陸(おか)に上がる
事の次第。
「私、真奈絵に謝らないとなぁ」
そう言ったのは由佳子だ。
時は少し戻って、十一月の中ごろ。
オフィスの近くのいつもの居酒屋で、いま私たちは「おめでとう」「ありがとう」の乾杯をしたところだ。
二人でこうして飲むのは、久しぶりだった。
「謝るって? 何かあったっけ?」
「いや、正直なことを言うと、少なくとも今年も、真奈絵が結婚することはないかなぁって思ってた」
そんなことを言われても、今の私は笑って受け流せる。
「なんで? 今年の私はすごかったんだよ? 磁石みたいにいろいろ引きつけちゃって」
「でも、最後に訊いた時も、『全然ダメそう』って言ってたじゃない?」
「それって、いつごろだった?」
「夏? 真夏のころかな? その後も、いい知らせ、まったくなかったし」
そう言われて夏ごろのことを思い返してみるけれど、考えてみれば私だって、実際にこうなってみるまで、自信を持って結婚へ向かっていると思えた瞬間なんてあったんだっけ?
むしろ、一番、結婚しそうだと思えた瞬間といえば、「次回は寺山の部屋でデート」となった時だった。
それすら、保険に手を付けようとするくらいの窮地の中で思ったのだから、順調にうまく行っていたとは言いがたい一年だったことは確かだ。
「で? いったい、いつどうやってこうなったの?」
もっともな質問だ。
「うん、昔、合コンでカップルになってすぐに消えちゃった人がいたんだけど、その人が八月の終わりにいきなり『もう一度つき合おう』って言ってきて、秋にかけて二、三回デートして……」
「何、それ? 聞いてないよ? クマさんと、牛だか馬だかとの闘いじゃなかった?」
「うん、そこに急にその人が参戦してきたのよ。で、あっという間の展開で……」
私は、寺山が現れてからの事の次第を詳しく話した。
十月の終わり、寺山とのデートの日。
次は部屋に遊びに来てと言われて、私は「彼と結婚することになるのかな」と漠然とではあるけれど現実のこととして意識した。
そのあと、立ち寄った友だちの家から自宅に帰って、いつものようにパソコンを開いて高野のSNSを見たのだけど、この日はいつになく、彼の書き込みにただならぬものを感じた。何かの決定を下さんとして悶々としてるような。
——いま電話しなくちゃ駄目だ!
なぜかそう直感して、私はいても立ってもいられなくなった。
でも、それまでこちらから電話したことがないばかりか、向こうからかかってきたことも一度もなかった。
そんなんで夜に唐突にかけても、出てくれないんじゃないか。高野は忙しい人だから、単に出られないということもあるかもしれない。理由がなんであれ、とにかく電話が繋がらなかったら、そのこと自体でまた自分がかなり落ち込むだろうとも思った。
そうやってしばらく葛藤するも、やっぱり「今なんだ」という思いは拭えなかった。今を逃したら、今日のSNSの書き込みをまたずっと気にし続けることになる。そっちの方が耐えられそうになかった。悪いニュースなら、なおさら先延ばしせずに、このタイミングで片付けてしまいたいと思った。
これまでの宙ぶらりんで曖昧な状態に終止符を打つんだ。今ここで答えを出すんだ。
——なぜかこの時は、そこまで思い詰めたのだ。
電話が繋がらなかったら、そういう運命。私は寺山と結婚する、と。
「どういうわけか、そこまで思っちゃってね。一か八か電話したわけ」
食べ物にも飲み物にも触れず、黙って聞いていた由佳子が、先を促すように大きく頷いた。
「そしたら、なんと、出てくれて。逆にびっくりしてね。急に怖じ気づいて」
なんでよ……と由佳子が笑う。
「だって、よくない宣告を受けると思ってたから」
「そのSNSに、何が書いてあったの?」
「『何』っていうのは、具体的には書いてないのよ。ただ、何かを決心した、みたいな感じだったの」
由佳子はよくわからないという顔をして、やっと焼酎お湯割りを一口飲んだ。
「それでこっちも、『私を切るなら、いま切ってくれ』って思って、切られる覚悟で電話したみたいなもんだったの」
「で、何て言ったの?」
「えいやで電話したから、ちゃんと考えてなくて……『SNSを見たんだけど、あれは私に関係ありますか?』って」
由佳子は、ふぅんと小さく笑った。確かに、我ながら変な質問だった。
「そしたら高野さんもちょっと驚いて、勘が鋭いですねって言ったの。『内容、訊いてもいいですか?』って言ったら、こんなタイミングで言うつもりはなかったんだけど……って戸惑ってるみたいで、う〜んとか迷った結果、『じゃあ、訊かれたから言っちゃいますね』って。その時はもう心臓の音が時限爆弾の時計みたいで、緊張で倒れそうだったんだけど……『北沢さんに決めました』って言われたわけ」
「いゃー!!」
由佳子は素っ頓狂な声をあげた。
「いきなり、すっごいストレート!!」
「うん、私も想像と真逆だったから、『へっ!?』ってなって。あの時ほど、青天の霹靂って言葉がピッタリだったことないよ」
「そんなに脈ない感じだったの?」
「うん。向こうからは会おうって言わないし、惰性で何となく会ってくれてるだけなんだと思ってたからね。そういうのって、いつまでも続けてられないだろうし、メールもうるさがられてるかもっていつも気になってたし。だから、私のことで勝手に何か決心するとしたら、『もう、そろそろ会うのはやめよう』ってことかなぁって」
由佳子は、解せないといった表情で言った。
「そんな状態から、どうして急に変わったんだろう!? 実は前から、真奈絵のことちゃんと考えてたってことかな」
「えー、そうは思えないけど、どうなんだろうね? まあ、そのうち訊いてみるよ」
というわけで、その電話のあとは高野の方からどんどん話を進めてきた。
籍も年内に入れることになって、先に婚姻届を書いてくれている。
年内にと急いだのは、できれば誕生日が来る前にと、私が希望したからだ。一つでも若い年齢でという、最後の悪あがきだ。今さら、山辺の彼女の気持ちがよくわかった。
高野の両親にはお正月に挨拶に行く予定で、結婚式は同居して落ち着いてから挙げる。
「以上っ!」
話し終わると、私は箸を持って、この居酒屋のお気に入りのメニュー——焼き魚とか、お刺身とか、唐揚げ、サラダなどなど——を、精力的に口に運び始めた。この店には、あと何回も来られないだろう。
しばらくすると、同じく黙々と食べていた由佳子が、ふと箸を止めて言った。
「さびしくなるなぁ」
「ちょっと待って。もしかして、泣いてる!?」
由佳子は本当に涙ぐんでいた。
「これはうれしくて泣いてるの。諦めなくて、本当によかったよね。行っちゃうのはさびしいけど……」
「電車に乗れば、すぐ会えるよ」と、私は鼻の奥がツンとするのを堪えて言った。
年が明けて仕事が一段落したら、私は高野のところに引っ越すことになっている。
南の島ではないけれど、私にとっては彼のいる場所が南の島だ。たとえ、それがアラスカであっても。
彼のそばが一番温かくて、一番幸せな場所なのだ。
私はそこで、これからも仕事を続けていくだろう。彼も賛成してくれている。
「それにしても、こういうのを運命って言うのかねぇ」
由佳子が感心したように言った。
「だって、保険の人とデートした日と、その電話をした日が同じ日だったんでしょう? 一歩間違えたら、保険の方と結婚してたよね」
まったくそのとおりだった。
「ほんとにそう思う。あの日、帰ってからSNSを見なかったら? 見ても、何も感じなかったら? いま電話しなきゃって思わなかったら? 電話しても、彼が出なかったら? って、一個ずつ考えていったら、ゾッとする。もしも、寺山さんの部屋に行って深い関係になる方が先だったら、違う結果になってただろうなって。ほんとに危なかったよ」
「でも、きっと、なるべくして、こうなったんだよ」
そう言って由佳子はジョッキを持つと、私のグラスに軽く打ちつけた。
「本当に、おめでとう!」
私もグラスを持って笑顔で応えると、二人で気持ちよく中身を飲み干した。
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