五十三話 Fifth day 揺れる心

 早朝、アクエスの実家の道場にて俺はまたも無様に床に転がっていた。

 アクエスの養父、リャンさんから提示された課題。二日後に控えた皇太女の儀までに一撃いれるのは、こんな調子で本当に達成出来るのか自信を失いかけていた。


「ふむ⋯⋯」


 リャンさんは構えを解くとそのまま背を向け道場を出ていく。俺が声を掛けようとすると、武聖は一言「止めだ」と発した。


「——止めって、どういうことですか?」


「稽古に集中しきれていない。気も乱れている。昨夜、何があったかは知らないが浮ついた気分を修行の場に持ち込むな」


 何処か見透かすような武聖の静かな声音は咎めるようなものでは無かった。

 俺の中に滞留している澱のような感情を数度の打ち合いで見抜いたということだろう。

 不甲斐ない、そしてそれを自覚している己が情けなかった。


「型についてはこれ以上教えることも無い。期限まで残り二日。——何が足りていないのかよく考えることだな」


 あくまでも武聖として俺に接してくれるリャンさんの気遣いに無言で頭を下げた。

 誰もいなくなった道場の冷たい床に座り、昨日のことを思い返す。

 連れ去られたシエラも心配だが、それ以上に幼馴染みの普段は見せることの無い振る舞いに俺は心を乱されていた。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 ローラから正式に依頼を受け控え室を出たのは、日付が変わる一時間前だった。

 歌劇場の受付から先に戻っているとソシエとアクエスからの言伝を訊いた俺とルーゼは、南地区サウスエリアから帝城に繋がる大橋の中央で夜の湖畔を眺めていた。


「それにしても凄かったね。オペラ」


「初めて鑑賞したけど、見応えあったな。まさか、歌姫と直接会えるというサプライズもあったし」


「びっくりしたよねー。ローラさん素敵だったなぁ」


 夢のようなひと時の余韻を漂わせながら、ルーゼはうっとりと夜空を見上げている。

 雲一つ無く晴れ渡った夏の夜空には、宝石を散りばめたような星の輝きに混じって、獅子が口を開けたような並びで一際明るい星が鏡のような湖面に映し出されていた。


「ねぇ、グラナ?」


「なんだ?」


「セシル皇女殿下とどんな話をされたの?」


「え? お前、なんでそれを知って——」


 慌てる俺にルーゼは「クラネスさんから教えてもらったの」と前置きをすると、そっと肩を寄せてきた。


「ど、どうした? 急に?」


「お願い⋯⋯また何か大事になる前に教えて。二ヶ月前みたいに訳が分からない内に、また何かに巻き込まれて怪我するところは見たく無いから——」


 参ったな⋯⋯。セシルから教えてもらったことは、言わば極秘情報だ。

 行方不明のエリル師匠のことから、五年前の『異端狩り』の真実。間接的にルーゼと関係があることもあって何から話せばいいのか見当もつかない。


 レイ枢機卿から突き付けられた条件を話そうものなら、この幼馴染みは教会まで抗議をしに行ったっておかしくない。


「⋯⋯大丈夫。何も巻き込まれていないから」


「あんたの大丈夫ほど信用の置けないものもないわよ⋯⋯。でも、信じていいのね?」


「ああ。殿下と話したことは全てにケリが付いたら、必ず話すから」


「そ。じゃ、約束」


 ルーゼは右手の小指を差し出してくる。俺も苦笑して左手の小指を差し出した。

 二本の指が合わさり、堅く結ばれる。それは幼い日々に何度も交わした約束を思い起こさせた。


「覚えてる? 夏の夜に二人で村を抜け出して夜空を見に行ったこと」


「よく、覚えてるよ。綺麗だったな、星空」


 幼い頃、ケビン爺さんが寝室に戻るまで辛抱強く待って、夜の冒険に出かけたことがあった。

 あの頃の俺はこの厄介ごと体質もあって、まともに会話出来たのは一緒に村外れの教会に住んでいたルーゼとケビン爺さんだけだった。


 その頃からしっかり者のルーゼに連れられて村の周囲をよく探検していた。

 同年代の子たちからは仲間外れにされてたし、師匠に出会って連換術と体術を学び始めた頃は、よく喧嘩にも巻き込まれたりもした。


 そんな中、どんなに俺が辛い目にあってもいつも側にいてくれたのがルーゼだった。

 ケビン爺さんは基本放任主義だったし、村に唯一ある教会の牧師でもあったから、表立って俺を庇うようなことは、今思えば出来なかったのだろう。


 彼女の力強い励ましの言葉に何度救われたことか——。


「風車小屋まで競争って言い出したのに、途中でへばってたよね」


「まぁ、あの頃は体力も無かったしな。⋯⋯というか、よく覚えてるな?」


「何年、あんたの幼馴染みやってると思ってんの? グラナのことなら⋯⋯なーんだって知ってるんだから!」


 星空にも負けない満面の笑顔で幼馴染みは楽しそうにからからと笑う。

 いつもより大人びた姿にも関わらず、全く変わらないルーゼの有り様に俺は⋯⋯心揺さぶられる。両親を流行り病で亡くしてから、ずっと家族のように俺の側にいてくれた彼女の存在の大きさに初めて気がついた。


「約束⋯⋯ちゃんと守ってよね? 破ったりしたら許さないんだから」


「破るわけないだろ⋯⋯。でも、ありがとな。お陰で少しは気が楽になったよ」


「そ、そう? なら、良かった。あ、そうだ——」


 手提げのバッグから少し大きめの紙包みを取り出したルーゼは、恥ずかしそうに俺にそれを渡した。開けてもいいのかと尋ねると、彼女はこくん⋯⋯と頷く。

 失礼してその場で包装紙を剥がして、白い箱の蓋を外す。中に入っていたのは真新しい革製の籠手入れだった。


「これは——」


「十八歳の誕生日、おめでとうグラナ」


 唐突に言われたその一言に、今日がその日であることを今更思い出した。今は一刻も早くシエラの行方を突き止めなきゃいけないという焦りがそんなことすらも、いつの間にか忘れさせていたらしい。


「昼間会った時に気がついたけど、今使ってるのだいぶ傷んでたから——」


「それでこんなにいい物を? 高かったんじゃ——」


「気にしないで。それより、嬉しかったの。あたしが贈った籠手入れ、ボロボロになるまで使い込んでくれたんだなって」


「そんなの当たり前だろ? お前が初めて稼いだユルトで買ってくれたものだったし——それに」


「それに?」


「⋯⋯な、なんでもない」


 意気地なし、と彼女の顔にはっきりと書かれている。

 ここから先に踏み込めば、どうなるか。

 いくら鈍くても、それぐらい分かっていた。だから、目をそらした隙に起きたことが信じられなかった。


 達人の如き摺り足で彼女は⋯⋯俺の唇を塞いだ。

 それは瞬きの間のようであり、永遠にも感じるひと時。

 街灯の灯りが向かい合う俺たちの影を湖面に写す。引き延ばされた影は暗い水面にはっきりと、刻み込まれたかのようだった。


「る、ルーゼ⋯⋯?」


「——先に帰るね。おやすみ、グラナ」


 日付が変わったことを知らせる鐘楼の音が遠くでボーン⋯⋯と響いている。

 火照った顔で夜空を見上げて、俺は⋯⋯夏の涼しい夜風で熱を冷ますことしか出来なかった。

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