第3話 根来忍者のルーツ
林長五朗叉は名取三十朗正澄は仮の名で、本当の名は紀州藩武士で藤林正武といった、後に紀州流忍術伝書(正忍記)名取三十朗正澄もしくは正武の名前で書くこの本は後に、新楠木(くすのき)流とも呼ばれる秘伝書である。
昔伊賀の上忍であった藤林長門守(別名百地三太夫)一党は、織田信長が四万六千余りの軍で伊賀総攻めの下知した時伊賀は四千人の小勢で立ち向かったそれは天正九年(一五八一年)九月二十七日であったが、その時情報によりいち早く藤林一党の大方は紀州にと落ちのびたらしい。言い忘れていましたが伊賀忍者には甲賀忍者と違い、上忍・中忍・下忍などの厳しい身分制度が御座いました。
結局のところ上忍で伊賀に残ったのは服部(はっとり)一門であるが、その時には元足利将軍家に仕え伊賀を離れていて難を逃れたらしい。戦乱後に古巣の伊賀に戻りました。
百地三太夫と藤林は同一とされていますが逃れたのは藤林の百地三太夫であり、もう一方の百地丹波は南伊賀を采配していたと云われていました伊賀の上忍で記録に残っているそうです。余談ですが百地三太夫のほうはあの有名な盗賊、石川五右衛門の師匠であったとされています。忍者はまかり間違えば盗賊の一味と思われかねない様な隠密行動をとります。お城に入り込み重要な書類等を盗み出したりお城の図面などを持ち出したり逸れは仕事だが全く盗賊と言ってもよい事ですね。
勿論依頼主は武士であり相手方も武士ですが、たまに仕事にあぶれて商人を狙うた食いあぐねた忍者も居たかも知れませんね。
百地丹波は上忍の林長門守一族と共に壊滅したとされています、それでも伊賀にはまだ残党はいたらしいのですがそれを探す為に藤林は林長五郎と名乗って、諸国を渡り歩き林長門守一族残党を探しに諸国を廻ったらしいのです深い繋がりがあったみたいですね。
前より織田信長の次男である伊勢の北畠(織田)信雄軍による伊賀攻めは天和三年(一六八三年)七月まで執拗に続きました。
この二度にわたる伊賀攻めにより女子供ともに根絶やしにされ、伊賀は信長軍団に全滅近く負けたのである。
如何に伊賀は忍びに長けているとはいえ信長の鉄砲による最新鋭の侍軍団には、為すすべも無かったのである。
ちなみに甲者賀者として、固い結束を誇った甲賀武士団は五十三家あったと云われる、個々に独立性強く如何にも武士といった風貌で有り、上忍とか下忍とかある伊賀とは趣が少し違っていたらしい。
なぜか信長に伊賀は嫌われていましたなぜなのか逸れは分かりません、多分信長の敵対勢力にも情報を流していたので、逸れが感に触ったようです。それで忍者の里であった甲賀や柳生も遣られまいかと、信長の動向には特別の注意をなされていました。
それ以前に柳生では忍者の里であること事態を、急遽封印されて表向きは剣術の里となりました。そうです裏柳生の始まりですね。
上泉信綱によって新陰流が(千五百六十年に確立)されて後その教えを受、柳生で道場を開き専ら表向きは柳生新陰流と名乗った。
表の柳生と裏柳生の二枚看板が、共存していたようで御座います。表柳生が徳川の指南役に付きしおり試合を申し込んで断られた、かつて宮本武蔵が退けられた一件が有りましたが裏柳生が活発に動いたので御座います。裏柳生は忍者の軍団であった、それを察して宮本武蔵はあっさりその試合を退いたのだ。
伊賀で最後まで残った者も命からがら、紀州の雑賀もしくは根来に落ちのびました。根来忍者はその時の伊賀忍者の残党であるとされている、伊賀忍者もその時に紀州だけでなくて彼方此方に分散した忍術の拡散ですね。
後の紀州流根来忍者は定かでないが、その時に落ちのびた伊賀忍者の子孫である、それでねにもつ雑賀衆は信長に執拗に逆らった。
余談であるが雑賀一党は本願寺に味方した時には、火縄鉄砲三千丁は持っていたとされています鉄砲には火薬が必要ですからね。
それと水軍で百隻を持っていて、毛利水軍と共に信長に抵抗反抗したのは有名な話として残っています、かなり信長に恨みを持っていたようですねだから伊賀忍者説があった。
この頃雑賀の雇われ鉄砲集団として根来の僧兵と共に有名だった、雑賀孫一(鈴木孫一)は鉄砲軍団を率いて諸国で大活躍しました。
根来衆とは、根来寺の僧兵ではなかったかと誰しも思われるが、伊賀の乱の時往来のあった根来寺を頼り生き延びた忍もいた。
後豊臣秀吉の陸海十万攻撃で僧兵と共に寺が焼け敵方となる雑賀衆も滅び、後で根来に住んだ忍者を根来衆と言うようになった。
豊臣秀吉の良いところは、軍門に下れば逸れを許す、武装解除はされたが雑賀党の一部は許された、雑賀衆も一枚岩ではなかった。
根来寺は僧兵が徹底好戦したので徹底的に排除され寺も大方焼かれた。
隆盛期に子院九十八僧坊二千七百を、数え寺領七十二万石と云われた新義真言宗総本山は滅びた。
その後根来には、落ち延び散らばっていた伊賀忍者の藤林一門(百地一党)が、住み着いたのである。根来(ねごろ)と云うと忍者の里と云う事も有って山間をイメージするがこの頃は平坦な田園地域であった。令和の現在においては整備された静かな一つの町である。
後の伊賀は、本能寺の変で徳川家康が窮地になった時、伊賀越えを助けた服部半蔵正成一門が、伊賀忍者の主流となったのです。
それで紀州に藤林長門守一門が別の忍者集団を立ち上げ、新たに根来に組織したと云われている。
根来忍者は探求心強く、新しい忍法を常に模索していて、個々に忍法の研究開発をしている、泰平の世に他の忍者は研究怠る中も。
現在にいうなら科学者であり研究者である、小さな不思議な事を探求し利用して、忍術を開発(発明)し自らの技、忍者術を高めるのである。
術は忍者の財産であり皆が苦労して会得したもので、各自の秘密だから上忍とて下忍者の術は、把握していないのである、どんなに優れた忍術も技術も、その人が居なくなれば消えてしまうものであるから、非常にもったいないがその技術の継承がないものもある。
例えば以心伝心の術と、云って鷹とかその動物の今見ている物が見えたり、聞こえたりする術だ。
一つのテレパスかも知れませんね。有名な北条早雲が、雲という鷹を使った話は伝説的な話です。
明け七つ(午前四時)目が覚める外は暗く寒い、霧が濃かった。
人の気配がしたので、誘われるように部屋を出た、寝ぼけまなこで奥の拝殿を見ると白い髭の老人が木刀を持ち、剣の稽古しているその動きから観ると、かなり手練れの使い手である。
(長五郎先生の、知り合いかな?)
手招きしているので拝殿の中に入ると、木刀を渡され対峙する。
物も言わず打ってくる、受ける打って出る、それもゆっくりした動作で形を教えているように。
木刀を置き素手にて向かってきた、木刀を上段から打ち下ろすが両手で挟み合わせて止められた。
(あっ無刀取り合気技だ、それでやっと気がつく、師匠が言っていた武田国継という仙人だと!)
で夢中になって稽古したが、急に疲れと眠気に襲われその場に倒れこむ。
これが合気術の奥義の金縛りの術であったが、掛けられた本人は全く自覚していなかったのであったが、小半刻(三十分)ほどしてから目が覚める、けどその人はもう居ませんなので寝ぼけ頭で、いったい何が起こったのか解らぬままに稽古場にと、すごすごと戻りました。
(夢のような不思議な出来事だったな、あれは現実だったのか?)
普通過去に消えてしまった術であった、それが時を超越し魂同士が触れ合って蘇る前に経験した林長五郎に接した事で能力が文兵衛に移ったのかも知れません、それは人には図れない一種の超能力というべきものなのかも知れませんね不思議なことです。
幸いにして大東流合気術は伝承されています、義経流と少しは関係あるのかは判らない、合気を開いた人だから自意識をその時代より未来に飛ばせたかも知れ無い、それとも神社は不思議な場所だからなのか、知るよしもないのです。
「文平ちゃんお菓子、持って来たよ」
「あれ喜美代さんは、どうしだのかな?」
美咲は、見る間にふくれた。
「お母さんのお手伝いしてるよ」
「じゃ戴きます、これはよもぎ餅だね」
「おいしい、ねえどうなの?」
食べるのを可愛くあどけない目で、じっと見ている。
「それじゃまたねぇ、文平ちゃん!」
と言って来た道を子供走りで鳥の様に、軽やかに帰って行くのである。
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