豹変。

『マージナル・チャイルド』


「北沢さん、貴女は何か誤解しているようです。

 大いなる勘違いです。


 僕は貴女のことを好きだとは、一言も言ってませんよ。

 ただ、こんな年下の僕にまですがってくるくらい

 婚活で困っているみたいだったから、助けてあげようと思っただけです。


 僕は、貴女に自信を持たせてあげられると書きました。

 それって、貴女にはメリットがあるけど、

 僕には何のメリットもありません。

 それでも貴女のことを考えて、そうしてあげると言ったんですよ。


 僕に上手く伝わらなかったと言ってますが、

 貴女の文章は掴みどころがなく、わかりづらいので、

 僕もいささか疲れてきました。

 メールの該当箇所を探すにしても、

 これまでのたくさんのメールをさかのぼって、

 なおかつわかりにくい表現の意味を推し測らなければならないのです。

 そんな大変なことをする気になれません。


 貴女の方がいつも時間を空けてメールを寄越しており、

 それによって、ここまでだいぶ時間が経つことになったのに、

 貴女の方から『時間のロス』などという言葉が出たことも驚きです。

 貴女の言動は、通常の理解の範囲外にあり、

 仕事ではそれなりの文章を書いてるのかもしれませんが、

 自分自身のことを伝えるのはあまり上手くないようです。


 だから僕は再三、メールではなくて、

 電話や、直接会って話しましょうと提案したのです。

 ここまで来てなお、電話番号を教えたがらない猜疑心の強さも問題です。

 ジェンダーを言い訳にするのも無理があります。

 マイペースもワガママもほどほどにしないと、

 男女関係なんて成立しません。

 まあ、それがあなたのアロガンスということなのでしょうが。


 そもそも、恋愛からの結婚がしたいと言いながら、

 貴女は南の島がいいだの、居住地なんかにこだわっている。

 ずいぶん矛盾がある人だと思いました。


 しかも、そんな大事なことを最初から言わないなんて、

 まるで後出しじゃんけんじゃないですか?

 男が地元を捨てることの意味がわかりますか?

 そんな大それたことをさせるなら、

 貴女にもそれなりに差し出すものが必要なのですよ。

 愛とは、自分も傷つく用意があるということです。


 最初から、貴女は面倒くさい人ではあると思ってました。

 一カ月ももったいぶってなかなか会おうとしないし、

 待ち合わせでもとんでもない誤解をするし、

 会う場所も街の中がいいなど、変なこだわりを見せていたし、

 もう会ってるのに携帯番号を教えないのもおかしい。


 だいたい見当はついていたんですけど、

 やっぱり僕の勘どおりの人でした。

 僕は小学生の時に生死の境をさまよう体験をして、

 頭の回転が速くなりました。

 それが、こういう時には役に立つのです。

 最初の勘に従わなかった自分にも責任はありますが、

 僕が上手く導けば、貴女を少しはまともに変えられると思ったんですよ。


 人のことはもちろん、自分のことすらわからない人が、

 アラサーにはよくいますよ。

 自分の浅い経験値だけで物事を判断できると思ってるヤツ。

 そのレベルで僕の何がわかる? ってヤツ。

 そんなのばっかりです。


 だから、僕はアラフォーの貴女に期待してしまった。

 その失敗にもっと早く気づくべきでした。


 貴女は、かなり子供っぽいところがありますね。

 はっきり言えば、まるで駄々っ子のようです。

 アラフォーの次は、あっという間にアラフィフになってしまうんですよ。

 一度、ご自分の年齢を噛みしめてみたらいかがですか。

 ワガママ言って、選り好みしてるような余裕はないと思いますけどね」



 読み終わった時、もう「マージナル」の意味を調べようとも思わなかった。

 はらわたが煮えくり返ると同時に、これまでの人生でもなかなか感じたことがないほどの絶望感で、体がねじり上げられるような錯覚を覚えた。噛み合わないにもほどがある。


 こんなにも、何もかもズレた人がこの世にいて、これでもかという辛辣な言葉を勝手に投げつけてきてるという現実を前に、身も心もどこにも持って行き場がなく、私はしばしその場で固まっていた。背中が引きつれて息が苦しい。


 このメールの着信に気づいたのは、家に帰ってからだった。

 仕事が休みだったのか知らないけど、川崎は私の昼間のメールを読んですぐに、これを書いて送ってきたようだ。


 掛け時計のカチコチという乾いた音が、部屋に響いている。

 その音のリズムに合わせるように、私の頭の中には「どうしてやろうか」という思いが積み重なっていった。


 できれば、投げつけられた言葉のすべてを、そのまま投げ返してやりたい。


 そこでハタと考える。

 川崎が私に書いてきたこと……勘違い、誤解、わかりづらい文章、理解不能ぶり、マイペース、自分よがり、傲慢、矛盾、面倒くさく子供っぽい性格、変なこだわり、自分のことも人のこともわからない浅い経験値……。どれをとっても、私が川崎に言ってやりたいことばかりだ。

 もしかして、自分が言われそうなことを先回りして相手に投げつけたってことなの? それで自分への攻め手を封じようって魂胆?


 だとしたら、やはり多少なりとも頭はいいということなのだろうか。知恵の使いどころは間違えているけれど、そうやって必死にプライドを守っているようにも見える。


 逆に、まったく自分に非がないどころか、私のことをここまで考えてつき合ってやったのだから、私が感謝して従うのが当たり前で、拒否するなどもってのほかだと心底思ってるとしたら、相当な勘違い野郎だ。頭がおかしいか、他者への想像力皆無で、人間関係の築き方がまるでわかっていない。かなり重症だ。

 男女間の個人的な関係だからまだ許されるとしても、このオトコは仕事でちゃんと人間関係が築けているのだろうか、と心配してしまうくらいだ。


「どうしてやろうか」——自問はさらに続く。

 こんな理不尽な目に遭ったことが納得いかない。このまま引き下がるのでは、私の腸の沸々がおさまらない。

 けれど、すでにこんなに心身にダメージを受けていることを思えば、何か言い返して傷口を広げるのも得策じゃない。相手がエスカレートしないとも限らない。


 悔しいけれど、スルーするのが賢い対処なのかもしれない。


 おさまらない気持ちを抱えたまま、私はノロノロと腰を上げ、パソコンの前を離れた。



 翌朝、驚いたことに、またメールが入っていた。

 出勤前に読んで、また固まってしまったら、仕事に差し支える。

 それに、読まなければならない義理もない。帰って来るまでに、読むかどうかも含めて保留にしよう。そう決めて家を出た。


 タイトルは『愛のオントロジー』となっていた。

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