三つの選択肢。
九月のある日曜日。
私は髪を洗い、束ねてクリップでアップにした。それから、ていねいに洗った体に湯浴み着をまとう。
持参した小さめのタオルを持つと、浴場内の階段を注意深く上がり、重いドアを開けて混浴の露天へ出た。
天気がいい。濡れた裸足の足跡もすぐに乾いていきそうなくらい、床面のタイルが温まっていた。
そこだけ屋根のついた大きな浴槽へ向かうと、私に気づいた寺山がお湯から少し浮き上がるようにして、手を振って合図してきた。
浴槽の手前で、お湯をすくって足元に軽くかける。手すりにつかまりながら足を差し入れると、寺山が近づいてきて、支えてくれるようなしぐさをした。
「どう、すごくいい所でしょう?」
「うん、洗い場もきれいだったし、お湯もいい感じ」
体を沈めて、少し色のついたお湯を手のひらに溜めて見ながら、私は言った。
「実は、混浴って初めてなんだ」
「え、そうなの? 行き慣れてるのかと思った」
「温泉自体、そんなに行けないから。友だちもみんな、車ないし。混浴だと、こうやっておしゃべりできるからいいよね」
「だね」と言って、寺山は手で顔の汗を拭った。
「俺は、昔はよくバイク仲間で来たな」
「へぇ。女の子もいっしょに?」
「うん。それなりの人数集まると、数人は女子が混ざってたよ」
「その中に、彼女とかいたんでしょ?」
「まあ、時にはね」
笑いながらそう言うと、寺山は立ち上がって、浴槽の縁に座った。
それほど上背はないのだけれど、胸板がやけに厚く、筋肉も引き締まっている。バイクに乗ってるせいだろうか。
ちょっとドキリとして、目を逸らした。マニキュアが剥がれてないか点検するふりをする。いつもは入浴前に除去したりもするけれど、今日は温泉のためにわざわざ塗り直してきた。ペディキュアもだ。
まだ、夏に必ず海に行っていたころを思い出す。こうやって手足の爪を念入りに彩っていたものだ。肌を見せる時の、唯一の大事なお洒落として。
すっかりリラックスして、お湯の中で浴槽の壁にもたれると、縁に頭を載せて目を閉じた。
「はぁ、気持ちいい……」
思わず声が漏れる。
少しして、寺山の気配がなくなったように感じてそっと瞼を開けると、膝に頬杖をついて、じっと私の顔を見ていた彼と目が合った。
「やだ、なに?」
慌てて身を起こすと、「別に」と寺山もお湯に入ってきた。
ここに来るまでのドライブで、寺山はさらに距離を詰めるべく、自分のことをどんどん話してきた。今やってるファイナンシャルプランナーの仕事の詳細や、比呂子さんに紹介してもらった販売の仕事は自分には向いてなかったこと、毎日どんな感じで生活してるか、バイクに乗らない日は何をしてるか、好きな食べ物と嫌いな物……。
そうやって自分のことを話しながらも、必ず「北沢さんは?」と訊いてくれる。
合コンで、私の何がよかったのかも説明してくれた。
「歳のわりに若く見えるよね。それに、声がいいんだよ、北沢さんは」
「それは、どうも」とお世辞半分に聞いていたけど、悪い気はしない。そういうところがうまいなぁと思う。何か裏があるんじゃないかというくらい、パーフェクトなオトコだ。
そして、温泉に着いて車を降りる前に、「あ、これからは下の名前で呼んでもいいかな……真奈絵さん」と言った。
「あ、どうぞ」と答えると、すかさず「俺のことは、勇人ね」と言った。「それから、もう敬語はやめよう」とも。
お湯の中で、顔に玉のような汗をかいている寺山に、突然訊いてみたくなった。
「寺山さん、モテそうなのに、どうしてまだ独身だったんですか?」
「だから、勇人だってば。また敬語になってるし」
「ごめん、勇人……さん」
ためらいながら口にすると、寺山は満足したように頷いて言った。
「徐々にでいいけど、最終的には呼び捨てね」
私も頷きながら、その前にくん付け段階がほしいな、などと考える。
「俺の独身の理由? わかんないよ。気づいたら、こうなってた。真奈絵……ちゃんは?」
また詰めてきた……と思うと、可笑しくなった。このわかりやすさが、むしろ気持ちいい。
「なに?」と、寺山が訝る。
「ううん、別に。私もそう。気づいた時には、こうなってた」
「こういうのは、巡り合わせとかタイミングとか、いろいろあるしね」
寺山は呟きながら、勢いよく立ち上がった。
「俺、もうのぼせそうだから、先に行くね」と言って浴槽を出ると、「真奈絵ちゃんはゆっくりでいいから。ロビーで待ってるね」と言い残して歩き出した。
気遣いを絵に描いたようなオトコだ。腰にタオルを巻いただけの無防備な格好が、似つかわしくないと思うほど。
私は、彼がドアの向こうに消えるまで後ろ姿を見ていた。ふと、比呂子さんと寝てたんだよね、と思った。
私はいったい何をしてるんだろう。
一人になって、急に我に返った。
高野が好きでたまらないのに、こんな所でのほほんとお湯に浸かっているなんて。
まるで、ここが婚活の海であるかのように、必死で泳いでる自分の姿が思い浮かんだ。実際、戯れに手足を動かしてみるけれど、お湯が重たくてうまく動かせない。
伸ばした指先に、届きそうで届かない高野の後ろ姿が見える。浴槽の底からは、寺山が鮫のように浮かび上がり、私たちを猛追してくる。水中を足で蹴って、そのイメージをかき消そうとすると、お湯が不規則に揺れて、体を持っていかれそうになった。慌てて浴槽の縁につかまって、波がおさまるのを待つ。
もし、この手が高野に届いて、二人で海から上がることになったら、私は寺山に比呂子さんと同じことをしたことになるのだろうか。
一方、寺山とこのままどうかなったら、高野はどう思うだろう。私のことをいまだに特別に思ってくれてるんじゃないとしたら、「あぁ、そうですか」で終わりそうだけど。
考えていたら、私ものぼせそうになってきた。
お湯を出ながら自分に言い聞かせる。今はまだ検討段階なのだから、馬鹿正直に義理立てしていたら、成るものも成らない。
比呂子さんは「遊んで飽きたらポイ」だったかもしれないけど、私は真剣なのだ。引き寄せたものをありがたく受け入れ、その中で誠意を持って吟味するのだ。
ドライヤーで髪を乾かすころには、方針は固まっていた。
本命は高野。寺山は保険で、最後の頼みの綱は福地。
このところ高野の尾びれしか見えてなくて息が苦しかったけれど、選択肢が増えることは余裕に繋がる。
胸の中に三つの名前をあらためて書き付けて、私は女湯を出た。
帰りは寺山が家の前まで送ってくれた。もしかして、「寄っていかない?」なんて私が言うのを期待してるかなと思ったけれど、まだ初回だし、こちらからそこまでする気もなかった。
降りる時、「次はタンデムね」とまた寺山が言った。
それには答えず、「連絡、待ってます」とだけ言って、手を振り合って別れた。
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