第1話 円照寺
大いなる自己によりて自己を向上させよ
自己を落胆させてはならない
なぜなら大いなる自己こそは自己の唯一の友であり
自己こそは大いなる自己の唯一の敵なのだから
「バガヴァッド・ギータ」第6章5節
見渡す限りかなり太い大木が生い茂る深い森をゆく。
もう陽があるというのにかなり暗く感じるほどだ。あたりには民家もない。
車が1台かろうじて通れるほどの細い山道をどこまでも登っていく。
と、右手に石段が見えてきた。
バーンは車をその前に止めると、ドアを開けた。階段の左手にある御影石でできた柱に寺の名前が記してあった。「円照寺」と。
続いて臣人も車のドアを開け、降り立った。
「結婚しての実家帰りと違うでぇ。やっぱやめて、テルミヌスに戻って一杯やらへんか?」
と、まだブツブツ文句を言っている。
バーンはそんな彼を一瞥すると階段を上り始めた。車を止めた下から見上げるとかなりの段数だ。100段、いや200段はあろうか。
(どう考えてもわいより、あいつの方が跡取りには最適やなあ。
しかし、珍しいな。あいつ、自分からじじいに会いに行くなんて。
ま、日本(こっち)に来てからずっと住みついてた場所やさかい。なつかしいったらええのか。)
はあ〜とため息をついて、臣人も小さく見えるバーンの後を追いかけた。
30段くらい先をいく彼に追いつこうと必死になって階段をのぼっていった。
幼い頃から登り慣れた石段とはいえ、2~3段抜かしでしかもスピードを上げていくと、太股の筋肉が引きつったようにパンパンになってくる。
おまけに腰まで痛くなってきた。
頑張った甲斐あって、ほぼ同時くらいに最後の階段に到達した。
「おまえ、早すぎやでっ!!」
が、何事もなかったかのような冷静な表情のバーンとは対照的に臣人は息がもうすっかりあがっていた。
「……」
バーンはそんな臣人をちらりと見ると視線を移した。
外界の余計な騒音は何も聞こえない。車の音も、人のざわめきも、何も聞こえない。
聞こえるのは梢を揺らす風の音。さやさやとまわりを囲む葉擦れの音。
自然の織りなすささやかな音だけが耳に届いていた。
懐かしそうにこの澄んだ空気を吸い込んだ。
夏だというのに、凛と冷え切った涼しい空気が緑のにおいと一緒に肺に入ってきた。
大きな門構えの奥には質素な造りではあるがどっしりとした金堂と勤行堂が見えた。
柱や建物の風合いから、随分と長い年月を経ているという印象を受ける。
臣人は両手をひざにつけ押さえ、息を整えると上半身を起こした。
と、目の前には灰色の絣の着物を着た老人が立っていた。
頭は臣人のように坊主であるが、白いあごひげをたたえた細身の老人である。
この寺の住職でもあり、臣人の祖父でもある葛巻國充であった。
國充がそのひげをなでながら、臣人を見ていった。
「やっと来たか。」
その言葉にムカッときたのか臣人が、ついに口火をきって反撃した。
「人の顔見て、ひとことめがそれかい。どういゆー言いぐさやねん。」
いつも温和そうに振る舞っている臣人にしては珍しく、喧嘩腰の発言だ。
「だいたい戻ってこい言うたのはそっちやろ。勝手な言い分でわいらを振り回すのやめてほしいなっ。」
國充の顔をサングラス越しに真っ直ぐに睨みつけていた。
それに負けじと國充も臣人を睨みつけた。
どうやらこの祖父と孫は犬猿の仲らしい。
その様子を驚くふうでもなくバーンは横で眺めていた。
「勝手な言い分?」
ピクリと眉を動かして、國充が聞き返した。
「違うんか?」
喧嘩をうるように臣人は首を傾けて、肩を斜めに突き出した。
「坊主が勤行するのは当たり前じゃろうが!」
國充の顎を撫でていた手が止まった。
「今のわいに坊主の仕事より教員の仕事を押しつけたのはそっちやろうが!それで文句を言われても、お門違いやろ?ああ?」
「普段ならそんな無理なことは言わん。夏休みに入ってもうずいぶん経つ。いつまでもいつまでも遊び呆けておるからそうなったんじゃろう。」
「知るかい。」
「なんじゃと!」
声のトーンが会話を重ねるごとにどんどん上がってくる。
二人とも大声を張り上げていた。
「この礼儀知らずがっ」
「そんなん今に始まったことやないし昔からやろー。今更言われたって変わるわけないしな。」
臣人はペロッと舌を出した。
「どうしてお前はああ言えばこう言う。かわいげのない。」
「誰かさんに似たんやろ?それにかわいいなんて思われとうもないわぁっ!」
「もう少し孫は孫らしく振る舞おうとは思わんのかっ」
(孫か。)
その言葉に臣人は少し複雑な顔をした。
ここ円照寺は確かに自分の生家であり、生まれ育った場所だ。目の前にいる人物が、ここまで自分を鍛え育ててくれた。それは間違いなかった。間違いないことであったし、変えようのない事実であった。が、
「へっ」
臣人は唾を地面に吐き捨てた。真実を語るその言葉を投げ捨てるように横を向いて吐き捨てた。國充に向けるこの感情が間違ったものだとわかっていた。
わかってはいたがどうにもならなかった。
「くそじじい。」
ボソッとつぶやく。
実に反抗的な素振りで言い放った。
バーンはまたいつものことが始まったくらいの顔つきで静観していた。
しかし、いつもの喧嘩よりひどくなりそうな予感がした。
この二人は寄ると触るとこの調子なのだ。
バーンが初めて日本に来て、ここで生活していた時からずっと。
「何!?」
「くそじじいって言うたんや。」
國充は腹立たしい思いに堪えた。わざと挑発する臣人の思惑にのろうとはしなかった。臣人は待っているのだ。わざと怒らせて、『お前のことなどもう知らん。出ていけ!』と言われることを。そうして祖父の呪縛から逃れたいという思いもあった。
祖父・國充は自分に何を望んでいるのだろう?なんのために自分をここで育てたのだろう?
修行という名の厳しい修練の日々。
幼い頃は何も考えずに当たり前と思っていたこと。それがある日、当たり前でないことを知った。いやな雰囲気の空気があたりに流れる。
もう一触即発で取っ組み合いをしそうなくらいに臣人と國充はにらみあっていた。
と、急に金堂の裏の林から、バサバサッと何かが飛び立った。
バーンは思わず空を見上げた。
そびえる大木の間から青空に翼を大きく広げた鳶の影が見えた。
上昇気流にのって天高く舞い上がっていった。その気配を知って、國充は臣人とやり合うことをいったん退いた。バーンもいるのを気遣ってのことであろう。
ちょっと表情をゆるめながら、独り言のように呟いた。
「孫…か。」
「?」
「かわいい孫というのはな、もっとこの年老いた祖父のことをいたわるできたヤツのことを言うんじゃ。」
口ではこんな事を言いながらも、國充の臣人を見る目はやさしかった。5ヶ月ぶりに会った孫を見る目は今までと変わっていなかった。愛おしそうに、まるで息子見るような目だった。臣人は意味もなく頭をかいた。
國充にそれ以上は言ってほしくなかった。今まで通り反抗的な孫でいたかった。
手をやかせられるかわいくない孫でいたかった。このまま距離を置いた関係でいたかった。
「まったく、どこをどうするのこんなかわいくない孫になるのやら・・・。」
小さくため息をつくと、困ったように言った。臣人も國充に背中を向けるとプイッと歩き出した。
「先、いっとるで、バーン。」
おもしろくなさそうな顔で臣人が言った。
彼にしては珍しい反応だった。
右手をパタパタと上下に動かすと振り返りもせずに、國充達から離れていった。
バーンは彼の背中を見送った。
姿が見えなくなり、しばらくすると國充が口を開いた。
「まったく、あれは直らんな。」
國充は頭を抱えた。
「……」
無言のままでそんな彼を見つめていた。
その視線に気づき、國充もバーンの方に向き直った。
「すまんな、いつものこととはいえのぉ。」
「…いえ。」
表情を変えることなく、短く受け答えをした。
「それにしても、よく来たな、バーン君。5ヶ月ぶりじゃが、元気でやっているようじゃな。」
國充はバーンの顔を見ながら笑った。
「……」
バーンは伏せ眼がちに、足元を見た。
「ここはお前さんの『家』なんだからゆっくりしておいで」
バーンはドイツから日本に戻った頃を思いだしていた。
3年間の魔術修行を終え、臣人に導かれるままに円照寺に住みついた3年前。
あの頃の自分を思い出していた。
「はい、お世話になります」
「あのバカには、また後で話をすることにするよ。」
あきらめの悪そうな口調で、國充は自分の頭を平手で数回叩いて見せた。
バーンは不思議に思っていた。
臣人は國充の前ではいつも必要以上に感情的であるということ。
大袈裟に振る舞っているようにも見えていた。
國充と臣人のあいだに何があったのか知るすべも聞こうとも思わないが、どうもしっくりこなかった。
臣人も國充のことを自分の祖父であるということ以外、バーンに話そうとしなかった。
(臣人も俺にも言えない…言いたくない過去があるんだろうな…。当たり前のことだけど。
ラティ。今でもつくづく思うよ。人が生きていくって、難しいことなんだって。
必ず…誰かと関わらなくてはならない。
必ず…誰かに関わってしまう。
誰も傷つけずに、傷つかずに生きていくことは…)
「それはそうと学院の方はどうかね? 教員生活も慣れた頃かのう?」
考え込み、黙り込んだバーンに國充は違う話題を振ってきた。
臣人のことで頭が一杯になっていたバーンは、少し驚きながら答えた。
「まだ、迷ってます。本当にあそこにいて、人と関わっていっていいんだろうかって…」
片目をつぶったまま國充はバーンの方をちらっと見た。
バーンは遠い眼をしながら、杉林を見上げた。
「まだ、答えは出んか」
「えっ?」
國充の言葉を空耳かと思い、眼を見開いて聞き返した。そんな彼の両眼を國充は覗き込んだ。きれいな、穏やかな色の蒼い瞳が見えた。
「ふぁはっはっは。こりゃたいした成果だ。」
國充に一笑されても、何がなんだかわからなかった。
バーンは首を傾げた。
「いや、すまん。そんなに自分を卑下するもんじゃないぞ。お前さんも普通の人間なんじゃから、迷って当たり前じゃ。」
「普通の人間…?」
『普通の人間』
自分のことをそう思ったことなど生まれてこのかた一度もなかった。
この言葉はもっとも縁遠い言葉だと思っていた。それを國充はあえて使った。
眼を丸くしているバーンにこうも続けた。
「そうじゃ、いくら強力な『魔力』を持っていたところで中味は儂らと同じよ。」
「……」
「楽しいことがあれば、笑えばよい。つらいことがあれば、泣けばよい。迷うことがあれば、迷えばよいのじゃ。」
「!」
(ラティ…)
かつて、彼女もこんな事を言っていたことを想い出してしまった。
今はもういない彼女の遺した言葉を國充の口から再び聞こうとは思いもしなかった。
あれはちょうど兄の訃報を知って間もない頃だった。
「あの
バーンに聞こえないほどの大きさで独り言を呟いた。
「……」
「お前さんにも夏休みは必要じゃよ。とにかくゆっくり心を解放して、休養するといい。」
「……」
「儂の張った結界はお前さんの『力』でもちっとやそっとでは破れんしの。逆に言えば何もお前さんにちょっかいをかける者も来ぬ。」
豪快に笑って國充は、両目を閉じた。
バーンはしばらく黙ったまま何かを考え込んでいた。
(心の解放か。確かにそうかもしれない。
これだけ『聖別』されている場所なら四大精霊を全て召喚しても)
「…ひさしぶりに裏山に入ってもいいですか?」
國充の言葉にバーンは心を決めた。
「ああ、好きなくらい行っておいで。ただし、」
ぽんっとバーンの肩を叩いた。
「……」
「
そう言うと國充は金堂の方へと歩きはじめた。
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