第二章 新井総合病院
第十一話 アジアの香り
新たな年を迎えようとしている街が華やかなイルミネーションに彩られるころ、この運河沿いの街路樹にもささやかながら青い光がともされていた。三十一階から見下ろす東京港は深い闇をたたえ、それを切り裂くようにレインボーブリッジの白い光のラインが対岸へと繋がっている。
リビングはスタンドライトの柔らかな明かりに包まれていた。
ソファに身を委ね、散冴は軽く目を閉じている。
芳ばしいコーヒーの香りが漂い、正面のスピーカーからはゆったりとしたジャジーなピアノの旋律が流れていた。
「ここでカクテルでもお出ししたら、まるで洒落たバーラウンジのようですね」
食器洗いを終えた小夜子が手を拭きながら姿を見せた。そのままソファの横に立つ。
眼をあけた散冴は浅く座り直した。
「私が何か飲み物を作りましょうか」
「あら、よろしいんですか」
「今夜も作ってくれた美味しい食事の御礼に」
エプロンを外し、向き合って座った小夜子と入れ替わるように散冴が立ち上がった。サイドボードから瓶を二本、右手で持ちキッチンへと消える。
ほどなく戻ってくると彼女の前にグラスを差し出した。
「アイスコーヒーみたい」
小夜子が手に取り、氷を揺らす。
「コーヒーだけじゃなくてナッツの香りがします」
流れる曲が変わり、ピアノにウッドベースが重なり始めた。
散冴は座ると右手の平を上に向けて彼女を促した。
小夜子はグラスを口に運ぶ。
「おいしい。甘い香りも広がって飲みやすいわ」
「ベトナムのネップ・モイという蒸留酒がベースです。米が原料ですが甘いナッツの香りが特徴で、それをコーヒーリキュールのカルーアで割ってみました。これなら小夜子さんが淹れてくれたコーヒーの香りとも喧嘩しないでしょう」
「この香り、くせになりそう」
「強いお酒だから一気に飲むと酔いが回ってしまいますよ」
茶化すような散冴へ、小夜子は小首をかしげて流し目を送る。
「酔ってしまったらここへ泊めて下さいますか」
「空いている部屋はありますから、どうぞ」
「散冴さまのお隣はダメなんですか」
少し口をとがらせていたずらな笑みを浮かべた彼女に、散冴は苦笑いで応えた。
今度はドラムも加わり、軽快なボサノバ調の曲へと変わった。
小夜子はグラスを顔に近づけて香りを吸い込んだ。
「ベトナムのお酒ってあまり聞かない気がするのですけれど」
「あまり馴染みはないかもしれませんが、このネップ・モイは輸入量も増えてきているそうですよ」
「ベトナムから日本へ来ている方も増えたから、そのせいもあるのかしら。でもこの前ニュースで、不法滞在者が最も多いのもベトナムだと聞きました」
小夜子がグラスをテーブルにそっと置く。氷が軽い音を立てた。
「ベトナムが一番多くなったのは去年からで、それまで韓国と中国がずっと上位を占めていました。この二か国からの不法滞在者が減ったわけではなく、ベトナムから留学ビザで入国してそのまま日本で働く人が増えてしまったからなんです」
「そうだったんですか」
「ある種の流行みたいなものなので、ベトナムからの不法滞在を減らすのは容易かもしれませんが、中韓はそうもいかないでしょうね。色々と対策を打っているのに何年も人数は横ばいだし、裏のコミュニティが出来上がっていますから」
少しだけ残っていたコーヒーを散冴は飲み干した。
「せっかくいい雰囲気なのに、わたくしが自分から台無しにしてしまったみたい。それにしても、相変わらず散冴さまは何でも知ってらっしゃるのですね」
「色々な方と接する機会がありますから。浅く広く、ですよ」
空のグラスを小夜子が名残惜しそうに見つめた。
「それではわたくしはこれで」
「明日は予定が入ったので、こちらには来なくても構いません」
「やっぱり引き留めてはくださらないのですね」
冗談めかして立ち上がった小夜子に、散冴はまた苦笑いを浮かべた。
*
通りの両側には韓国料理店やコスメ、アイドルグッズの店が立ち並んでいる。陽も落ちたなか、広くない歩道を行き交う女性の姿が目立つ。
それを横目に、散冴はハンドルを右へ切った。
ほどなくシルバーのワゴンは白いタイル貼りの建物の地下駐車場へと入っていく。
すでに外来診察は終わり、停まっている車は少ない。
懐中時計を取り出して時刻を確かめると山高帽を被り、守衛室で面会の旨を告げてエレベーターに乗る。
五階の事務フロアで降りると正面にカウンターがあった。
「
応対した女性事務員に案内され、廊下を右に進む。
ほかとは異なる木製の扉を彼女がノックした。
「お客様をお連れしました」
散冴が部屋へ入ると、右奥にある重厚なマホガニーのデスクから年配の男が立ち上がった。
「どうもどうも。わざわざお呼び立てして申し訳ありませんな」
言葉とは裏腹に堂々とした態度で歩み寄る。熱帯魚が泳ぐ水槽の隣にある応接セットを指し示した。
「どうぞお掛け下さい」
散冴にソファを勧め、自らも向き合って腰を下ろす。
「はじめまして。新井総合病院の院長をしております新井です」
白くなった髪は薄くなっているものの肌の艶が良く、若々しく見える。背はさほど高くはないが、
「はじめまして、月翔です」
脱いだ山高帽を膝の上に置き、散冴はよろず屋の肩書が入った名刺を差し出した。
それを新井は手に取り、じっくりと眺めた。
「お噂はかねがね聞いておりました。危ない橋でもわたって頂けるとか」
「それがあなたにとっての正義ならお受けいたしますが、人を
穏やかな口調で散冴が返す。
「私にとっての正義ですか……。なるほど、面白い」
新井はひじ掛けに両腕を乗せて背もたれに深く身をうずめた。
水槽から聞こえてくるエアーポンプの音だけが部屋に満ちていく。
ゆっくりと体を起こした新井が口を開いた。
「ところで、その左手は精巧な義手だそうですな。さぞかし高名な病院で対処されたのでしょう」
「いいえ。俗にいう町医者です」
「まさか。そんな医者がいるんですか」
「私の左手がこうなったのも、あの方に出会えたのも運命だったと思っています。そのことが今回の依頼と関係でも?」
表情は変わらないものの、声の調子は明らかに違う。
それを察したのか、新井は笑顔を取り繕った。
「いやいや、単なる医者としての興味です。それでは本題に入りましょう。実は最近、当病院のことを何やら嗅ぎ回っているルポライターがおりまして迷惑しているんです」
いったん立ち上がり、デスクからクリアファイルを手にして戻ってきた。
「やましいことは何もないんですが、あることないことを面白おかしく書き立てられても風評被害というのもありますし、こちらとしては公になる前に手を打っておきたいと思いましてね」
座り直すと、ファイルからA4の紙を一枚取り出した。
「この女なんですがね。どんな手を使っても構わないので、とにかくウチを嗅ぎ回るのは止めさせていただきたい。いかがですかな?」
「この女性……ですか」
散冴の表情が変わった。
新井が差し出した紙には『鮎川めぐみ』と書かれた写真が印刷されていた。
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