間通った。


 そこは事務所自体が立ち上がってまだ五年ほどだったので、所属声優も多くはなかった。

 洋画の吹き替えで有名で、大御所と言われる声優の播磨はりま修造しゅうぞうがこれまで所属していた大手声優事務所999スリーナインプロダクションを辞め、声優を続けながら興したシューゾーオフィスと言う声優事務所だ。


 播磨の人柄で集まった実力派声優揃いの事務所に憧れ、彩月はその一員になるべく所属を目指して努力を重ねた。そしてついに、預り所属を勝ち取ったのだ。六十人いた同期生で、合格したのは彩月を含めて四人だった。


 期待に胸を膨らませていたのだが、現実は甘くなかった。


 預り所属と言うのは言ってみればお試し期間だ。事務所が行ってくれるレッスンを受けながら、チャンスがあれば仕事やオーディションを振ってもらい一人前を目指す。


 彩月が入ったシューゾーオフィスは、播磨や彼と共にシューゾーオフィスを立ち上げたマネージャーのコネクションのおかけで洋画や海外ドラマの吹き替えの仕事は多くあった。彩月も何度か端役で収録に参加させてもらった。

 だが彩月が向いていると思われたアニメーションの仕事は、新人はオーディションに合格するしかなかった。


 オーディションを受けるのにも、事務所内でマネージャーによる選考がある。大抵、一キャラクターにつき一人しか事務所から応募できないのだ。そしてオーディションのあるキャラクターは主要人物数人しかいないことが大半だ。


 それ以外のキャラクターは、指定のキャラクターオーディションには落ちたが別の役で拾い上げられた声優や、監督や音響監督など製作スタッフの指名で決まることが多い。


 声優事務所も今はかなりの数がある。一次審査は書類と指定の原稿を録音したものを集めても、選ぶ方もかなりの労力だ。


 最終審査は絞った候補を呼んで収録スタジオで行われることが多く、彩月も何度か進んだことはあったが、役を取れた経験はなかった。


 そして三年間いた事務所に戦力外通告をされたのが去年の三月。心の整理をつけられないまま、一年が経過していた。


 彩月の真正面で申し訳なさそうに顔を伏せた男性マネージャーの表情が、今も目に焼き付いている。

 嫌なことを思い出した、と彩月は少しうつむいた。


「新川先生の妹さん……ですか?」


 柔らかく耳に馴染む、上品な優しげな声。女性の心を鷲掴みにしそうだ。


 彩月が顔を上げると、まだあどけないが爽やかで人当たりの良い印象を受ける、整った容姿の青年がいた。

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