第五幕 異変

 目的の簪職人の家までは、丁度今話題になっている、連続心中のあった川岸を通る。それがどうにも忌むべきもののように思えて、涼一は前を行く全に声をかける。


「全様、どこか別の道から迂回していくのはどうでしょう」

「あァ?」


 見るからに不機嫌そうに顔をしかめながら、全が振り返る。今の涼一の一言が、更に全の機嫌を損ねたのは確かなようだった。


「まさか手前まで祟りがどうのと言い出すんじゃねえだろうな」

「そうではありませんが……今朝死体が上がったばかりの場所というのは、どうにも」

「俺の怖いモンは客が減って太田屋が立ち行かなくなる事、それだけだ。死人なんぞ怖いかよ。大体こんだけお天道様が照ってンのに幽霊も何もねえだろ」


 そう言い捨て再び前を向く全に、涼一はそれ以上何も言えなかった。いるかどうかも解らない幽霊よりも生活が立ち行かない方が怖い、その全の言い分はもっともである。

 しかし涼一の胸から、嫌な予感は消えない。普段は信心深いとはお世辞にも言えない涼一であったが、麗羽の話を聞いてから、ずっと胸に重い何かがのしかかっているような気がしていた。

 あの川には、近付いてはならない――。涼一の中の何かが、ずっとそう警告を発し続けているのだ。

 だがそれを口にしたところで、全が聞き入れるとは思えなかった。何しろこの予感には、何の根拠もないのだから。


 涼一が一人悩んでいる間にも、例の川までの距離は次第に縮まっていく。遺体が引き上げられ時間も経った為か、辺りには人気は殆ど無かった。

 昼の太陽に照らされた川は、本当に何と言う事もないただの川だ。陽の光が水面に反射し、眩く輝いてすらいる。

 ――やはりこの予感は、ただの杞憂だったのだろうか。そう涼一が思おうとした時だ。


 不意に全が足を止め、川へと視線を向けた。


「……全様?」


 その様子を不審に思った涼一が、遠慮がちに声をかける。しかし全は川を見つめたまま、ぴくりとも反応を返さない。


「全様? ……全様!」


 焦燥感を抱きながら、涼一は全の正面に回り肩を揺さぶる。そこで漸く、全は涼一の存在を認識したようだった。


「……ぁ……涼一?」

「どうなさったのですか全様、急に立ち止まったりして……」


 軽く頭を押さえる全に、涼一が心配の視線を向ける。それに対し全は、まだ夢見心地といった風に呟いた。


「今……誰かが……呼んで……」

「誰か……?」

「……いや、何でもねえ。……先を急ぐぞ」


 しかし急にそう言うと、全は先程までと変わらぬ様子でまた歩き出した。涼一も、慌ててその後を追う。


(何故だ……酷く嫌な予感がする)


 涼一が胸に抱いたその懸念を晴らすものは、なかった。



 ――全が人前に姿を見せなくなったのは、その翌日からの事である。

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