第3話 前編

棚端たなばたふみが“チェリーピンク”として宝石泥棒を退治したその翌朝、彼女は涙で濡れた目を覚ました。それから首元で紅玉が輝いているのを確かめた。

「...嘘つき」

 最愛の人をなじる日が来ようとは思いもよらなかった。

 一昨日の夢で、サイコースは確かに教えてくれた。「チェリーピンクのネックレスと文の右掌に埋め込まれた銀の鍵があれば、夜中に会える」と。こんなにも一昨日の出来事をはっきり覚えているのに、昨夜の記憶がすっぽり消えていた。夢を見たのかはっきりと思い出せない。

「文―、起きてるー?」

 何故サイコースに会えなかったのか考える時間はない。母の呼び声に文は仕方なくパジャマの袖で顔を拭い、制服の掛けてあるクローゼットに向かった。



「あっねこ!」

 朝食中、かすかに聞こえた高く短い声に、輝彦は窓の方を向いた。

「輝ちゃん内緒にしよって言うたやろ!」

 祖父の声にかぶせるように、今度ははっきり「ミャー」と聞こえた。

「野良猫?」

 文が箸を持ったまま立ち上がったので、祖母は白状することにした。

「昨日の夕方輝ちゃんとおじいちゃんとで見つけたんよ。アンタも絶対飼いたい言うやろと思ってね、秘密にしようなぁって輝ちゃんと決めたんよ。」

 祖母は猫が大嫌いなのである。

「どんな子?」

「茶トラのこねこ!」

 輝彦はシシャモを引っ掴んで椅子から飛び降りた。

「これあげてくる!」

「こら輝ちゃん!」

祖母の手をすり抜けて、「ぜったいおなかすいてる!」と叫んで彼はダイニングルームを飛び出した。

「もう輝ったら!」

 猫を捕まえる気満々なのを文は察し、弟の後を追った。姉としての義務感と言うより好奇心からであるが。



「ねこー!ねーこー!!」

 右手にシシャモを握っているので、輝彦は左手で鳴き声がした辺りの草むらを掻き分けた。

「もう行っちゃったんじゃない?早く戻ろう?」

こんな事してたら学校に遅刻するんじゃないかと文は思い直し、輝彦の手を引いて草むらから出ようとした。が、ちょうどその時ジャージ姿のランニング中の少年が通りかかったので、その足をすぐに道路から引っ込めた。相手もこちらを避けようとして体勢を崩し、転んでしまった。

「あぁっ、ごめんなさい!」

「ううん、君こそ大丈夫?どこかぶつからなかった?」

起き上がろうとする少年に手を貸して初めて、文は彼の顔を間近に見た。クラスで人気の大部戸おおべど君が洋画の子役っぽくてかっこいいタイプなら、この子は小顔で目がクリッとして女の子みたいに綺麗だなと、文はそんな印象を抱いた。

「おにいちゃん血ぃ出てる!」

 輝彦が叫んだので文はやっと見惚れている場合じゃないと気付いた。少年は半ズボンを履いていた為に、右膝を擦りむいていた。

「洗わなきゃ!」

 文は少年を無理矢理家の外に取り付けてある蛇口まで引っ張っていった。

「いやいいよ」

「よくない!バイキンが入っちゃう!」

 彼の膝が蛇口の下に来るように座らせた。

「私のせいだもの、これぐらいさせて。」

 蛇口をひねり、膝に付いた砂粒や小石を洗い流した。

「バンソーコー、アニマレンジャーのあげるね。」

 輝彦も彼の為にしたいことを申し出た。

「気持ちだけ受け取っておくよ。そろそろ帰らなきゃ。」

 少年は立ち上がり、蛇口を締めた。

「それじゃ、ありがとう!」

 濡れた足跡を残しつつ、彼は走り去った。

「気を付けてねー!」

 手を振る輝彦の手を引いて、文は玄関ドアに向かった。

「私達もさっさとご飯片付けないと!」

 輝彦が握っていたシシャモはとっくに潰れていた。



「ってなことがあったの。」

「まんま“プリンセスローズ”の出だしじゃん!」

 文の身に起きた事を少女漫画にたとえたリコリコこと榊坂さかきざか里湖理子りこりすは「そういえばねー」とスマホを取り出した。

「昨日の宝石泥棒ね、続報出たって!」

 真犯人は地球を侵略しようと企む「旧支配者」の「落とし仔」の一種である人間大の昆虫。昨日の放課後、「チェリーピンク」に変身した文が倒してしまっていた。だからあの後進展するハズがなかった。

「なんとね...盗まれた宝石、全部戻ってきたんだって!」

「ウソ!?」

 リコリコが見せたのは大手ニュースサイトで、そこには確かに盗品が被害にあった宝石店に戻ってきたという記事が掲載されていた。

「あれ?宝石店に返ってきたってことは、御凪さんのラピスラズリも」

 文はボーイフレンドからの贈り物を失くしたままの御凪佳世みなぎかよに、どういった慰めの言葉を掛けようか一晩中悩んだ。

「よかったねぇ佳世ちゃん!」

 男子の嬉しそうな声がしてリコリコは文の肩を叩き、教室の隅で立っている御凪佳世とそのボーイフレンドの方へ顔を向かせた。

「もうビックリしたよ木村君!朝起きたらこれが枕元にあったんだもの!」

 御凪は木村どころか教室中の者に見えるように、小さなラピスラズリのマスコットを掲げた。

「オレのケガも大したことなくってさー、やっぱすごいねー!パワーストーンって!」

「お前らいちゃつくのはいいけど、そろそろ本鈴鳴るぞー。」

 騒ぎ声にウンザリした中畑のツッコミに我に返った木村は、そそくさと二年三組の教室を出て行った。もちろん御凪に手を振りながら。彼と入れ替わりに本鈴と共に坂本先生が入ってきた。

「今日はこのクラスに転校生が来る。お行儀よく迎えてやるんだぞ!」

「イケメンかなぁ。」

 文の隣でリコリコの目が期待に輝いた。

「入っていいぞ。」

「はい。」

 坂本先生に促されて入室した少年を目の当たりにして、女子数人が――リコリコも含む――黄色い声を上げた。教室中にそれが響く中、文は驚愕した。

「静かにせぇっ!お行儀よぉ言うたやろ!」

 怒鳴りながら坂本先生は右肩上がりの癖字で黒板に「漆原又三郎」と書いた。

「今日からこのクラスの仲間になる漆原君だ。仲良くするんだぞ。」

漆原うるしはら又三郎またさぶろうです。皆さん、よろしくお願いします。」

 男になりつつある高めの声が室内に通り、そこでやっと女子の声が止んだ。彼の声に聞き入るためである。そのおかげでやはり彼が今朝のランニング少年だと、文は確信した。

「漆原の席は...山之内の後ろに用意しといたからな。」

 よりによってアイツの真後ろかよ、カワイソー、なんであんな奴の...等々、教室のあちこちでヒソヒソ声が交わされた。

 山之内美穂は団壱中学二年の間で学年ボスとして認知されていた。

同じ小学校出身者が言うには、気に入らない同性を何人か登校拒否もしくは転校させたことがある位その気質は陰湿で、大体の動機も「自分の気に入った男子と仲良くなったから」という思い込みからである。

しかも肩幅のわりに頭が大きくて顔のそれぞれの部品が大きいくせに自分は結構可愛い方だと思い込み、常に可愛らしい声を作ってはいるものの、それが周囲の女子を余計いら立たせている。

 面食いな彼女の新たな犠牲となるであろう漆原に文は心底同情した。

そんな事は露知らず、彼は言われた席にまっすぐ向かっていく。その最中に文と目が合うと、微笑んで彼女に会釈した。クラスの女子はほとんどが自分に向けられたものだと信じ、それ以外は愛想良い振る舞いをするものだなと感じた。

文が赤面したことに気付いたのは、リコリコだけだった。

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