紅玉乙女 チェリーピンク

貫木椿

第1話 前編

団壱市の四月某日土曜日午前六時、山を背負った形で建っている二階建て、棚端家の一室で悲鳴が上がった。

「うわっ!」

大変恐ろしい夢から覚めたふみは、自身の瞼を慌てて押さえつけた。夢の内容は起きた途端おぼろげになったが、今にも両目から血がこぼれ落ちそうな気がした。

文は手探りで自室のドアを開け、廊下に出た。室内に化粧台があるのも忘れて一階の洗面所に向かおうと、壁を伝って慎重に階段を下りて行った。前方で水音が流れ、続いてドアの開かれる音がした。

「おねえちゃんどーしたの?」

おそるおそる薄目を開けると、パジャマ姿の弟輝彦がいた。

「お姉ちゃんの目、どうもなってない?」

 文は輝彦の背丈に合わせて身を屈めた。彼の方はと言うと、しばらく姉の顔に見入っていたが、やがて小さな両手を彼女に伸ばした。

「ぶちゅぶちゅ」

 輝彦はニヤニヤしながら、ニキビが点在しつつある文の両頬を撫でまわしたのだった。

 文はしばらく呆気にとられたが、その内に可笑しな気分がこみ上げてきた。一つは自分の目が五歳児に怖がられるような事態になっていないと安堵したからで、もう一つはたかが夢に怯えていた自分が馬鹿らしくなってきたからである。

「この野郎!」

 あまりにも可笑しくて、思わず文は輝彦の両頬をつまんだ。力は加減したつもりだった。

「いだいいだいいだい!」



「アンタもじきにできるわ!」

輝彦の柔らかい頬を、祖母の吉子は突っついた。現在の文のように、彼女もかつては吹き出物に悩まされたものである。

「文ちゃんそんなことで輝ちゃんいじめたらアカンで!」

そう言いつつもにやけながら、祖父の源造は納豆を掻き混ぜた。

「折角の休みなのに皆起きてもうたやないか。」

新聞を広げていた父祐一は本日三回目の欠伸あくびをした。

当の輝彦はというと、申し訳なさそうにハイチェアの上にうずくまっていた。文に頬をつままれてワザと痛がって叫んだ結果、家族全員を起こしてしまったのである。

「もういいじゃないの。どうせ食べるの遅いんだから。」

母尚子が玉子焼きの載った皿を配るのを、文は手伝った。

「ぼくホットケーキがいい。」

「昨日も食べたでしょ。」

 尚子が彼の皿にまで山菜の煮物をよそうのを、輝彦は嫌そうに見ていた。

「輝ちゃんそれじいちゃんが頑張って掘ったさかい、残さず食べいや。」

「お野菜ちゃんと食べやんとね、大きくならんし、お姉ちゃんみたいにぶつぶつできるで。」

 輝彦がウーと泣きそうに唸りだしたので、文は今朝の行為に対するお詫びも兼ねて、助け舟を出した。

「それ全部食べ切ったらね、秘密基地に行こっか。」

「ひみつきち!」

 裏山の枯れ井戸は、文と輝彦の遊び場である。そこでグレートマンやらアニマレンジャーやらマジカルプリンセスやらのごっこ遊びをするのである。

「パタ連れて来ていい?」

 パタは文が初めて作ったぬいぐるみのフクロウで、今では輝彦にとって大事な遊び友達なのである。グレートマンやマジカルプリンセスの相棒代わりにもなる優れものだ。

「まだあそこに行ってたのか。」

「いいじゃん、私明日いないし。」

 呆れた父の眼差しを、文は味噌汁を配る手で遮った。

 中学二年生にもなって文がごっこ遊びを未だにやめないのは、弟のおかげである。望んでもないのに姉になった当初は戸惑った。両親はずっと二人目を望んでいて、祖父母にとっても念願の男児だったが、文だけは違った。親類中の皆――可愛がってくれた伯父さん伯母さんらが――輝彦に夢中になって、文はもうお姫様扱いされないのかと悲しくなった。ちゃんと面倒が見れるのかという不安もあった。

 しかし輝彦もテレビアニメを見るようになってからは、疎ましいとは思はなくなった。かつての文のように彼はアニメの真似事をしたがったが、両親ともに忙しく、祖父母もアニメについていけない。それで文は幼少期にしてもらえなかったことを、彼にしてあげたいのだ。「文ちゃんは弟に甘いなぁ」などと言われてもかまわない。彼女にとって輝彦は多分「あの人」と同じ位大事な存在となっていた。

「輝彦隊員、準備はよろしいか?」

 アニマレンジャーの出撃時のオペレーターよろしく文は輝彦に問いかけた。

「イエッサー!いただきまぁす!」

輝彦は朝ごはんを完食する任務に取り掛かった。



 姉弟は歯を磨き終わると、一階の輝彦の部屋で荷造りに取り掛かった。グレートマンの変身ベルト、アニマレンジャーのマシンのミニチュア、彼らの大事な仲間パタ等を次々手提げ鞄に詰めていった。

「おかしもっていっていい?」

 輝彦がビスケットの小袋の詰まった瓶を持ってきた。祖父はこっそり孫たちに菓子やお小遣いをくれるので、各々自室に隠しているのである。

「ちょっとだけね。昼ごはん入らなくなるから。」

 除菌用のウェットティッシュを取りに、文は隣の祖父母の部屋に続く襖を開けた。救急箱やらティッシュやらはそこの押し入れに置いてある。

「おねーちゃん、アレつけないの?」

「アレ?」

「あのピンクのハートついた、チョウチョのやつ!」

 それは輝彦がくれた食玩のペンダントの事だった。中学生の文がマジカルプリンセスのグッズが欲しいと言い辛いのを察したのか、彼がそれっぽい物を買ってくれたのだった。150円なんて幼稚園児にとって大金だったろうに。

「分かった、取ってくるわ!」

 文は二階の自室にも行くことになった。ルビーの首飾りも宝物だけど、着ける機会がなかった。


 幼い頃の文は平気で一人裏山に登ったものだが、輝彦の登山には必ず付いてきた。弟がやんちゃになって初めて、家族があれほど一人きりの外出をしないように度々忠告していたのか分かった。

 山の勾配はよくもまぁ就学前の自分が登れたもんだと思える程急だし、どこにでも転げそうな足場があるのだ。今迄危険な目にも合わなかったのは祖父の言うように「山神様」のおかげだというのも納得できる。

輝彦は手提げ鞄を振り回してずんずん前を進んでいく。いつの間にかもう片方の手には長い枝が握っていて、それを引き摺ったりバトンみたいに回したりしていた。

件の「秘密基地」こと古井戸はさほど高くない所にあり、周りに土の小山や小枝が散在していた。姉弟が組み立てた物の残骸である。

「アニマシャトル、とばそう!」

 輝彦は手提げからアニマシャトルを取り出して地べたに置き、小さな円を囲った枝で描いて囲った。

「飛ばすんじゃないの?」

「シャトルとばすとうをね、たてるの。」

どうやら彼は発射する為の塔を建てたいようだ。

「じゃあ発射する台みたいなのも作らないとね。」

 文はアニマシャトルを一旦どかして、円の中に土を寄せ集めた。てっぺんを平らにならしてシャトルを載せると、二人は枝を集めて発射塔を組み立てた。シャトルが飛ぶ仕組みはよく分からないが、それっぽい物を作ればよいのだ。

 そうしてやっと発射台に乗ったシャトルと同じ高さの発射塔ができたが、輝彦はシャトルを掴んで神妙な顔になった。

「どうしたの?」

「さん、にぃ、いちは?」

 アニマレンジャーはマシンを発射する際、毎度オペレーターによる指示に従わねばならないのである。

「オーケイ、では発射準備よろしいですか?」

「アニマシャトル、じゅんびよし!」

「了解!アニマシャトル、発射準備、3、2、1!」

「ゴーーーーー!」

 カウントダウン終了と同時に、輝彦は発射台からシャトルを持ち上げ駆け出した。

「ちょっ、どこ行くの!」

 思いのほか速く走る弟を、文は追いかけた。

「びゅーーーーーんっ!」

「待ちなさいって!」

あれよあれよという間に、輝彦は竹藪へ入って行ってしまった。文は頭の中で、彼が竹の子につまづく場面、竹に顔面をぶつけてしまう場面、その拍子にアニマシャトルを落っことして泣き出す場面を浮かべてしまった。

「てーるー!どこ?どこなのよ!」

見回している内に、彼女は竹藪の開けた場所に出て、黒い物体を見つけた。それは顔と腕を見つけなければ、人だと分からなかった。なにせその人物は、あまりにも現実離れした格好をしていた女だったのだ。

 青みがかった黒髪は非常に豊かで夜の森を彷彿とさせ、その上にあらゆる動物の角を集めたような形の銀の冠が君臨している。浅黒い肌に真っ赤な口紅、胸元が開いた深緑色のドレスは艶めかしく田舎に似つかわしくない。銀の帯を巻き付け腰かけた膝の上には、アニマシャトルを握ったままの輝彦が横たわっていた。

 なんと声をかけたらよいのか文が迷っているうちに、腰かけている女の方から口を開いた。

「あらお嬢ちゃん、坊やのおねんねを邪魔してはダメよ。」

その声は甘ったるく、馴れ馴れしさをまとっていた。

「この子いい子ね。連れて帰ってアタクシの子にしちゃおうかしら。」

 彼女が輝彦の頭をわしゃわしゃ撫で回すのを見て、文は恐怖と怒りとがこみ上げてきた。

「ちょっと、あんた何すんのよ!」

つかつかと文が歩み寄っても、女は涼しい表情を崩さなかった。

「あら、魔女たちの長たるアタクシにそんな口をきいていいと思って?」

“魔女たちの長”などと突然おかしな言葉が飛び出たが、確かにこの女はどことなく悪役の魔女っぽい気がする。それも永遠の命と美のために幼子の生き血を吸い続けている魔女。

「で、その“魔女たちの長”がウチの弟に何のようなのよ?コスプレパーティならヨソ行って!」

「この坊やじゃなくて、あなたに用があって眠ってもらっているの。あなたと、あなたの王子様のことでお話に来たのよ。」

 女が発した“王子”という単語に、文は言葉を詰まらせた。

「あらぁ、聞こえなかったのかしら?あなたの王子様が今大ピンチで、二度と会えなくなるかもしれないのよ?」

「大…ピンチ?」

 王子様と聞いて文が連想したのは、七歳の忘れられない誕生日だった。今や化粧台に仕舞ったままの“ルビーの首飾り”、それこそ文が“王子様”から貰った物だった。

「どうして私の王子様を知ってんのよ?大ピンチって何?捕まってんの?」

「落ち着きなさいな。」

「まさか弟を人質に返してやるってんじゃないでしょね!?」

 さっさと弟を返せと言わんばかりに文が差し出した掌に、女は銀の鍵を握らせた。

「アタクシがあなたの愛しい人を助けたのなら意味がないでしょう?ご自分で助けなければいけなくってよ。」

“魔女たちの長”は自らの帯をもてあそんだ。よく見ればそれは幾千幾万もの銀の鍵を束ねているのだった。

「王子様を助けたければその鍵をお持ちなさい。明日になれば分かるわ。」

 明日は日曜日。予定が入っていた。

「女の子にも戦わねばならない時があるから、勝負服はしっかり決めておくことね。明日、絶対ルビーの首飾りを付けてお行きなさい。きっと役に立つわ。」

「なぜ知ってるの?」

「アタクシはあらゆる魔術の始祖ですのよ。人の秘密を知るなんてお茶の子さいさいですわ。」

 この女は文が家族にも隠してきた宝物を知っていたのだ。

「本物の魔女だったのね。でもなんで私の手助けを?」

「今まで何人もの女を助けてきましたの。人の恋に協力するのは当然ですわ。」

“魔女たちの長”は眠ったままの輝彦を抱え直した。

「さて、そろそろご家族が心配しているわ。」

 文が輝彦を受け取った途端、“魔女たちの長”のドレスが地面に沈み始めた。

「あっあなたどうしたの!?」

「アタクシは森そのもの。魔女集会サバトといえば森でしょう。ご存じないかしら?」

彼女はみるみる内に草花に埋もれていった。

「アタクシの名はニグラッセ。また会いたければ、森にいらっしゃい。」

ニグラッセが冠の先まで埋まった途端、輝彦の寝息がうめき声に変じた。

「輝?目が覚めたのね?」

 彼が欠伸しながら大きく伸びをしたのを見て、文は安堵した。彼は姉の顔を認めるなり「ケーキ」と一言呟いた。

「ケーキがどうしたの?」

「ケーキどこいったの?」

彼は辺りを見回した。

「ぼくケーキの山にいたのに。ぼくケーキね、食べながらのぼってたの!」

「こんな所にケーキがあるわけないでしょ。今まで夢を見ていたのよ。」

「ちがうもん!ホントにあったもん!」

 いまだ夢見心地の輝彦は両手をバタつかせて喚いた。すっかり機嫌を損ねてしまったので、文は輝彦をおぶって下山せねばならなかったし、帰宅してからも彼はケーキケーキと喚き続けた。

 なので彼女は弟の昼食とおやつとで、ホットケーキを計二枚焼く羽目になった。

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