5外出

 週末。アルマは重たい瞼を開け、ぼやける視界を擦った。次第に明瞭になっていく視界の先には、見知った天井が映し出されていた。何も無い、真っ白で無機質な天井。暫く頭の中を空っぽにして眺めていると、唐突に彼女の脳みそは覚醒した。今日、この日、彼女の友人と出掛ける約束をしていたことを思い出したのである。アルマは急いで布団から這い上がると、パジャマを脱ぎ捨て、用意していた服に着替えた。気休めに櫛を通し、撥ねた髪を押さえつけるように、藤の花の飾りが付いたピンで留める。薄紫を基調とした和テイストの肩掛け鞄を手に取ると、その中身を確認する。財布とスマホと簡易筆箱、メモ帳に電子辞書。ハンカチにポケットティッシュ、コンパクト裁縫道具セット、畳んだビニール袋に折り畳み傘。いつ貰ったか分からない個包装の飴はゴミ箱に捨て、鞄を閉じる。


 アルマは鞄を置いて階下に降りた。洗面所へ行き、顔を洗う。ついでに歯も磨いてからリビングへと赴いた。ダイニングキッチンの方では既に母親が朝食を作っており、コーヒーの香ばしい香りを漂わせていた。アルマは母親に挨拶をすると、テーブルの席に着いた。彼女の母親が朝食とコーヒー牛乳を運んでくる。アルマは合掌をし、朝食を食べ始めた。


「あれ? コーヒー牛乳、いつもと味が違う」


 アルマの呟きに、母親がニマニマとしたり顔を浮かべる。キッチンで忙しなく手を動かしながらも、上機嫌で彼女の言葉に返した。


「昨日、お隣さんから黒糖を貰ったのよ~。沖縄土産ですって。アルマちゃん、週明けに学校行ったら奏多君にお礼言っときなさいよ~」


 アルマは何とも言えない表情で適当に返事をし、朝食を平らげた。そこで、昨日学校に居た彼に礼をしたところで意味はないのではなかろうか、と考えたが、不毛な思考であることに気付き、彼女は考えを振り払った。食器を下げ、もう一度洗面所に行って歯磨きをする。それから階段を上がり、自室に置いてきた鞄を取りに行った。それから薄手のカーディガンを羽織ったところで、駆け足で階段を降りる。母親に「行ってきます」とだけ伝え、彼女は家を出た。


 最寄り駅から幾本か電車を乗り継いで、目的地へと赴く。いつも三人で出かける際に集合場所として利用している、一本の常緑の木の元まで無心で歩く。道行く人々の影を意識の向こうで追い、はたまた避けながら、人の波を縫うようにして木の根元まで辿り着く。アルマは木の幹に背を向け、流れる人の波を眺めた。徐に鞄からスマホを取り出し、時間を確認する。

 集合時間まで、後十五分。アルマは他の二人が時間ぴったりに来るか、或いは少し遅れてやってくることを知っていた。十数分の暇を持て余すことになった彼女は、無言でスマホを仕舞い、思考の海に身を委ねた。


 ランダムな思考の中で初めに浮上してきたのは、この集合場所まで彼女が如何ようにして辿り着いたかについてだった。最早アルマにとって家からこの場所へ来るまでの道程は呼吸をするかの如く自然と辿り着けるものであるが故に、今日ここまで歩いてきた記憶がすっかり抜け落ちてしまっていたからである。


 はたと、彼女は数十分の記憶を遡った。家を出たことはさすがに覚えていた。いつも学校用に履いているシューズとは違い、少しお洒落なシューズを選んで履いたため、玄関での出来事が強く記憶に残っていたのである。そこからいつも学校へ行くのに使っている最寄り駅へと向かい、別の方面の電車に乗降した後、そこから二本乗り換える。最後に降りた駅を出て、人の波を縫いながら、この場所へと辿り着いた、気がする。

 ここで「気がする」と思ってしまったのは、当然自分の記憶からその道程を通ってきた過去が抜け落ちていたからであり、恐らくここに来るまでの間、別の何かを考えていたに違いない。アルマはそう結論付けて、もう一度人の波を眺めた。まだ見知った姿は目に映らず、人知れず溜息を吐く。彼女は情報過多な視覚をやや閉ざし、再び思考の海に塗れた。


 次に浮上してきたのは、朝食時の件である。アルマの家は昔から隣家と仲が良く、アルマはその家の子供とよく外遊びをしていた。しかし、ここ最近は専ら親同士の交流に限られ、子供同士は時折顔を合わせるだけで、昔のように親しく遊ぶようなことはなくなっていた。それは偏に、アルマとその子の性別が異なることによる思春期特有の忌避や羞恥が原因ではないかと彼女は考えているのだが、アルマからすれば一方的に避けられているが故に、その真実は未だに不明である。詰まるところ、兎に角彼から避けられているアルマからすれば、この度の母親の申し出は、どうにも七面倒くさくて仕方がないのであった。

 向こうから避けられているのに、わざわざ近付く所以もない。況してや、当事者同士には殆ど関係の無い事柄に関して、彼に礼を言わなければならないのだ。一層のこと、適当に誤魔化してやり過ごしたいというのがアルマの本音であった。そもそも彼とは同じ学校ではあれどクラスは違うし、連絡先さえも知らないのである。最早幼馴染と言って良いものか、些か不可解なほどにアルマたちの間の溝は深まっているのである。


 アルマはまた、溜息を吐いた。朝食の時、既に考えを振り払ったというのに、なまじ時間が余ったばかりに不毛な話を思い出してしまったという事実を思い出す。思考がランダムにポップアップしてくる事に少々苛立ちを覚えながら、アルマは不快感を掻き消すように別のことを考え始めた。


「おっはよ~、アルマ氏! 朝から魂抜けてるよ?」


 呆けていたアルマの顔を覗き込んできたのは、大きな瞳を楽しそうに煌めかせているツインテールの少女だった。彼女は冗談めかしながらアルマの前で手を振る。アルマは聞き覚えのある声に焦点を戻し、目の前の少女を見据えた。途端に笑みが広がり、「おはよう」と返す。


「魂って、在るのかもしれないし、無いのかもしれないよね」


 アルマが呟くと、少女は不思議そうに首を傾げた。しかしそれも数秒のことで、彼女はすぐに白い歯を見せた。


「そもそも、魂と身体を分けて考えてしまっていいのかすら、怪しいよね」


 といっても、私は言葉の綾で言ったんだけど、と少女は続けた。アルマは視線を上げ、友人を見詰める。その先では、視線に気づいた少女が活発な笑みを浮かべた。


「それって、思考は脳内の電気発火だから?」


 アルマの問いには答えず、少女は可愛らしく首を捻った。彼女はツインテールにした毛先をクルクルと弄りながら、視線を横に流して「うーん」と唸る。暫くして何を思ったのか、彼女は毛先から指を外し、アルマを見据えた。


「アルマ氏は、精神世界が在ると思う?」


「無いと思う」


「うん、私もそう思う。0と1の世界を精神世界っていうなら別だけどね。……じゃあ、こことは違う、別の世界、異世界って言ってもいいかな。そういった世界はあると思う?」


「在ると思う」


 即答したアルマに、少女、加絵は苦笑いを零した。


「言っとくけど、このあまねく宇宙に点在する惑星内の世界の話じゃないよ?」


「分かってる。別次元の世界、ってことでしょ? 或いは、別チャンネルの」


 ピクリ、と加絵の片眉がはねた。刹那、アルマの瞳がチロリと動く。しかし彼女はすぐに視線を戻し、無表情に虚ろを眺めた。沈黙の外では、雑多のBGMが流れる。

 両者共々口を噤んだまま、時だけが過ぎ去ってゆく。加絵は時折気まずそうにアルマを盗み見るも、当のアルマは澄ました顔を崩すことなく背を木の幹に預けていた。あまりにも反応しない友人に、加絵は焦燥の念を覚える。自身の中で渦巻く何かに名前を付けたくとも、それが何なのか分からない彼女は、押さえつけるように唇を一文字に固く結ぶ。それでも口にしたい自分がいることに、加絵は密かに驚いていた。


 言ってしまえば、終わるかもしれないのに。


 なにもかも。


 加絵はもう一度横目でアルマを見遣った。そこには、何の感情も映さない、人形のような彼女がいるだけだった。木漏れ日が揺らめく度に、繊細な銀糸が露わになる。髪と同じ色をした睫毛は儚く琥珀の瞳を覆う。薄い唇は目にするだけでも柔らかそうで、加絵は思わず喉を鳴らした。同時に、いつの間にかアルマを凝視していたことに気が付く。加絵は瞳孔を縮め、顎を引いた。表情を取り繕い、乾いて上下のくっ付いた唇を無理矢理開く。


「……ねぇ」


「ご、ごめん! お、遅れちゃって!」


 加絵は反射的に声のした方へ振り向く。アルマも視線を上げ、荒い呼吸をする少女に意識を向けた。抑え気味にレースがあしらわれたワンピースに身を包む姿は、どこか上品な箱入り娘を連想させる。そんなお嬢様のような彼女は、長い黒髪を乱して白い頬を紅に染めており、その目元はうっすらと黒ずんでいた。


「お菓子作ってて、楽しくなって、時間が無くなって、急いで片付けて……」


「お、落ち着いて、真奈。取り敢えず、息整えよ?」


 加絵に背中を撫でられて、真奈の呼吸は次第に落ち着いてゆく。最後に大きく息を吐いてから、彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。


「ご、ごめんね、待ち合わせに遅れちゃって」


「別に、大抵加絵が遅れてくるからこれくらいは許容範囲内だよ」


 それまで沈黙を通していたアルマが答える。加絵は不愉快と言わんばかりに彼女を睨みつけたが、アルマはどこ吹く風と涼しげな顔をしたまま真奈の方を向いていた。真奈はいっそう眉を下げ、何を言ったらよいのか考えあぐねていた。不意にアルマが笑みを溢し、「堂々と遅れてくるよりはマシ」と続けた。加絵は「ひどくない!?」とアルマに抗議を寄せるも、彼女には鼻で笑って返されるだけだった。一緒になって、真奈も笑い声を零す。


「それで、どうしてお菓子を作ってたの?」


 気を取り直した加絵が真奈に尋ねると、彼女は視線を逸らし、ぼそぼそと呟いた。


「……どうしても、眠れなくて。それで、気晴らしにお菓子作ってたら、朝になってて」


「えっと、真奈、もしかして徹夜したの?」


 加絵は目を瞠り、真奈の目元を見遣る。真奈は羞恥ゆえか、震えながら小さく頷いた。途端に加絵の視線は彼女を労わるものに変わり、同時に彼女の無茶な行動に対する呆れもそこに含まれていた。加絵は「らしくないね……」と溜息を吐いたが、真奈は何も返すことができなかった。


「なら、服の袖が汚れてるのも、慌てて片付けてきたせい?」


 アルマが傍から重たい沈黙を突き破った。真奈は彼女の問いに対して一瞬だけ狼狽するも、すぐに自分の服の袖を見遣り、右手首を覆っている袖の一部が薄く茶色に染まっているのを目にするや否や、「気付かなかった……」と零した。アルマも静かに息を吐き、口を閉ざす。無言になったアルマに何処かしら焦りを覚えたのか、真奈は目を左右に泳がせながらアルマと加絵を交互に見遣る。そこで不意に何かを思い出したように、肩に掛けていた淡い色をした鞄の中身を探り出す。そう時間を取ることなく中から丁寧に包装されたマドレーヌが取り出された。


「えっと、お詫びじゃないけど、これ」


 そう言って、真奈は二つの個包装をそれぞれ二人の友人に手渡した。二人は笑みを浮かべて受け取り、軽く礼を言う。雰囲気が和やかになったところで、三人は服飾店へと足を運んだ。

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