Episode03 狼の少女Ⅳ
「そういえば澪さん、この子に名前を知ってますか?」
「やはりあなたたちも知らないんですね……私も気になってこの子に聞いたんですが、頭ばかりを振っていました」
「そうなんですか」
「おい、澪……それって、もしかして」
「はい、恐らく」
澪は最初にこいつと接触したし、彼女のそういう俺に知れない親和力も当てにできる。名前を言っても別に悪影響が出るわけでない。ひょっとして何か言えない事情があるのか? いや、天音と澪にこんなに懐っこくなってるのに、まだ他の考慮があるわけがない。感情的な面の理由とかは否定できないが、この状況で言わないのってやっぱり……
軽く思索すると悠慧は目の前の二人の見つめた。
「名前を忘れてるか、そもそもなかったのどっちか、か。前者の方がありえるな。一体何があったんだ」
「いずれにせよ、私たちにとって良くない状況ですね」
「ああ、そのとおりだ」
ちょっと苛ついているように吐き捨てた。
記憶喪失。よく映画や小説の主人公が患って、物語の発端となる病気の一つだが、現実ではそうそう起きない。記憶喪失になる原因は大体二つに分けられている、物理的のものの精神的のもの。
物理的のものは酸欠か、頭に強い衝撃が与えられたなどのことで、脳組織がダメージを受け、一時的、永久的に記憶を失うのだが、それならこんなに速く回復するはずもない。
状況を総合的に評価して、考えられるのは精神的なものだ。何か強いショックを受けたことで、脳の防衛機制が働き、それに関する記憶をまるごと裁ち落とす。この場合、普通なら記憶の一部だけに空白期間が出るはずであるが、もし当事者が受けたショックはあまりにも大きすぎると、完全に真っ白な状態に戻ることもありえなくはない。
この子は狼娘である。その耳と尻尾を隠せるかどうかは明らかだ。ということは彼女が学校とかに行くはずもない。
人類が世界を支配している中で、子どもの頃からはずっと人狼の家族とその森で暮らし、他の人狼の知り合いはいるかもしれないが、正常に出歩けない存在であるかぎり、まともに会えて、コミュニケーションを取ったこともわずかだろう。
たとえ話だが、そんなとき、ある日いきなり何らかの事件が起きて、家族は自分を逃がすために自分から離れていったら、頼れる人もいなく、世界観が崩れてしまうこともあり得る話になってくる。
その何らかの事件は一体何かを悠慧は知りたい。人狼の内輪揉めならまだしも、もし人類が彼たちを見つけて襲いかかったら……
悠慧は思わず額を押さえた。莫大の記憶はまるで呪いの奔流のように脳裏を駆け抜け、制御不可能の想像力は限りなく最悪の結末を形作る。
この幕で「銃」を拾った人類は、物語ででも現実ででも間違い第二幕でそれを使うに違いない。
原子爆弾は確かに違うように見える。だが、それはただ自分にもダメージが届くからか、もしくは第二幕がまだ終わっていないだからだ。制御可能なら、人類はおそらく冷戦時にすべてのウランを使い果たしたことだろう。
ただの無用な心配だったかもしれないが、悠慧を含む一部の人はその緊迫感に追われ続けなければならなかった。
惨劇でしかない。
もちろん記憶喪失ではなく、最初から名前を持たなかった可能性もある。しかし、そうなるとさらに状況ややこしくなる。下手すれば想像もつかない悪状況かもしれない。だからこれ以上はもう少し情報を収集してからにするしかない。
「なので悠慧くんが名前を付けてあげてはどうですか?」
軽やかに両手を叩いて、面白がるように提案した澪だった。しかし、それはとても困ったことだ。
「ふん……はっ?」
この場面でこんなことを言われると、どういう意図かを掴めず、ぼさっと間抜けな表情で固まった。
「なんで? このタイミングでか」
「名前がないのだから、どう称呼すればいいか困るでしょう? 悠慧くんはいつもいつもこいつこいつって、呼んでるですし」
「なるほどね」
「それにこれから一緒に過ごすことになるかもしれませんしねぇ」
一瞬浮かない顔になるが、まず目の前のことを一つずつやっていかないといけないと思い、小さく笑い返した。
「お前、そこまで考えたか」
「最悪に備えての防衛行動ですよ」
「補助機関にさらに牽制されるかもしれないぞ。って言ってもすでに散々か。そもそももしこの件が国家と関わってるなら、こっちで堰き止めるのがベストか」
「それがいいですね。では名前もお願いねぇ」
「いや、ちょっまて。そんなもん俺につけろって言ってもな。そんなセンスないし」
微笑みを浮かべながら丸投げしようとする澪を慌てて呼び止めた。
「悠慧くんはあんな可愛い子と仲良くなりたくないですか? なりたいでしょ?」
「関係ねぇだろう、可愛いかどうかは。なんだそのジェンダー的な」
「考えて見てくださいよ。ここで怖がられてるのは悠慧くんだけですよ。そんな状況でなんとかしたいと思わないのですか?」
途端、悠慧は目を細め、流し目で目の前の二人をジロジロ見つめた。視線が澪から天音に巡ってくると、彼女はまるで何者かに脅されたと思わせるように座り直し、困った目つきで「ごめんね、悠慧」と見返してくる。
「あぁ……うぅ、ああ分かった、考えてみるわ」
悩ましそうに髪型を荒らした挙句、クエストを引き受けることに決心した。
正直、まともな名前が出てくるかは不安でしかないが、澪たちに信用されているなら、インターネットの力も使ってなんとかする他ない。
「期待してますよ。ではそろそろ本題に入りましょうか」
「本題か……とてもいい体験とは言えないな。ねぇ、お前は魔法を信じるか?」
「魔法、ですか」
「ああ、宙を浮かぶ火球、いきなり現れる火の壁、ドラゴンブレスのような炎」
「ふむ、私だったらそれを目眩ましにしか思えませんね。人はなにか重大なことを体験しているときにはよく見紛いがちですから」
「俺のこの傷とそいつを見てまたそう言えるのか……理性的というか、現実に忠実っていうか」
悠慧は真っ直ぐに女の子に指差し、無遠慮に澪に鋭い視線を送りつける。
「でも、悠慧くんが言ってるんですから、私は信じますよ。悠慧も悪魔と踊った者でしょう? 何を見ても動揺しないほどの実力くらいは」
「そうだな。そいつを拾った前のことなんだけど、お前も心の準備をしておけ」
下に向いて俯いたまま苦笑いして、今朝に起きたことを話そうとする。
そのとき、もちろん見損なったのは天音が浮かべた厭悪混じりの痛心そうな顔色だった。
「分かっています」
一言の引き換えに沈黙に訪れ、そして、悠慧は語り始める。
度々お茶をもらい、その最中に時計の長い方の針もだるそうに文字盤を回る。
「……って、おいおい。なんだその顔は、今じゃ涼しい顔で喋ってるけど、あんときは必死こいてやってたんだぞ」
いい反応を得られるかどうかを迷って、それでものびのびと口数を費やして一部始終を語った悠慧は、途中まで手ごたえのある返事をもらえたが、最後はなんだかいまいちだった。
「いいえ、単純に悠慧くんは考えなしなとこが嫌いなんです」
「考えなし?」
「あの切ったら炎になる透明の壁です。それを刀でなぞってから通過する決断は確証を握って取った行動ですか?」
「というと?」
「要は、その壁を一度顕現させれば絶対に通り抜けるという証拠を持って、その火壁に突っ込んだんですか?」
「いいや……でもその
「つまり、確証なんてなかったんですね」
「まあ、そうだな……人を飛ばせたんだから、その時点でも固体じゃなくて流体って判断したんだ」
「そうですか、そのときは確かにそれが最善かもしれません……いつものことですし……あの魔法を使えるという坊さんは何か他の情報を掴めてませんか?」
全然自分の生死を心にかけない悠慧にやれやれといった調子で叱ろうとしていたが、なんと言っても無駄だと思い出し、そのつもりを投げ出すだった。
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