第11話 復讐の誓い ファルカス

 幸いにというか文書院の長には家族も近しい親族もおらず、その非業の死を声高に責めるであろう者はいなかった。後任の者も、死んだ老人の部下から適当に指名すれば済んだ。文書院に勤めるのは武に向かない者ばかりで、ファルカスに口答えする気概のある者がいなかったのも良かった。上司の側妃についての奏上が王の怒りを買った、と伝えた時には信じられないというような顔をしていたが、目線ひとつで黙らせることができたのだから。


 ――側妃に溺れている、とは思われたかもしれぬな。


 ファルカスはこれまでも敵に対しては容赦してこなかった。争った末に屠った中には血を分けた兄も弟もいたし、逆らった諸侯への処罰も手加減したことはない。だが、それと王権を振りかざして無辜の者を虐げることは話が別だ。今のイシュテンでそれをやってはたちまち王位すら危うくなるという切実な理由もあるが、何よりファルカスの気性がそのような逸脱を許さない。

 側妃について諫言されたからといってその相手を斬った、などと――これではまるで女に溺れて国を傾ける愚王のようではないか。陰で揶揄する者もいるだろうし、リカードを刺激することになったかもしれない。ミリアールトに対しては、言葉を禁じるなどただでさえ恨みが燻るところに火種を投げ込んだようなもの。

 考えるほどに彼の短気は不利益だけをもたらすとしか思えなかった。


 なぜ文書院の長を斬り捨てたのか――それは、あの瞬間の彼が狂っていたとしか言いようがない。冷静になってみれば、側妃の婚家名にどのような意味があったとしてもあの男が言い触らすようなことはなかっただろう。不穏な意味が込められていると思い悩んだ末に王のところへバカ正直にやって来るような男だ、リカードなどへ情報を高く売りつけようなどとは思わなかっただろう。


 ――脅すか、言いくるめるかして追い返して――黙らせれば、済んでいたはず。


 なのに気付いたら剣を抜いて振り下ろしていたのだ。相手は平伏したままだったから、苦痛どころか恐怖も感じる暇はなかっただろうが。だが、罪もない相手を殺めておいて、そのようなことが言い訳になるはずもない。

 剣ならば血糊を落とすこともできる。振るった後には鏡のように磨き上げて刃を研ぐのは、ファルカスにとって既に息をするように自然な習いとなっている。しかし、彼の手にも矜持にも拭いがたい汚点が残ってしまった。


 それも全て、あの美しくも生意気で、そして愚かな女のために。




 その日の政務に加えて、文書院の人事にまつわる諸々を済ませた頃には時刻はかなり遅くなっていた。常ならば執務室で休むことを考える時間だったが、ファルカスはあえて先触れも出さずに側妃の離宮を訪れることにした。急に顔を見せた時に、あの女がどのような表情で迎えるのか知りたかったのだ。


「陛下」


 彼の姿を見るなり、側妃は顔を輝かせた。その笑顔の晴れやかなこと、なぜか苛立ちに似た感情の渦を彼の胸に呼び起こす。


「フェリツィアはもう寝かせてしまいました。起こすのは可哀想ですが、寝顔をご覧になりますか?」


 子犬のように駆け寄って彼を見上げてくるのも、今までならばなかったことだ。ミーナならばともかく、この女はいつも冷静で、夫の訪れにも落ち着いて礼を取るだけだった。それでも、かつてのような高慢さや強情さよりはだいぶ可愛げがあったから、彼は満足していたのだが。


「そうだな……」

「ありがとうございます。では、音を立てないようにしてくださいませね」


 人差し指を唇に当てた仕草も、この上なく愛らしいと同時に憎らしい。夫の荒れた心の裡など、この女には知る由もないのだ。


 ――俺はお前のために無辜の臣下を殺したのだぞ。


 ファルカスの表情は硬く、声もぎこちないものだっただろうが、側妃は気付かないようでくるりと背を向けた。娘が眠る部屋へと自ら案内するつもりらしい。下ろした金の髪が揺れる背は、夫に赤子の成長を見せるのが楽しくてならないとでも語るよう。足音を立てないように気をつけてはいるようだが、足取りも羽根のように軽い。


 ――復讐をクリャースタ誓う・メーシェなどと名乗っている癖に、そのザマは何だ。


 愚痴るように責めるように思ってみても、もちろん通じるはずもない。イルレシュ伯にも言ったように、何があったかは言うつもりはないし、そもそも言うこともできないのだが。だが、だからこそ、曇りのない微笑みに、冷たいと思っていた女が見せる子への情に、惑わされたという思いが拭えない。

 結局、彼はこの女のことを何ひとつ見ようとしていなかったのだ。何度も閨を共にして、誰も知らない表情や声を引き出したと思っていたし、最近は態度が柔らかくなったのを夫婦として馴染んできたのだろうと捉えて満足していた。

 だが、娘に向ける心からの微笑みを見た今では、それも全てただの愛想笑いに過ぎなかったと分かる。そんなものに騙されて、彼はこの女に情が湧いてしまった。そして娘への本物の情愛を見せつけられて。何か欺瞞を突きつけられて裏切られたように感じていたところへあの奏上があったのだ。


 女ひとりに振り回されてまともな判断ができなくなった彼も、この女と同じかそれ以上に愚かだった。




 フェリツィアは灯りを消した一室に寝かされていた。枕元に椅子が据えてあるのは、乳母や侍女たちが見守るためというよりも、母親が片時も目を離さないためのように思われた。事実、椅子に掛けられた毛布は離宮の主に相応しい上質のもの。彼が訪れるまで、この女はずっと娘の寝顔を見つめていたのかもしれない。


「今日は声を出して笑ってくれました。私の髪や目の色も分かるようで、侍女たちとは反応が違うのです」

「そうか」


 赤子を起こさないように気遣っているのだろう、側妃が背伸びをして囁くと、吐息が彼の耳をくすぐった。閨ではもっと熱い息を感じたこともあるが、これほど甘く優しく柔らかい空気をこの女から感じたことはなかった。娘の存在が、この女をこうまで変えたのだ。その娘は、彼の血をも引いているというのに。


 そこが、ファルカスにとっては苛立たしくてならないのだ。


 復讐を志したのならば仇の子など愛してはならないだろうし、百歩譲って子を愛するのが母の性なのだとしても、ならば可愛い娘を憎い男に触れさせようなどとはしないものなのではないだろうか。


 ――愚かな女……!


 婚家名としてわざわざ復讐などという単語を選んだのも、その意味が知られることはないとイシュテンを侮っていたのも愚かだが、娘を愛したのが最大の間違いであり愚かさだと思う。復讐のために利用するつもりだったのだろうに、心から愛してどうするというのだ。娘の名前も。かつての自身と同じ意味の、幸福を与えられるとでも思っていたのか。


 フェリツィアにミリアールト語を教えれば良い、と。彼は気楽に口にしたことがある。しかし、こうなってみるといかに残酷なことを言ったことか。愛する娘が母親の名の意味を知った時のことも、この女は想像だにしていなかったのだろう。


 だが、その愚かさこそが母娘を救ったのもまた事実。見目良く同盟相手として都合の良い女としか思っていなかった頃に婚家名の意味を知らされていたならば、ファルカスもこの女を責めていただろう。何を置いても守らなければ、などと思ってしまったのは、娘に対する愚直なまでの愛を見せつけられたから。そして、無邪気に嗤うこの女が――これまでの印象を完全に裏切って――あまりにも可愛らしかったから。

 娘に寄せる愛のひと欠片なりと、彼にも分け与えられていると期待してしまっていたのだ。


「――来い」

「何を……っ!?」


 娘ばかりに優しい眼差しを注いでいるのが、彼の心中を知らないで微笑んでいるのが気に入らなくて。強引に抱き寄せると、側妃は非難するように睨め上げてきた。その目つきも、彼の腕の中で身体を強張らせるのも、いっそ安心するほど馴染みのある反応だった。――彼を憎んでいると、この女は全身で語っていたのに、彼は深く考えることをしてこなかった。


「話がある。フェリツィアを起こしたくはないだろう?」


 すやすやと寝息を立てる娘をちらりと見下ろしてから、相手は思い切り眉を寄せて頷いた。娘を盾にするような物言いを、恐らくは不快に思ったのだろうが――これは娘のためでもある。どうせ楽しい話ではないのだから、何の罪もない赤子の眠る傍らですることはない。

 だが、その母ならば。全く罪がない訳ではないのだから不吉な話をしても良いだろう。




「それで、お話とは?」


 かつてよくしていたように寝室に酒肴を用意させて向かい合うと、側妃は露骨に嫌そうな顔で尋ねてきた。ファルカスと話すのが嫌だというよりは、早く娘の傍に戻りたいのだろうか。それでも構えた様子はないから、彼は心の裡を隠すことには成功しているようだった。


 ――それで良い。俺の心など考えないのがお前らしい。


 フェリツィアに対してのものとは打って変わった一線を引いた態度に、果たして喜んでいるのか落胆しているのか。自分でも分からない思いを嗤うのも心の中だけのこと。ファルカスは短く告げる。


「リカードを一刻も早く排すると決めた。それだけを伝えに来た」

「……はい」


 端的かつ唐突な宣言に、側妃の眉が晴れることはなかった。それで今少し説明を加える必要があることを知って、ファルカスは更に言葉を重ねた。


「フェリツィアが生まれた以上は早く憂いを絶っておきたい。娘が何ものにも脅かされることなく健やかに育つことができるように」


 娘の母に対して紡いだ言葉に嘘はない。だが、同程度に大きい理由として、側妃の婚家名の意味を糾弾しそうな者を片付けておきたい、とも思っている。無論そうと相手に告げることはないが。なぜなら――


 ――矜持を曲げて、全てをなげうってまで望んだ復讐を、叶えさせてやりたい。


 何も知らない彼を他所に復讐の名をイシュテンの歴史に刻み、ミリアールトの血を引く子にイシュテンの王位を継がせることにこそ意味があるのだろう。ならば彼はそれを妨げてはならない。動機は何であれ、彼はミリアールトとの同盟と世継ぎを得ることができる。その上で更にこの女の心まで望むなど贅沢が過ぎるというものだ。


「ミーナ様は悲しまれますね……」

「仕方あるまい。できるだけ生活は変わりがないようにしてやろうとは思っているが」


 ひとり目の妻のことを思うと、彼の胸はまた軋む。

 ミーナが側妃のことを可愛いだのと言っていたのは、無知ゆえだと思って彼は聞き流してきていた。だが、ミーナに対しては実際にそうだったのだろう。聡明で美しい王女、と。イルレシュ伯なども語っていた。それが高慢で冷たい女に見えていたのはファルカスの行いのせいだった。


「だが、ミーナとマリカがそうであるように、お前とフェリツィアも俺の妻子だ。だから、危険に晒されているのを見過ごせぬ」

「もったいないお言葉、大変嬉しく存じます」


 側妃が柔らかく微笑んだのは、彼の妻と呼ばれたからではなく、娘の名を挙げたからのようだった。大事な娘が父親に気に掛けられていると知って喜んだらしい。その父親は、この女にとっては憎い仇なのだろうに。


「リカードを始末したら次の子のことを考えよう。――お前の子が、次のイシュテン王になる」

「はい……」


 娘の父親という立場は強いようで、そっと身体に触れてみてもとりあえず文句は言われなかった。無論、子を生んで間もない女をもう抱くつもりはない――今日のようなことがあった後では、特に――が、形ばかりとはいえ夫婦でいられるという事実は奇妙な感動のようなものを生んだ。


「必ず、守る。シャスティエ……クリャースタ・メーシェ」


 幸せを願ってつけられた元の名も、復讐を意味する婚家名も、彼が口にすると苦い響きを帯びるように思えた。幸せを奪っておいてその意味で呼ぶなど欺瞞も良いところだし、娘を愛する姿を見れば、復讐などできるような女ではなかったのだろうと思う。元からあまり名を呼ぶことがなかったのは、良かったのか悪かったのか。


 抱きしめる腕に力を込めると、相手は居心地悪そうに身じろぎした。これほど間近に触れ合っていても、この女の心は彼には届かないところにある。

 いや、こちらの妻だけではない。ミーナも、父であるリカードを殺されれば彼を憎むようになるかもしれない。長く夫の方を選ぶだろうと信じてきて、親子の情が絶ちがたいものだということさえ気づかなかった。先日は実家から無事に帰ったことに安堵して、それで収まったものと思っていた。しかし、側妃がそうであったように、肉親を奪われるのは十分に憎悪の理由になるのだ。


 ――王の力と引き換えに妻たちは失うか……。


 そう思うと肉体の傷よりも鋭い痛みが胸を刺す。だが今さら引き返すことなどできない。内憂を排し国を安らげるのは、少なくとも妻子の命を安らげることにも繋がるのだから。


 だから、憎まれることを厭ってはならない。妻たちを傷つける代償に、彼の命を与えることはできないが――考えられる限りの安らぎを与えること、そのために尽力することは惜しんではならない。こちらの妻に対しては、復讐を遂げさせてやるのもそのひとつになるだろう。


 復讐のための誓いは、ファルカスの胸にも刻まれた。

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