二十一話 教皇猊下の静養所
アルクスの道案内に従い、到着したのはシナイ山の山道入口だった。精霊教会に置いて最高位の精霊と称される『原初の精霊』が地上に降臨した地とも伝えられているこの山は、古代の神秘を今に残す象徴でもある。
真っ暗闇の山道をカンテラの明かりを頼りに静かに進む。聞こえるのはお互いの息遣い、枯れ葉を踏みしだく音、風で揺れる木々のざわめきだけ。年間降水量がとても少ない乾燥した地域に不自然なほど緑が溢れる山。目の前に広がるあり得ざる自然の姿こそがこの地を聖地と定めた理由なのだろうか。
周囲の神秘的な光景に目を奪われつつ、先導役のアルクスの後に続く。人が踏み入ることの無い獣道を抜けた先に、山の中とは思えない立派な石造りの建物が姿を現した。
「ついたよ。ここがクロイツ教皇猊下の静養所」
山の影に隠れるようにひっそりと建てられた古めかしい教会。どうやらここに、シエラの父であり、現精霊教会の長であるクロイツ教皇猊下が居るらしい。俺なんかがお目通りを許されることなど本来なら無いお方。それも、病気の静養中だという話だし、本当に大丈夫なのかと不安になるが腹を決める。
何度かここを訪れているアルクスの後に続いて、四大精霊のレリーフが飾られた扉をくぐり中へ。白亜の祭壇が正面に鎮座するそこは、随分と古い礼拝堂のようだ。
そこはかとなく既視感を感じるのは、あの丘の地下にあった礼拝堂と雰囲気が似ているからだろうか?
「グラナさんこちらへ。……どうしたの? 落ち着きが無いけど」
「いや……以前にも似たような礼拝堂を訪れたことがあって。……そのマグノリアで」
「マグノリアで? ……それって八枚目の東方巡礼図が飾られていたという?」
流石は教会の次期教皇候補の一人。厳重な情報規制がされていたはずだが、やはり教会側には筒抜けだったらしい。聖葬人ジュデールとの激闘後に現れた八枚目の巡礼図。災厄を鎮める為に、聖女が七色石の力を開放した直後を鮮明に描いたものだった。
今思えばあの壁画にも不可解な点は多い。そもそも誰があれを掘ったのかすらも不明だし、あそこまで凄絶な戦いを見届けた者の候補といえば、聖女と共に災厄に立ち向かった七聖人ぐらいしか思いつかない。推測混じりではあるが、地下礼拝堂の調査結果と共に手短に伝える。
「……僕もその通りだと思う」
「え? アルクスもか?」
「聖女様の伝承には不可解な点がありすぎるけど、極めつけが巡礼の旅路から帰還した後だ。————災厄。天変地異の如き、力を持った大罪が具現化した存在。そんなものが何故、マグノリアを聖女様を襲ったのか。考察するには、余りに情報が少なすぎる」
驚きを隠せない。教会の信徒に取って敬うべき存在の聖女の偉業にあろうことか疑いを持つ者がいたという事実に。アルクスが指摘した聖女伝承の謎。
それは考古学の分野でも長年論争の的になっているものだ。大きい町の本屋に行けば、聖女の伝承に異を唱えるとんでも本や論文が普通に陳列している。教会側も聖女に関しては扱いが比較的蛋白で、生誕祭を派手に祝っているのも帝国内ではマグノリアくらいだ。
もっとも、八枚目の巡礼図が発見されたことにより、議論は更に激しさを増しているらしいが。とにかく、こんなところを教会関係者に見られでもしたらまずいことになるのは間違い無い。
「伝承談義はともかく、そろそろ移動しないか? 静養所なんだから、教皇様のお世話をする人たちだっているんだろ」
「あー……お付きの人は実は一人しかいなくてね。それに」
「それに?」
「……なんでもない。とにかく、教皇猊下の部屋に案内するよ。たぶんそれが、あの子の望みだと思うし」
何かを誤魔化すように会話を切り上げたアルクスは、礼拝堂の奥の扉を開いた。
どうやら建物の奥が居住区画になっているらしい。いよいよ、シエラの父親と対面するんだと思うと、心無しか緊張してきた。
★ ★ ★
教皇猊下の私室は非情に簡素な造りだった。贅をこらしたものでも無ければ、生活臭が漂っているわけでも無い。
無味、無臭。
白が際立つ異質な内装の部屋。中に入ればその白さを助長するかの如く、鼻腔を突く柑橘系の香り。窓辺に視線を向ければ、見慣れた瓶詰めの香油。それが二つ程置かれていた。
「ここが教皇様の部屋……なのか? 言いたくないが、これじゃまるで……」
「病室。……その想像は間違ってないよ。グラナさん」
出来れば違って欲しいという俺のささやかな願いは、無情な程現実感を帯びたアルクスの肯定によりあっさりと砕かれた。……シエラが面会を許可されなかった理由が今なら分かる。
「……クロイツ教皇猊下。客人をお連れいたしました」
教皇猊下に呼びかけるアルクスの声がいやに寒々しい。果たしてきた役割と功績に釣り合いの取れない質素な寝台。そこに横たわる痩せさらばえた細身の男性。弱々しい呼吸を繰り返す男の顔は、所々黒ずんだアザが浮かび上がっている。
ただのアザじゃない。俺はこのただれた皮膚に見覚えがある。あれは……そう。春の頃、マグノリアで対峙した聖葬人ジュデールとの戦いの時だ。奴が放出した汚れたエーテルで蝕まれた結果、俺とシエラは危うく……命を落とすところだった。
あの状態のことは今も忘れられない。全身を覆う苦痛と倦怠感。命の灯火が時計の針が進むよう刻一刻と1秒毎に削られていく恐怖。今思い出しても背筋がぞっとするあの症状に教皇猊下が罹患しているなんて、誰が想像出来ただろう。
「アルクス。その……クロイツ教皇様は」
「もう長くはないってお医者様から診断が出ている。神殿医でもお手上げの病気らしくてね。————だから、あの子には知られたく無かったんだ」
「……あの子だって?」
真っ白い室内に俺の問い返しが反響する。今までひた隠しにされてきたクロイツ教皇の病状。シエラがいくら面会を申し込んでも許可されなかったのも頷ける話だ。こんな変わり果てた姿、当人も肉親もこの現実を受け止めきれる訳が無い。
だが、今のアルクスの口ぶり……。シエラは既に教皇猊下と面会を果たしているとしか思えない。
「どういうことだよ? あの子……シエラはここに来たのか?」
「……それは」
言い淀む彼の困惑した声音は、俺の指摘が的を得ていることの証左。やはり、シエラはこの聖地の何処かにいる。そう確信する。だが、そうであればあの子の一際目立つ水属性のエーテルの気配を微塵も感じられないのは、どういうこと……なのだろうか。
「————騒々しいと思ったら、宿場街に居た元素術士と名代かい。今際の際の淵を彷徨うクロイツに何の用かね?」
耳では無く胸を震わせる抑揚の無いしゃがれ声が俺の思考を遮る。振り返ればそこに居るのは、さして特徴の無い老婆。しかし、あの時とは明確に存在の圧が違う。
老婆の内に秘められたエーテルの輝きは生命力に満ちている。直にお迎えが来そうな老人とは、思えないくらいに。
「婆さん。あんた教会の関係者だったのか?」
「いんや。そこで今にも天に召されようとしている男と個人的な繋がりがあるだけよ。名代、そこの元素術士を連れて来たということは、もう隠し通すことは無理————ということかな」
「……仰る通りです。原初の精霊様」
「————え」
理解の及ばない会話の応酬。カインの事情、アルクスの隠し事、クロイツ教皇の病状など、気になることが全て頭から吹き飛ぶほどの衝撃をここにきて受けることになるなんて、想像出来ただろうか。
「婆さん……あんたが原初の精霊?」
「そう……呼ばれていたこともあったかね。————人の世で名が無いのは不便だと聞く。オリワスとでも呼ぶがいい」
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