三話 襲撃者

 マグノリアの東街区の外れにある貧民街スラム

 昨晩、廃屋となっていた教会にて追跡者の手から命からがら逃れたシスター服の少女は、放棄された空き家で一晩を過ごした。

 

 最近、この貧民街では咳や高熱といった風邪の初期症状から、重症化し死に至るものもいるらしい。決して衛生環境など良くは無いこの地区であれば、どんな病が蔓延してもおかしくは無いのだが。

 

 埃だらけの粗末なベッドから空腹を感じつつ起き上がった少女は、眠い目を擦りながらドアに手を掛け恐る恐る外の様子を確かめる。裏路地に位置するこの空き家の前の通りは人の姿も無く、しんと静まりかえっている。今なら、ロザリオが反応を示していた廃屋の教会に再び向かうことも出来そうだ。少女が意を決して家の外に出た直後、背後からおぞましい嫌悪感と殺気にも似た鋭い視線を向けられた。


 「ふあーっ。夜通しの追いかけっこは流石に疲れたさね。いい朝だねぇ? お嬢さん?」


 「聖葬人せいそうにん!? 撒いたと思ってたのに——」

 

 後ろを振り返ることも無く、少女は脱兎のごとく駆け出した。走りづらいシスター服の裾をたくし上げて、はしたない格好で。捕まれば聖堂に戻され、再び人質としての扱いを受けるだけ。

 体力にだけは自信のある少女は複雑な貧民街の路地を軽快にというわけでも無く、減速すらも許されない状況下で何度も転んだ。決して綺麗とはいえない路地で転ぶたびにシスター服は見るも無残な状態になっていく。


「たまげたねぇ? お嬢さん本当にただのシスターさね?」


「ハァ⋯⋯ハァ⋯⋯、走るのが、得意なだけです⋯⋯!!」


 少女は強がるようにまだ余裕があることを、フードの人物にアピールするが身体の疲労は隠し切れていない。今まで捕まらなかったのは、この追跡者が捕まえる気が無いのか、それともいたぶって楽しんでいるだけなのか。


「くっ、また⋯⋯」


 迷路のような貧民街スラムは道なのか民家なのか境界線が分かりづらく、その度に減速を強いられる。そんな少女の慌てる姿に、ペロリと舌舐めずりをしながら追跡してくる鼠色のトレンチコートを着た男は、常人ではありえない身のこなしで、バラックを足蹴に縦横無尽に飛び回り少女の行手を遮る。例えるなら逃げ回る野兎を追い詰める、狩人のような構図だろうか。


「ふふふ。そろそろ追いかけっこは、おしまいにしようかねぇ?」


 男は空中から手を砲台のように少女に向ける、そして手の平から可視化された得体の知れない力が放出された。


 背後から何かが高速で迫ってくることを感じ取った少女は、直感的に光が漏れ出している路地の出口に身体ごと飛び込む。


「なっ——、何? このエーテル⋯⋯」


 得体の知れない可視化された赤黒いエーテルに巻き込まれるかのように飲み込まれ、そのまま通り向こうにある酒場の壁に叩きつけられる。あわや壁にその華奢な体が叩きつけられそうになった瞬間、少女の胸元から七色に輝くロザリオが飛び出て力強い虹色の光を発した。


 ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 酒場の壁に大穴が空いて、テーブルや椅子、食器が余波を受けて吹き飛ばされた惨状は、日常が一瞬で非日常に変わった瞬間だった。

 危うく床に叩きつけられそうだった、シスター服の少女を空中でキャッチしたグラナは、少女に外傷が無いことを確かめるとルーゼに預けた。

 

「⋯⋯なんなのよ一体。——誰? この子」


「ルーゼ、その子を任せた。⋯⋯不幸中の幸いか怪我は無さそうだけど」


 手早く辺りを見渡し、穴の空いた壁に張り付きそっと外の様子をうかがう。そこにはフードを被った男とも女にも見える怪しい人物が手を突き出して立っていた。突然の事態に外の通りは我先にと逃げる人々で溢れ返っている。


「おや、外したか? 悪運の強い娘だねぇ」


 鼠色のトレンチコートを纏った男が目深に被ったフードの隙間から薄紅色の血走った目を酒場に空いた大穴に向けていた。そして、こちらの方に徐々に近づいてくる。


 異様な風貌だが、なんらかの力を持ってると思しき男を見やりながら、グラナはベルトからぶら下げた革製の籠手入れから、金属製の手首までを覆う『可動式籠手』を取り出す。手首と関節を保護する部分の金具には、新緑のように鮮やかな緑色の連換玉れんかんぎょくが嵌っていた。


「チッ、真昼間の往来で好き勝手やりやがって⋯⋯」


 いきなり壁に穴が空いた現象を目撃することになった利用客も騒然となっている。更にさっきの衝撃で出入り口が塞がれた状態となっていた。

 グラナは可動式籠手を素早く左手に装着する。大穴から勢いよく外へと飛び出すと、出会い頭に男へ踏み込み身体を捻りながら左回し蹴りを放った。


「へぇ?」


 胴体を狙った蹴りを、男は後方へ飛びのき躱し空振った左足が空を切る。

 グラナの身体が宙にふわりと浮く。再び接地した左足の反動を殺さず、そのまま遠心力に変えて裏拳を叩き込んだ。最初の奇襲から、数えて十歩。既に両者はお互いの間合いの中だ。

 姿勢を低くし掻い潜るように避けた男は、そのまま後方へ飛び下がり怪しく笑う。それはさながら、新たな狩りがいのある獲物を見つけた歓喜に震えているようにも見える。


「一般人にしては中々の体術さね? 酒場の用心棒か何かかい?」


「——答える義理はねぇな」


 間合いを詰めるような体捌きで一気に詰め寄ったグラナは左手を大きく振りかぶる。先ほどの後退で、男は通り向こうの木造の民家の壁に肉薄している。つまりこれ以上は下がれない。

 風切り音すらする大きく振りかぶった一撃を、しかし、男はあっさりいなして受け流す。

 壁に激突する前に左腕をからめ取り、腕を折ってやろうと男がほくそ笑んだ瞬間。


「へぇ?」


 壁に激突した左拳が止まるどころか壁を突き抜けた。


「あらら、おっかない威力さねぇ?」


「——元素解放」

 

 低く呟いたグラナの可動式籠手から旋風が湧き起こり、腕を折ろうとした男の手が風圧で吹き飛ばされる。衝撃で壁にめり込んだ左手を勢いよく引き抜くと、目視出来るほど視覚化された風が左腕を保護するかのように渦巻いていた。男は慌てて飛び退き、その不可思議な現象をじっと観察している。


「風? ⋯⋯なるほどねぇ」

 

 自然現象である風を自在に操るグラナの正体に気付いた男は、歪んだ笑みをさらに凄絶なものへと変える。男が纏う空気が変化したことに気付いたグラナも壁から左手を強引に引き抜くと、腰をスッと落とし身構えた。自然体でありながら、周囲のエーテルの流れを察知して、即座に男の動きに対応できるように。


「ククッ、面白い。ならば私も見せてやるとしようかねぇ」


 不気味な笑みを絶やさないフードの人物は、グラナの方にまるで砲台を向けるように手をかざすと、得体の知れない赤黒い何かを打ち出した。


(⋯⋯なんだ? この異様に赤黒いエーテルは?)


 エーテルとは命の源。大気中に介在し生物は酸素と同じように体内に取り込み、二酸化炭素と一緒に体外に排出する。本来であれば、それがこのような禍々しい色に変色することなどあってはならぬこと。いかなる原理かは分からないが、触れるものを吹き飛ばす純粋な破壊の力と化したエーテルを、男は意のままに操ることが出来るようだ。


 「元素⋯⋯収束」


 可動式籠手に嵌めてある緑色の連換玉が、風の元素とエーテルを取り込んだ。


 二人の周囲の空気の密度が希薄になり、僅かばかりの息苦しさのようなものすら感じる空気の中。目の前に赤黒いエーテルの奔流が迫る。


「——元素解放!!」


 グラナは深く腰を沈めると、可動式籠手を突き出して風を解放した。可動式籠手を中心に大盾のように展開されたエーテルから、風が絶え間なく吹き荒れ男が放出したエーテルを食い止めた。


「見かけ倒しか? 大したこと⋯⋯、なんだよ? これ——受け止め切れない!?」


 受け止めた赤黒いエーテルが突如勢いを増し、荒れ狂う水の濁流の如く酒場の壁へグラナを叩きつける。風の盾が辛うじて赤黒いエーテルの直撃だけは防いでくれたようだ。


「痛っつ⋯⋯。なんだ、その妙なエーテルは」


 男は何も答えず、不気味な笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。

 その手には柄が黒く染められた聖職者の十字架にも似た形状の護身用のナイフが握られていて、全くの予備動作なしに飛びかかって来た。


「グラナ!? 避けて!!」


 ルーゼの叫び声で体勢を立て直したグラナは、可動式籠手を胸に向かって振り下ろされるナイフに向けて突き出す。可動式籠手に嵌められた緑色の連換玉が瞬間、強く輝いた。


「元素解放!!」


 緑色の連換玉から強風が吹き荒れ、突き出されたナイフが弾け飛んだ。尚も止まらぬ強風は瓦礫を幾重にも巻き込みながら男を巻き込んで通り向こうに吹き去っていく。


「⋯⋯厄介な風さねぇ」


 暴風と一体化した瓦礫を人間離れした跳躍で足蹴にし、風の勢いを利用して民家の屋根に飛び乗った男は音も無く着地すると口元に笑みを浮かべる。


「ただの酒場の用心棒かと思いきや、——お前、連換術師れんかんじゅつしさね?」


「はっ、今更気付いたところでおせぇよ」


 屋根の上で不敵な笑みを浮かべる男を、グラナは睨みつけながら油断なく可動式籠手を構える。静かに睨み合う二人の耳朶に北の方角から、大勢の足音が徐々に大きさを増して近づいてきた。



「——やれやれ時間切れか。しかたがない、あのお嬢さんはお前に預けるとしようかね」


「は? 預ける?」


「なに預けるだけさ? いずれ返してもらうさね?」


 不気味な笑みを浮かべたまま男は音も立てずに屋根を飛び移り去っていく。


(あの男の特徴的なコートとフードを被った姿。どこかで見た気が?)

 

 グラナの脳裏に一瞬だけあの劫火の記憶が蘇るが、さしあたってはあの不気味な男に追われていた少女が気がかりではある。


 騒ぎにかけつけた古巣の市街騎士団員達が辺りを封鎖し始めていた。

 喧騒を聞き流しながらしばらくの間、グラナは男が消えていった方向を見上げていた。

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