三十一話 神は人の上に人を創造せず
「若、大聖別の試練が始まった、ようです」
「————」
冬の小川の一角にある宿屋の一室。医師から絶対安静を告げられたアルは従者に見守られたまま、微睡みに身を任せていた。あの日、アルケーの工作員と思しき者達を追跡した先で見つけた秘密の工房らしき光景を思い出し、ジャイルの渋い顔が青みを帯びる。
アレはこの世に存在してはならないものだ。既に廃れた錬金術に魅入られた狂気の術者によって提唱された人工的に人を造るという禁忌。
母なる大地、精霊に対しての冒涜。
それがこの聖地に置いて人知れず行われていたなど、誰が信じよう。
アレは悪い夢だった————。そう願わずにはいられない。
何故ならラスルカン教の唯一神である『アンスル』をも冒涜する行為なのだから。
————神は人の上に人を創造せず。
精霊信仰がいつしかその存在を忘れさせてしまった帝国を始めとする大陸西部と違い、ラサスムは今も『神』という概念が息づいている地だ。
それは交易の要所として栄えてきた国の歴史を物語るには欠かせない要素であり、良くもあれ、悪くもあれ、神という偶像を崇拝することにより秩序が保たれてきた国だから——とも言い換えられる。
いや、そうせざるを得なかったというのが、趣味で考古学に詳しいジャイルの知見だった。大陸東部と西部を一本の大河のように結ぶ『絹の道』と呼ばれた交易路の存在。
今でこそ大陸を横断する蒸気機関や海路を行き交う蒸気船が物資の運搬を担っているが、その昔は何日もかかる行商の旅を経て商人は各国を巡っていた。
当然、国に流れてくるのは絹や特産品だけでは無い。文化も勿論含まれる。
単純にそれがまだ見ぬ遠く離れた国に抱く憧れくらいで済まされるだけなら良かったのだが、書物や伝聞による思想の流入は止められない。
だから国をまとめ上げるのにラサスム王家は、古来より伝えられてきた神の威光に縋る他無かった。厳しい戒律で民衆の暴動を抑制し、他国から流れてくる文化や思想を統制という大義名分でもって管理した。
その結果、起こったのが十一年前の遅すぎた宗教紛争。
精霊教会、ラスルカン教、双方の救世主が足跡を残しているヒエロソリュマに置いて、不干渉を貫いてきた両者が初めて起こした愚かな争い。
数多の罪無き命が奪われた歴史に刻まれるであろう、凄惨ないがみ合いを起こした原因とはなんだったのか? 今となってはその切っ掛けすらも、追うことは不可能だ。
だからこそ、あの場で見てしまったものが
あんなものが聖地で発見されたと知られれば、あの時以上に酷い事態になりそうで。
直接見てしまった自分でも信じられないものなのだ。だが、眠っている主はこう告げた。
詳細が判明するまで他言無用だと。
アレはこの世に存在してはならないものだ。いや、アレを見てしまった以上、錬金術が廃れ、連換術が発達したのも、もしかすると————。
「そんな馬鹿な事があり得る……のか?」
ジャイルはふと浮かんだ天啓とも云うべき閃きに恐れおののく。
そうだと考えれば全て辻褄が合う。合いすぎる。
静かな寝息を立てている主たる第二王子が目覚める様子は無い。
大聖別の試練が始まった聖地は表向きいつも通りで、何かが秘めやかに遂行されている気配は微塵も感じられない。
気のせいであればそれでいい。けれど、既に帝国の地に置いてこれまでの常識を覆されるような異常事態が起きた以上、例の秘密結社は何処で何を起こしてもおかしくはない。
そう、例えば、信仰の中心たる聖地が標的にされないなんて保障はどこにも無いのだ。
「……」
ジャイルは室内に備えられた机に向かう。羽ペンにインクを浸し常に持ち運んでいる記録用のノートに文字をしたため始める。
杞憂であればそれでいい。だが、この気づきがもし今後何か役に立つのであれば。
その時、自分が事態に立ち会えなくても、アレン公爵が、ナーディヤが、帝国で知り合った頼もしい連換術師達が、そして我が生涯の主と定めたカマル王子が必ず解決してくれると。
まずは何から書き残すべきか。カリカリとインクを湛えたペンが白紙の上を滑る音だけが、静かな室内に響き渡った。
☆ ☆ ☆
「あの宿に、俺らの秘密工房に踏み込んだ奴らがいる……ねぇ」
冬の小川の滝の上。大量の水が落下する滝口に、水面に立っているとしか思えない男の姿があった。薄汚れたブーツの踵に触れるか触れないかの下では、
「あーめんどくせぇ。これから大仕事の前だってのによ。なぁ、お前もそう思うだろフェッルム?」
胸元から葉巻を取り出した男は、旧知の友に話かけるように独り言を発した。
奇妙なことに男の腰に巻かれた太い鎖は、その言葉にカチンと来たかのように伸縮し始めバシンと男の頬を打つ。蛇腹に編まれた編み目が広がり、心なしか青筋を浮かべているようなのは、果たして気のせいだろうか。
「いちち……おい? 何キレてんだよ? あん? 最近煙草の吸いすぎだって? 別にいいだろうがよ。ただでさえ退屈な雑事をあれこれ押しつけられて、こちとら参ってるんだ……あいだぁ!?」
マッチを擦るように葉巻の先を押しつけようとするアイゼンの手を、容赦なく鎖が打ち付ける。
皺が目立ち始めた手の甲にくっきりと筋状の痣が浮かび上がった。
痛んで熱を帯びた手を冷水に浸して冷まそうと男が屈む。ちゃぽんと音を立てて水の中に手を突っ込むと、ぴりりと毒を持った生物に刺されたかのような違和感を感じた。
「こいつぁ……電気か?」
「御名答。儂の迸る剣気を感じ取るとは、ただ者じゃ無さそうじゃのう——若僧」
転瞬、衝撃によって巻き上げられた水が滝を遡るように空に向かって舞い上がる。
叩きつけられたのは常人には振るうことさえ不可能な鉄塊の塊と見紛う無骨な大剣。
銘は無し。だが、刀身に刻まれた無数の傷が、歴戦を己が使い手と共にくぐり抜けてきたのだと示している。
「おいおい……熊みてぇにおっかねぇジジイじゃねぇか。しかもやることが不意打ちたぁ帝国最強と名高い武人が聞いて呆れるぜ」
「ほっほっほ。卑怯者に卑怯と呼ばれることこそ滑稽なことはないのう。禁足地たるこの御山を張っておいて正解じゃったわい。——おんし、
「……へぇ?」
冬場の肌を刺すような気温にも関わらず、上半身裸で大剣を背負う剣帯しか身に付けてない、巌のような春雷卿が口角を僅かに吊り上げる。
この領域にまで至りし武を極めた者だけが、戦いの昂揚感を感じて浮かべる
獲物を前にして逸る心を落ち着ける為か。それともまだ見ぬ
「おもしれぇ。俺とやろうってのか? ジジイ」
「はん。これだから近頃の若いもんは。————目上を敬う感謝の思いが足りん。不本意じゃが、その捻れた性根、この場でたたき直してくれようぞ」
静寂は一瞬。激しい
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