第二十話 駆け引き
月が高く上がっても、この街は動きを止めない。
国立サッカー場の建設現場を眼下に見るシティホテルの一室で、散冴はソファに腰を下ろしていた。マフラーは外され、山高帽と一緒にベッド脇のサイドテーブルに置かれている。
背の高いスタンドの明かりが彼の横顔を柔らかく照らす。
ダウンベストをクローゼットに掛けためぐみが大きな一枚ガラスの窓に近づいた。
「うわぁ、きれいな夜景ね。こんなところに住んでみたいなぁ」
ビル群や走る車が創り出す光のタペストリーが見渡す限り広がっている。彼女は窓ガラスに両手を置いて、きらめく光を眺めていた。
その背中で散冴が立ち上がると、めぐみは顔を外に向けたままびくっと肩を震わせた。
彼がミニカウンターの冷蔵庫から缶のハイボールを手にソファへ戻ると、彼女は小さく息を吐いて振り返る。
「本当にこんなところへ来るんだもの。ちょっと緊張しちゃうな」
「ほかの人に聞かれたくない話ですからね。ホテルなら安心です」
「……そうよね」
「あなたもお好きなものをどうぞ」
散冴の右手に促され、缶ビールを手にしてめぐみは彼の向かい側に座った。
プルタブを引く音が重なって部屋に響く。
のどを潤した散冴が話を切り出した。
「先ほどの話ですが、チャイニーズマフィアが絡んでいる産婦人科があるという噂は私も聞いていました。そもそも薬物絡みで追っていたと言っていましたが、詳しく教えてくれませんか」
めぐみは口をつけたビール缶をテーブルに置いた。
「
「新宿や池袋を中心に最近出回っている違法薬物ということぐらいしか」
「拉致されたときに聞いたんだけど、中毒性が強いんだって。アイツら、それをあたしに使おうなんて話をしてたのよ」
思い出したように怒りをあらわにする彼女からすっと視線を外し、散冴は口を閉ざしたまま柔らかな笑みを浮かべた。
「それがね、どうも調べていくとほかの違法薬物と違ってターゲットを絞って売りさばいているみたい」
「それが妊婦なのですか」
「ううん。中国や韓国の女性がほとんどなんだけど、どうやら中絶をして間もない人ばかりらしくって」
「その手術をしたのが
「そう。池袋にある山木産婦人科クリニックという病院なの」
ジャケットの内ポケットから手帳を取り出した散冴がメモをする。
「違法薬物と産婦人科って普通に考えたら結びつかないでしょ?」
「痛み止めとして使われているモルヒネも麻薬ですからね。おそらく同じように使われているのではないでしょうか」
「そっか、痛み止めね。それならありそう。でも違法薬物を病院が使うなんて、やっぱり安く手に入るからなのかしら」
「それだけが理由ではないかもしれません。チャイニーズマフィアがなぜ関わっているのか……」
「そこも謎なのよね」
めぐみはビール缶を指先でもてあそぶ。
「また危ない目に合いそうなのに、どうしてあなたはそこまで深く入り込もうとするのですか」
「うーん、若い女性がターゲットというのが引っ掛かるの。ましてや中絶したばかりなんて。どんな事情があったにしろ、授かった命を自らの意志で奪うというのは女性にとってはとてもつらい決断だと思う。そんな人たちを食い物にしようなんて許せないもの」
「なるほど。それがあなたの正義なんですね」
「そんな
ほほ笑んだ彼女を見て散冴が手帳を閉じる。
「私も調べてみましょう」
「ほんと⁉ ありがとう。心強いわ」
めぐみは満面の笑みを浮かべ、座ったままの体を前に倒して彼との距離を縮める。
「あなたのせいで私もこの件に加わっていると、チャイ
ハイボール缶をあおり、散冴は背もたれに体を預ける。
「そんな言い方しなくたっていいじゃない。この前だって助けてくれたのに」
「あれは仕事ですから」
「つれない人ね」
めぐみのつぶやきは散冴には届いていない。
彼女はソファから立ち、ゆっくりと窓際へ体を寄せる。闇に包まれた眠らない街はまだ輝きを見せていた。
彼女の瞳がとらえたのは流れ去っていく小さな赤いテールランプなのか、ガラスに映る散冴の姿なのか。
「こんなに素敵な部屋だから……泊って……いきたいな」
彼に背を向けたまま、めぐみは冷たいガラスに額をつけた。
「構いませんよ」
「えっ、いいの⁉」
はじけるように彼女が振り返った。
黙ったまま散冴が首を縦に振る。
「あ、うん……そう。それじゃ、シャワー浴びてくる」
めぐみは伏し目がちに部屋を横切ると、バスルームの扉を閉めた。
床を叩くシャワーの水音が止んだ。
静けさを取り戻した部屋にスタンドのほのかな明かりが広がっている。
ドライヤーの無粋な音が消えると再び部屋は静かになった。
バスルームの扉が開き、白いローブ姿のめぐみが出てきた。
「えっ?」
すぐに彼女は立ち止まる。
散冴の姿はどこにもなかった。
テーブルに近づくとメモが目に入った。
『会計は済ませておきます。チェックアウトまでごゆっくり』
「あいつめー、ぜったい許さない!」
めぐみはベッドへあお向けに倒れ込み、大きなため息をついた。
*
運河沿いのタワーマンション、三十一階の一室。ダブルベッドの上でひとり、散冴は眠りをむさぼっていた。
寝室の扉が開き、エプロンをつけたままの小夜子が入ってくる。窓へ近づくと勢いよくカーテンを開けた。
「もう九時になりますよ。起きてくださいませ」
散冴は窓へ背を向けるように寝返りを打った。目を覚ます気配はない。
小夜子はベッドへ歩み寄り、彼の肩に手を置いた。
「お目覚めにならないと。散冴さま」
揺り起こされて仰向けになる。黒革の手袋をはめたままの左手が白いシーツの上に置かれた。
「何時ですか」
目を閉じたまま、散冴がたずねた。
「九時です。お食事の用意も出来ていますよ」
やっと体を起こし、顔を上げて小夜子を見る。
「もうそんな時間ですか」
「そのご様子だと昨日は遅かったようですね。お仕事、それとも女性ですか」
彼女の視線が厳しい。
苦笑いを浮かべるだけで無言の散冴へさらにたたみかける。
「散冴さまのご自由ですが、もしここへ女性をお連れになるならご連絡をくださいね。お互いに気まずいのは嫌ですから」
「大丈夫ですよ。誰かを泊めるなんてことはしませんから」
「そう願っています。わたくしも泊めさせていただけないのに」
「小夜子さんには泊ってもいいと言ったじゃないですか」
「ほかの部屋で、ですよね」
困ったように苦笑いを再び浮かべながら、散冴はベッドから下りて立ち上がった。
小夜子はエプロンを外してたたみ始めた。
「そろそろお屋敷へ行きますので。お食事はテーブルに用意してあります」
「いつもありがとう。今夜も遅くなりそうなので、こちらには来なくて構いません」
「女性ですか」
「仕事です」
間をおかない答えに、二人は顔を見合わせて笑った。
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