一色の世界と君に

一色の世界と君に

「愛してる」


 彼女――高条真奈の最後の言葉は私への愛の言葉だった。喜んでしかるべきその言葉も私が地上を見下ろし、床に叩きつけられた彼女を見れば意味なんて考えられなくなってしまう。――私は、この屋上から動かない遠くの真奈を眺めることしかできなかった。

 目撃していた誰かが通報したらしく、気が付いたときには学校は喧騒に包まれていた。いや違う。喧騒の中に私はいなかった。騒がしいのは私の世界から少しだけ離れた、遠く。私は重要な目撃者、ということで警察の人、先生たちと学校のどこかの部屋に座っていた。どこかは知らない。部屋に入った覚えすらなかったからだ。見覚えがないということは普段使われていない、もしくは生徒が使うことはない場所か。外の風景、騒がしさからまだそれほど時間が経ってはいないはず。そこまで考えてふと、ようやく短時間私が気を失っていた、あるいは正気を逸脱していたのではないだろうか?ということに思い至る。


「大丈夫…ではないか。もう少し安静に、と言いたいが入り用でね。何が起きたかはわかっているかい?」


 声がした方を向くと恐らく警察であろう人が立っていた。男だ。正直ヤクザと名乗られても納得してしまう風貌をしている。だがそんなことはどうでもいい。一番聞きたいことを聞く。


「……真奈は生きてますか」

「…即死だ。救急車にも乗せようがない状態だった」


 ちょっと!と叫ぶ声が聞こえた気がしたが気にならなかった。生徒はデリケートで…とも言っているような気もした。

 悲しみ。それから何重にも逸脱した感情を抱えている。言語では表せそうに無い。

 昨日の夜のことを思い出していた。いつものように真奈とメッセージアプリでやり取りをしていたはずだ。真奈が話しかけてきて、私が相槌を打つ。その瞬間は楽しかったし、かっと真奈もそうだったに違いない。彼女の笑顔が瞼の裏でなくても浮かんできた。何の違和感も感じなかった。いつも通りの真奈だった。現状を思いやる。

 何故、こんなことを?理解ができない、意味がわからない、辻褄が合わない。屋上に呼ばれた時も、「そんなことを言うなんて珍しい」とは思ったものの、特別おかしい訳ではなかった。私と真奈はクラスが違ったが、部活が同じで非常に仲が良かった。最近は一緒にお昼ご飯を食べることも多く、「屋上で一緒に食べよう」という誘いだと考えたのだ。

 屋上は立ち入り禁止区域だったが、うちの学校は優等生ばかりで,問題も起きたことがなかったためセキュリティは存在しないようなものだった。彼女がそんなことを知っている、というのは眉を吊り上げる程度の感情の動きはあったが。

 唯一屋上に繋がった階段を登り――きっとうちの生徒は誰も使ったことがない――少し軋んだ扉を開く。引っ掛かりはあったものの見た目よりはスムーズに動き、最近にも開け放たれたのだろうと容易く思い浮かんだ。先に来ているのか。そしてほぼほぼの予想通り、目の前に居たのは壊れ、穴が開いたフェンス。そしてその横に寄りかかり、いつもの人当たりのいい、私の好きな、特別な笑顔を浮かべる真奈だった。


「ありがと」


◆◆◆◆


「指紋、提出してくれるかい?」

「ちょっと待ってください!うちの生徒が突き落としたとでも言いたいんですか?」

「落ち着いてくださいよ、せんせー。誰もそんなことは言ってないでしょう?私はほら、そこの彼女に指紋を取らせてくれないか、と言っただけじゃないですか」


 真奈、真奈、真奈、真奈。真奈の笑顔、振る舞い、声、髪、匂い、全ての真奈が頭から離れない。真奈は――何がしたかったのだろうか。自殺。この世から逃げる、一回限りの極限の手段。「愛してる」彼女にはそれを選びとる程の何かがあった筈なのだ。「愛してる」今、ここに至って愛を囁かれた、という事実に心臓が震えた。「愛してる」私は―――。


「はい、どーも。ご協力感謝しますよっと」


 ふと現実逃避をやめると厭らしい笑みを浮かべた中年の男が私の手を掴んでいた。それを紙にぐりぐりと押し付けられる。はあ、もうどうでもいい。不正捜査をやってのける警察様に嫌気が差した私は何度目かわからない思考をやめ、早く解放されることだけを願った。

 時刻は午後四時。ため息を深く吐いた先生――やつれていた――によると午後の授業は中止で部活動もしばらく停止。それだけでなく、あと二日学校は休止するそうだ。まだ仕事があるらしい先生に早く帰るように言われ、部屋を出る。職員室の奥のスペースだったようだ。生徒指導室というやつか。あまり人のいない職員室を抜け、すっかり誰もいなくなり静かになった廊下を歩く。今日は水曜日。つまり、比較的緩い部活に所属している私は四日間何もすることが無いことになる。部活は平日にしかないのだ。

 屋上に置いてきてしまったお昼を回収しようとしたが完全に封鎖されていて、結局教室に戻ることにした。無駄足を踏んだ気分だ。荷物を取り帰路に着く。家は大騒ぎだろうか。それより、真奈の家族は。色々なことを考える。真奈。真奈。真奈。私。先生。警察。自殺。他殺?――最悪の事態として、証拠の捏造による私の逮捕ということを考えていた。あの品の無い刑事は平気でやりそうだ。偏見かもしれないが。――正直なところそんなことにメリットは思い付かないが。不当捜査で私を捕まえて得をする人物。いや、そんなことは重要じゃない。今の一番の感情。真奈のことが分からずじまいにしたくない。真奈の自殺の理由を知る。これをしない限り私は前に進めない…気がする。


◆◆◆◆


 翌日、私は聞き込みを始めていた。

 真奈と同じクラスの友達に何人も。私と共通の友達、部活の同級生、思い当たる全ての生徒には話を聞いたと思う。――それもこれもメッセージアプリのお陰だが。この時点で一歩も外には出ていない。季節は夏に差し掛かろうとしている。クーラーの効いた部屋で聞き込みなんて、現代の技術は便利なんだと思ったのも束の間のことだった。軽い絶望が私の部屋を覆い尽くす。つまり何の成果も上がらなかったということだ。

 曰く、「いつもと変わらない」「冷静で時折見せる笑顔」「とても数分後に自殺をする人間には見えなかった」ああ、ああ。それは私もそうだ。真奈のことを全てわかっていた気でいたこの私が何も感じなかったのだ。それなら私は、いや――この学校の誰しもが真奈のことを理解していなかったのではないだろうか?

 真奈は私にだけ弱い部分を時折見せていた。――人間を信じられない。泣きながら私にそう電話をしてきたことがあった。私が本心から彼女と話し、慰めることでようやく落ち着いたが、あの時は少し驚いた。完璧な人間は存在しないとわかっていた筈だったのに。次の日会うと真奈は顔を赤くして「お、おはよっ!」と言った。それがすごい可愛くて、でもきっとそれを言ったらいい気分はしないのだろうな、と心に留めるだけにしておいた。だから私は昨日のことなんて無かったかのように振る舞い、周囲にもおかしな雰囲気を悟られないように努めた。

 何も進展しなかったため、最後の手段として考えていた作戦を実行することにした。真奈の家だ。前に遊びに行ったことがあり、親御さんとも一度か二度程会ったことがある。昨日の今日は無理があるかと思ったものの、インターホンを鳴らすと反応があった。真奈さんの友人だと名乗るとお母様が「ああ…ああ…あの子はよくあなたの話をしていて…上がってください」と仰り、申し訳ないと思いつつ家に入らせてもらった。

 真奈の部屋は至ってシンプルだ。白い壁に学習机、本棚と最低限のものしか置かれていない。そして充電されているスマホを見つけた。


「あの…これって」

「あの子の携帯…中は見れないけれど…真奈がいた証かもしれないと思うとね…」

「少し触ってもいいですか?」

「ええ…」


 つまり正真正銘真奈のスマホだ。カバーはつけられていないものの機種は間違いない。私は電源ボタンに触れ、中を見る。メッセージアプリのパスワードを入れ、中を覗く。最後にやり取りしているのは私だ。残っているのは部活やクラスのグループが主であり、新たな交遊関係が発覚することはなかった。

 次にSNSのフォルダを開く。私の知らないインターネットの友達とかがいるかもしれない。そう思ったのだが…アプリにはアカウントが作られていなかった。アカウント作成の画面になってしまい、使われた形跡がない。最近のスマホは最初からこういうアプリがダウンロードされているから、真奈はきっとこういうのをやっていなかったということなんだろう。

 後は…カメラでも見ておくか。98枚。それは全部私の写真だった。正確に言えば私以外も写っているが…。だがこれはきっと私が写っているものを保存してあるのだろう。「――――」フラッシュバック。真奈は何故。考え出せば考えるほど止まらなくなる。私から脳内の何かしらの物質が溢れて世界に、この部屋に直接的な影響を与える。そんな幻視を見た。


◆◆◆◆


 お母様にお礼を言い、真奈邸を後にした。何時でも来てね、と言ってくれたのは社交辞令だろうか。私には人と接することの経験の無さからよくわからなかった…いや、無くても想像できることはある。…飛躍かもしれないが、真奈は遺書を残していないのではないだろうか?そんな考えが迸る。遺書の話を誰からも全く聞かない、ということだけではない。お母様は部屋は昨日から何も触れていないと言っていた。思い至るのが遅かった。既にそこそこ歩いていて、戻って聞き直すのは躊躇われたのだ。これはその方が良い筈なのに理由をつけてそれしない、私の悪癖だった。悪い方向へとひた走る。…治せそうもない。今の思考の堂々巡りで何かが引っ掛かり、閃きそうになるも霧散していく。気のせいだったか。

 終始困惑していたお母様。社交辞令に感じたのは……きっと娘が自殺だと信じていないのだ。学校での事件。わざわざ家に来た生徒(私)。真奈の家の方向に背を向けて私はひきつった笑いを漏らした。これは真奈と同じように、人間が信じられていないだけなのかもしれない。でもしょうがないのだ。悪い方にどんどん考えて、それをひた走るのは私の性質で……最終的にはその想定さえも上回る結果を誘い込む。

 さて、遂にどうしようもなくなってきた。所詮女子高生に捜査の真似事は無理があったのだ。警察には殆ど当時のことを話していない。彼女の――本当に遺書が存在しなければ、あれは遺言だったのだろうか――言葉も私の心の中にだけ存在している。


「あれ?お久し振りです!」


 ん?誰だ…?突然、朗らかな笑みの謎の少女に声を掛けられた。取り敢えず話を合わせておく。


「久し振り。元気だった?」

「うん…大丈夫…?私心配で…」


 私や真奈と同年代っぽい雰囲気。つまり、思い出せ…思い出せ…ええと…。考えている間にも会話は続く。


「いや…まだ現実感が無くてね」

「…そっか。あっ連絡先交換しよう?」


 助かった。私は君と話すことが無いんだ。表示された名前は蛟。…何て読むんだ?まあいいや。スマホをポケットにしまう。


「実は今真奈のこと調べてて。私は…どうしてもあの子が死ぬ理由がわからなくて」

「…真奈は弱かったから」


 真顔になる謎の女の子。世界が唐突に闇に沈んだような感覚を覚える。天を仰ぐ。日はまだ落ちきっていない。


「え…?」

「もしかしたら誰かに追い詰められてたの、かも」


◆◆◆◆


 蛟。ミズチと読むらしい。インターネットに何処でも繋がることができる現代、読めない文字は存在しないのだ。自室のベットに寝転び、ひとり笑いながら完全に太陽の沈んだ空を眺めている。

 あの後別れたミズチの言葉を反芻した。確かに真奈は強い人間では無かった。常に笑顔だったが、それが本心によるものなのか偽りなのか私にも判別が付きづらい。それでも二人っきりになれば私には弱さを見せてくれていた。そんな真奈に私はこう――優越感を感じていたのは否定しない。この子は私にだけ無防備な姿を見せてくれる。私には安心しきっている。――誰も真奈のこれを知らない。世界中のどんな人間よりも優位に立っている。そんな、ある種の全能感は確かに存在していた。だが違っていたのなら。真奈のことが知りたい。

 このまま寝てしまうつもりだったが目は覚めてしまっていた。寝床から這い出しスマホを手に取る。ミズチともう少し話をしておくべきだった。考えれば分かることだろう。私か真奈の中学の頃の同級生がいいところだろうか?少なくとも今はそう考えている。

 ミズチに連絡を取ったら「土曜日に会えますか?私も聞きたいことがあって」と言ってきた。私の方は会うほどまでの用事はなかったのだが、こっちから声をかけておいて断るのも変か、と了承することにした。一日何かをしていたというのは久しぶりのことで、知らず知らずのうちに疲労していたらしい。…午前中から昼にかけてはスマホとにらめっこしていただけだったが、普段はそんなこともしないのだ。ミズチからの返信を確認した私はすぐに微睡んでしまった。


◆◆◆◆


 そして今、待ち合わせ場所のカフェで蜂蜜入りのカフェオレをちびちびと飲んでいる。お金さえ払えば何時間でも居て構わない、というスタイルが気に入っていて私もよく使う場所だった。店員にやる気が無いのも拍車をかけて良い。彼らはすぐに後ろに引っ込んでいく。ミズチもここによく来ているのだろうか。だとしたらたまに会っていたのかもしれないな。


「どうも」


 突然向かいに座ったのはそのミズチだ。声をかける前に座るものだから少し驚いてしまった。ミズチがふふ、と笑う。


「いや、そんな驚いた顔もするんだなと思って」

「会ってまでしたいことって一体?」

「もう…旧友との話もゆっくりできないの?…いや以外に元気そうで。ずっと引きずってたのなら申し訳ないと思ったけどそんなタイプじゃなかったみたいね」


 私が少し機嫌が悪くなったような顔をするとハイハイ、とおどけながら携帯を差し出した。


「まあ取り敢えず見て。どう思う?」


 画面にはSNSのとあるアカウントが表示されていた。最終更新は四日前。あはは!とだけ書かれている。


「うん?」

「ある程度までスクロールして読んでみてよ」


 言われた通りに読み進める。だが、どの内容も…何と言うか、正常な精神を持っているとは言えない状態のものばかりだ。最後の呟きなんてのはこのハニーカフェオレ並みであり、ブラックコーヒー級。自分を責める言葉、世界に絶望したかのような表現が繰り返される。


「…こっちの気が滅入りそう。一体何?」

「何か気が付かない?」


 何かねえ…。読み進めていくと、常に病んでいるという訳ではなく、ごく稀に良いこともあったらしい。少し気になり楽しいことがあったらしい文章をかいつまんで読む。『デート!』『パンケーキを一緒に食べた』『映画を観た』電流が走った。閃き。しかも悪い方向の、だ。読むのをやめ、その呟きの日付を確認する。次に自分のスマホのカレンダー。一致。この次のこれも。これもだ。このアカウントの主が“誰か”と出掛けた日は全て私と真奈が遊んだ日だ。この日に何をした、と覚えているわけではなかったが確かにパンケーキを一緒に食べたし、映画もそうだ。過去に遡り読み進める度に確信に変わっていく。


「真奈の…?いや、でも…真奈はアカウントを持っていなかっ…」


 ミズチがふるふる、と首を振る。そうだ、その通りだ。彼女のスマホにアカウントが存在しない。それが即ちやっていなかった、となるわけではないのだ。アカウントを消した…いやここに存在している以上違うか。ログアウトしてスマホから痕跡を無くしたのだ。矛盾はない。


「私と同じってことで大丈夫?」


 酷く主語を削った言葉だったが、


「…そう、だね。ここまで…詳しく書かれていて違うって言う方が変かもしれない」


 そう答えた。流石に場所や店名などは書かれていないものの、細かい描写に見覚えがある。まるで私が読めばわかるかのように…考えすぎだろうか。


「良かった。私の偽証とか言われたらどうしようかと思ってた」


 舌を出すミズチ。…その線は考えていなかった。しかし…デスノートと違ってこれはネット上のデータだ。日付を偽ることは難しい…そもそも可能なのか?まず前提として一晩では不可能だ。


「細かい相違点さえ見つからない。自分で見つけたとしても真奈のものだって結論付けるはず」

「ふふ、生き生きとしてるね。じゃあ…分かるよね?」

「何が」

「あれ、そう言えば判断付けたポイントは私と違うね。まあ関係ないのかな?道筋が違っていたとしても結論が同じになるのは真実の良いところだと思うね。私が問題にしているのはね、貴方がこれを見て何を思うのか、だよ」


 何を?何って…真奈が日記代わりに私とのことをインターネットに綴っていた。それ以上何て言えばいいのか。言い淀んだ私を見て目の前の女は人当たりの良かったふわっとした雰囲気を消し、ガラッと厭らしい笑みをこちらに向ける。変貌。世界中が私の敵になったような感覚がした。


「もしかして文章を読むのは苦手?」


 私が眺めていたスマホを引ったくる。


「朗読してあげようか?」


 返事が出来ない。世界はこの女の独壇場と化していた。私は何か悪いことをしたのだろうか?嫌な予感、人生で最悪なものと呼ぶべき気配が目の前に存在している。奴は黙りこくった私の返事を待たない。私はただ、事実から目を逸らし続けなければならなかった。


「はいっ、行くよ?『一番楽しかったのは行く前だったかもしれない』『あの人は私に興味なんて無いから』『とっくに嫌われていたのに私は』『私と居ても全然楽しそうじゃないし』『ならいっそ』『どうしてこんなことに?』『迷惑なら私がやめれば』『どうすればいいのかな』『パンケーキの味がわからなかった』『つまらなそうな顔を常に浮かべたあの人が』『空返事しかしてくれない』『無視さえしなければいいって思ってるんだ』『三つくらいの言葉しか私に言ってくれない!』『助けて』『もう駄目』『好き』『話を聞いてくれない』『目を見て』『やめて』『どうして離れていくの?』『私はこんなにす」

「何?」


 必死に絞り出した声はそこで終わりだった。私からはもう何も出てこない。女は恍惚の表情を浮かべて笑いながら語る。


「あははは、図星?いいよ、私はね。お前なんかより真奈のことが大事だったんだよ。知りたかったのはこれだけ。これが真奈だとわかるヒト。真奈が焦がれたヒトが貴方だって分かれば私は満足。…いや満足なんてしてない。そんなつもりはなかったんだけどね。いい?真奈は私なんてどうでもよかったかもしれないけど私は真奈が何よりも大切だった。…貴方には一生理解できないだろうけど」


 そう言い放つと奴は持っていたスマホを私に投げつけた。大きな音を立てて私を経由してテーブルに落ちたそれの液晶は割れ、さらに赤い液体が付着していた。静謐が取り戻された店内に客はいない。元からいない。女は目の前から居なくなっていた。用事は済んだらしい。店員の姿は見えない。もう何もする気が起きなかった。何かが流れ出る頭を、汗を拭うかのように触る。赤く変色した左手をただ眺めていた。――眺めていた。冷房の効いた店内はいつまでも静かだ。

 机上の端末は充電が切れるまで永遠に、ひとつの壊れた画面を映し続ける。


◇◇◇◇


 耐えきれると思っていた。だが、泣きながら街を走っているということを考えると到底無理があったのだろう。息も絶え絶えになり、ようやっと立ち止まる。

 蛟、なんてのは想像上の生き物、存在しない…私。対した意味は無かったが。名前なんてやはり意味はなくて、やっぱり私はそこでは蛟でしかないのだ。高条真奈は私にとって特別な生物だった。彼女からすれば「私」という個は、それこそ認識すらしていなかったかも。小心者の私はストーカー行為なんて出来なかったが、デメリットの存在しないネットストーカーなら容易に行えた。真奈の趣味、雰囲気。そんな朧気なものだけを頼りに、気が狂ったようにパソコンとスマホに噛りついていたいたのを覚えている。そして、たまたまだった。アイコンを設定していない、名前も意味をなさない、そんなアカウントを発見したのは。時折アップする写真。そこからわかる行動範囲。それらをマーキングしていき、出来上がったのは彼女の家を避けるように赤いシールが貼られた地図だった。家の近所の写真は撮らない。まあ、そこそこリテラシーのある方だったのだろう。


「真奈…!」


 いつからか、呟きに影が見え始めた。真奈と親しい人間がいるのはわかっていた。本人もそれとなく匂わせていたし、小学校のころのことを考えるとひとりであちこちに出掛けるような子ではない。――つけるか?そんな考えがよぎり、準備をしたこともあった。しかし、家を出ようとした瞬間に揺らぐ。もし見つかってしまったら?そんな冷静な部分が私を止める。…結局、現実で何も行動を起こせなかった。真奈の親友の名前も顔もわからない。学区の微妙なズレから疎遠になったものの真奈は私の心を掴んで離さない。当時私たちは連絡手段なんて持ってなかったから、どうしようもなかったんだ。真奈と私はふたりとも、積極性が皆無な生物だった。当然、再開することもなく、忘れ去られた。

 真奈が幸せで、楽しい毎日を過ごしていた以上何の不満もなかった。しかし今はどうだ。ぶつけようの無い感情を、誰も見ていないインターネットの虚空に投げつけているのである。私なら。私なら真奈を幸せにできるのに。……そう思いながら何もしなかった自分は一体何なのか。彼女のアカウントの更新が途切れた時、世界は少しずつ暗闇に呑まれていったのだ。

 死は何度も示唆していた。如何せん、回数が多かった。完全に追い詰められつつあるという感覚が足りていなかった。私はうんうんと唸りながら決意する。真奈に会う。平日、時刻は昼を回っていた。私の家から真奈の家に。いや…高校へ。進学先は近所のはずだ。カメラ、ボイスレコーダー、その他諸々の道具が詰まったリュックを持ち、玄関を飛び出す。駆ける。今はとにかく真奈に会う。誰?と言われるかもしれない。それでもいい。突然押し寄せて、もう一度友達になる。何もなかったところから沸き出た原動力は高校のフェンスの前で霧散した。

 それも、たまたまだった。

 私はどうやら、真奈のことに関すると偶然の発見、というやつをしてしまうらしい。何の意味もなく、上を見上げた。映るは屋上、フェンスに寄りかかり、風でスカートをたなびかせる女子生徒。髪は短い。顔はこちらに向けていないため見えない――向いていたとしても遠くて見えないだろうが。今思えばそれが真奈だったから、私は立ち止まって眺めていたのだろう。その時は、ただ目的も忘れて立ち尽くしていた。

  女子生徒が唐突に、フェンスをすり抜ける。死角になっていて、フェンスに穴が開いていたことなんてこの視点からわかりっこなかった。その時の私はただ、幻覚だと信じて一度冷静に目を擦る。激突音。屋上で長い髪がはためき、ああもうひとり居たのか。と思ったがすぐに、目の前の光景に思考の全てが集約された。少女が倒れている。倒れているだけではない。床には少しずつ赤い部分が増え、それが致命的な出血であるとすぐに周囲に伝わる。私がいたのは学校の外の道路だった。目の前は野球部のボールから外界を守る濃く透明な緑の壁。


「だ、誰か!」


 既に周囲はざわめいていた。女子生徒の飛び降り。すぐに然るべき処置がとられるはず。救急車は?もう呼ばれているのか?――こういうのは、誰かひとりが代表して適切な――。そんなマニュアルなんてどうでもいい。あの場所に回り込むため、校門まで駆ける。そのすがらに消防に連絡をする。


「119番です。火」

「救急です!――市の――高校で飛び降り、もう連絡は来てますか!?」

「まだです、状況は」


 誰も連絡していないのか、烏合の衆め。女子生徒に駆け寄る。 意識を確かめるため肩を触ろうとした。

 私はつまり、何処までも他人事であったからこそ、冷静な振りをしつつも焦る振りが出来ていたのだ。ごろっ、と何の抵抗もなくこちらに向けられた首。生気を失った顔がこちらを向く。


「ひっ、ぎゃっ…きゃ…」


 真奈の顔を久しぶりに間近で見た、気がした。手に真奈の血液が付く。舐め取った。


「意識、ありません、ひゃひゃ…はは…」

「脈はありますか」


 細い腕に触れる。温かい。生きた真奈を感じた。何度手首を掴んでも脈は取れなかった。


「脈も…」

「君!大丈夫か!」


 …遅すぎはしないか。おそらく、高校の教師。私はお役後免だろう。


「意識と脈がないです。…後はお任せしますね」


 救急センターと繋がる電話を押し付ける。


「き、君!うちの生徒じゃないだろう!?いや今は…!」


 私はそこからすぐに家に帰ったはず…だがどう帰ったか覚えていない。気が付くと自分の部屋で倒れ付していた。手に付いた筈の血は無くなっていた。夢かと疑った。しかし、嗅覚、触覚、視覚が現実だと訴えかけてくる。そしてスマホが一台減っていた。現実なのだ。私の目の前で真奈は地上に激突し、血を流した。自殺。そして思い出す。当時、屋上にもうひとり女がいたことを。服までは見えなかった。だが、長い髪がはためき、すぐにどこかに消え見えなくなった。何を考えたのか私は公衆電話に走った。ボイスチェンジャーを背負いっぱなしだったリュックから取り出す。高級品であり、精度は中々のものだ。――ストーカー行為の何に使うつもりだったのだろうか?これを買い、リュックに詰めた私に聞きたかった。

 匿名通報。女子生徒が飛び降りた時、屋上に髪の長い生徒が居た。きっとこれは飛び降りではない。一方的に電話を切り、逃げる。イタズラだと思われても構わない。私の行動原理は全てが自己満足だ。でも、真奈が目覚めさえすればどうとでもなること。一緒にいたのが誰だったのか。

 今日二度目の絶望。すっかり癖となったパソコンとスマホの多数平行使用による情報収集。ひとつ減ったために違和感はあったが、私はある文面を見つけてしまったのだ。

 ――真奈の高校の生徒のアカウント。今日飛び降り自殺があった、即死だったらしい。と爆笑している。吐いた。何も食べていなかったので液体しか出てこなかった。家をべちゃべちゃにしながら、トイレに向かう。身体中の穴から液体が排出された気がする。最後の堤防が決壊したかのように水が溢れ出す。それが止む頃には精神も、体も、最悪の状態だった。しかしやることは決まっていた。私だけが目撃したかもしれないあの女を見つけ出す。シャワーを浴び、駄目になった服を着替えた私はまた家を飛び出す。

 日が落ち、登り、頂点に達したから少しした頃。私の目の前を女が通った。最早髪が長い女なら誰でも噛みつく精神状態だった私は過剰に反応した。…しかもそいつは真奈の家のインターホンを押した。中に入っていく。真奈の一体何なんだ?一時間ほどするとそいつは出てきた。何を考えるのかわからない顔。おぞましい何かを感じた。――人間の記憶とは朧気なものだ。それに特化した人間でもない限り、人は不確かな記憶を自分の都合の良いように解釈する。つまり。


「お久しぶりです!」


 短時間騙せればいい。知り合いというていで話しかけ情報を奪い取る。


◇◇◇◇


 持ち歩いていたうちひとつのスマホを取り出し、あの女とはそのスマホで連絡先を交換した。そいつから連絡が来ていた。ひとついいことを思いつき、呼び出すことにした。端的にいうと真奈の親友なのでは?ということだ。まあ、説明は付く。というか大方そうだろう。真奈のSNSを見せ、反応を確認する。

 私が予想していた甘い考えは、真奈の親友であり心を痛めた探偵気取り…というものだ。で、実際はどうだったか?…真奈が心を病む原因そのものであり、心の無いバケモノ。


『あの人は私に興味なんて無いけど

私が死んだら、愛を囁けば、あの人は私だけを死ぬまで見てくれるかな』


 誰が想像していたか?顔色ひとつ変えずに、そのページを移動。アカウントのページに移動し、不都合なものは飛ばして読み始めた。画面に夢中で呆然とする私には気が付いていない。目を逸らす、なんてものではなった。そこで全てを理解する。目の前のこれが、真奈の言う「あの人」であり、親友であり、一緒に出掛けていた人物なのだ。彼女の呟きの所感から「あの人」と親友は別人だと思っていた。ならなんだ、このアカウントはこの、目の前のたったひとりに対する文章を書き連ねたものじゃないか。真奈視点しかわからないが、「あの人」は中々に滅茶苦茶だ。真奈を誑かしておきながら自分は放置。メッセージが届いても適当な返事ばかり。許せなくなる。真奈はこの人間のことが…まあ、好きだったのだろう。でもこいつは真奈に対して何も思っていない。感情が揺れ動かされもしていない。振りだけだ。悲劇の主人公だとでも?中身が無い。こんな、人間のために?

 私はもう目の前のものが肉塊にしか見えなかった。容姿など関係ない。奴への印象こそが世界の全て。こいつに、避けようのない現実を叩きつけてやるのだよ。


◇◇◇◇


 まあ、自己満足だったかもしれない。真奈は望んでもいやしないだろう。そもそも私が何なのかも知らないだろうな。でも、五年以上前から貴方のことがすきだった私は確実にここに存在しているのだ。――私はどこかもわからない公園で呪いの言葉を口ずさむ。


「愛してる」

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