十二話 鉄と語らう男
「ひいっ!? た、頼む命だけは」
聖地から少し離れた帝国とラサスム王国領を隔てるシナイ山の麓。地図にも載らない僻地の裏寂れた集落の酒場から悲鳴が上がる。
「あ? そっちから喧嘩ふっかけといて何怖気づいてやがる」
割れた瓶や食器、その他様々な物が散乱する小汚い店の床には、ならず者と思しき男たちが気を失って伸びていた。手足には何かで激しく打ち付けられたのか、皮膚がミミズ腫れになっている。丸い穴が特徴的な殴打の跡を見下ろし、散々たる店内の中央に立つ男は不機嫌そうに怯えた眼を覗き込んだ。
「こちとら仕事前の景気づけに気持ちよく飲んでたってのによぉ。この落とし前、どうしてくれるつもりだ?」
酒臭い吐息を吐きながら男は、腰を抜かしたごろつきの首根っこを乱暴に掴み立ち上がらせる。短く刈り込んだ髪には白髪が混じり、眼光鋭い双眸は煤がまじった鈍い灰色。傷んだレザーコートとテンガロンハットという組み合わせは、まるで荒野を行く無法者の装い。ただし、腰にあるのは拳銃では無くベルト代わりに巻かれた鎖だ。
「金でも酒でもなんでも払う!! お願いだ。見逃してくれ!!」
「……おいおい。金と酒さえ払えば何やっても許されるとでも? いい度胸だコラ」
激高と共に男が筋張った拳を握りしめる。大きく振りかぶった太い腕が、真正面からならず者の顔面を捉えた。鼻がひしゃげる程の衝撃をまともに食らい、ならず者は悶絶する。ぽたぽたと滴り落ちる血が男の足元を紅く染めた。
「あーあ、あっさり伸びやがって」
無造作に掴んでいた胸ぐらを開放する。しかし、直後に起きたのは重力に引かれてどさりと崩れ落ちる音ではなく奇妙な光景だった。
気を失ったならず者の体は中空に浮いていた。だらりと四肢から力が抜けた様は、糸で繰る人形か、蜘蛛の巣に絡め取られた哀れな獲物そのもの。人型のオブジェをつまらなさそうに一瞥した長身の男は、懐から紙タバコを取り出した。腰に巻いた鎖でしゃっと目にも止まらぬ速さで擦る。火が着いたの確認して、タバコを不味そうに吸った。
「あー……だりい、めんどい、かったりい。お前もそう思うだろ? フェッルム」
誰もいない店内に、男は知己でも居るかのように語りかけた。誰に話かけているかは分からない。しかし、男はいらっとしたように声を荒げた。
「あん? 貴様は気が短すぎる? なんでも暴力で解決するのでは無く、少しは頭を使えだと? んなめんどくせーことやってられるかよ。————てめぇもそう思うだろ?」
煙をくゆらせながら男が振り向く。店内にはいつのまにかもう一人客がいた。
「さてね。あたしも気が短いほうだから、ある意味では似たもの同士だからねえ」
「なんだぁ? 含みがあるもの言いじゃねぇか。蛇女」
「まっ、喧嘩っ早い男は嫌いじゃないさ。————アイゼン」
顔に蛇の入れ墨をした女、デボラは縦長の瞳孔をふっと片目だけ閉じた。
「よせや。小娘がおっさんをからかうんじゃねぇ」
「小娘っていう歳でも無いけどね。————あの方からの伝言だ。聖地を派手に潰せ……だとさ」
さらりと世間話に混ぜ込まれた物騒極まる言伝。アイゼンの白髪混じりの眉がぴくりと揺れる。くくっという忍び笑いが薄暗い店内に木霊した。
「ロリババアにしちゃ、単純明快な指令じゃねぇか。いいねぇ、実に分かりやすい。で、いつ仕掛けるんだ」
ぷっと吐き捨てた紙タバコをじゃりっと踏み消したアイゼンは、急かすように促す。女が蛇なら、男は獲物に飢えたハイエナ。確かに二人は似た者同士であった。
「ああ、やるならコンクラーヴェの真っ最中だ。なんせ、あそこにゃ忌々しい風の連換術師も来てるって話だからね」
「風……ああ、最近噂の《英雄》のガキか。けったいな東方体術を得手にしてるっていう」
「炉、フラスコ、そして《聖杯》。毎回、あたしらの邪魔をする身の程も知らないガキさ。悪いけど、《英雄》はあたしの獲物。渡さないからね?」
「蛇女にしちゃいやに執着してやがるな。なんだ、惚れたか?」
「冗談。皇都じゃまんまと逃がしたから、次こそあの首獲りたいだけよ。ついでに生臭坊主共の首も根こそぎ、ね」
女はそう言って舌舐めずりをした。舌は先が二つに割れていて、さながら蛇がチロチロと舌を出している様がアイゼンの脳裏をよぎった。
おっかねぇ小娘だ————と、男は口には出さず胸の内で吐露する。
蛇の使徒の異名は簒奪首鬼。人体の中でも首にもっとも執着を抱く、首狩の鬼女。アイゼンはここまで蛇を狂わせた顔も知らぬ《英雄》に、少しばかりの興味が湧いた。
「いいねぇ、久しぶりに退屈しねぇ仕事になりそうだ。なぁ、フェッルム」
語りかけられた鎖は無言を貫く。返事の代わりにじゃらりと音を鳴らし俄に外が騒がしいことを二人に知らせた。
「あん? 殺気立った連中が数人ここに向かってる? 上等だコラ。聖十字騎士共を相手取る前に軽くもんでやるかね」
ぱきぽきと指の骨を鳴らすアイゼン。意気揚々と外に向かう男にデボラは待ちな、と呼びかけた。
「……ああ? なんのつもりだ蛇女?」
「準備の一環でね。生きのいいヒトが必要なのさ」
「ヒトだぁ? なんだ人体実験でもするつもりかよ?」
「そこまでは知らないよ。セレスト博士から頼まれただけだからね」
使徒の中でも特殊な立ち位置にいるセレスト博士の奇行に関しては、同じ使徒であるアイゼンにも理解が及ばない。もっとも彼の相棒である鎖のフェッルムと意思疎通できるのは博士のお陰なのだが、それで博士に関して見る目が変わったわけでもない。益々胡散臭さが増しただけなのがアイゼンの認識だった。
「マッドな博士からの依頼とか俺なら願い下げだな」
「あたしだって、主命じゃなきゃ受けないよ。こんな詰まらない仕事」
「ハッ、ちげぇねぇ。そんじゃま、別行動で聖地に向かうかね」
「一応、釘を刺しておくけど、準備が整うまで暴れんじゃないよ?」
「おいおい、噂の《英雄》様の顔を拝むことくらい許してくれよ? にしても聖地……か」
アイゼンは穴が開いた天井から狭い空を見上げ、くくっと獰猛に嗤った。
「荒れそうだなぁ。————風が」
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