第十話 手段と目的
駅前にあるスクランブル交差点の信号が変わると、せき止められていた何十という足が一斉に動き出した。その流れに乗って、ラファは坂を上っていく。
すれ違う人波にはコート姿が目につく。黒い半袖ポロシャツからたくましい二の腕を見せる彼は雑踏の中に埋もれることはない。
小路を曲がり、自分と同じほども高さのある石像に迎えられてオープンテラスの入り口で立ち止まった。
右奥の席にだけ客がいる。
山高帽をかぶった散冴の隣には、新聞を広げた南条の姿があった。
「すいません遅くなって」
「おーそいよー、僕なんか待っている間に新聞を読み終わっちゃってもう二周目に突入したよ」
南条が手に持つ新聞の一面には『国立サッカー場、四菱建設案に決定』の大見出しが躍っていた。
「いいじゃないですか。ちょうど約束の十四時ですし」
「あのぉ、何か食っていいっすか」
懐中時計をしまう散冴の返事を待たずにラファは右手を挙げた。
「二種のカレーセット、チキンとキーマを辛口で。ドリンクはダイエットコーラ」
ホール係の女性を見上げて注文する。
彼女がいなくなるとすぐに南条が口を開いた。
「彼女とどういう関係なの? 歳もキミと同じくらいだし、明らかに彼女は好意を持っている目だったよ。メニューも見ないで注文してるし、キミの恋人?」
「そんなんじゃないっすよ。俺はただの常連です」
「ふーん。常連ねぇ」
南条は目を細めてニヤリと笑うと今度は散冴に顔を向けた。
「で、これはサンザ君の仕業かな」
テーブルの上に広げた新聞の社会面には『金央建設、下請け業者への不当な圧迫か』の見出しの下に『国のガイドライン違反も』『建物品質の低下が懸念』という文字が並んでいる。
「それはあくまでも、そういう噂があるということでしょう」
「こんな大手新聞が飛ばし記事なんて書かないよ。駅売りの夕刊紙じゃないんだから。やっぱりサンザ君は怖いねぇ」
「小夜子さんは来ないんですか」
一つだけ空いている椅子をラファは見ている。
黒革の手袋をはめた左手をテーブルの上に置いたまま、散冴はカップへ右手を伸ばした。
「彼女は仕事があるので」冷めてしまったコーヒーを口にする。
「ま、上手くいって良かったね。サンザ君から誘拐なんて言葉が出て来るとは思わなかったから驚いたけれど。しかも津島じゃなくって小夜子さんの知り合いの子だっていうしさ。おまけに偽装誘拐だからねぇ」
「俺は驚いたけれど、南条さんは楽しそうでしたよ」
「そぉ? でも協力してくれた奥さん――木内さんだっけ――彼女もなかなかだよね。僕は会ってみたいなぁ」
「奥さんは大学時代に演劇部で主役を張るほどだったそうです。小夜子さんなら安心してお子さんを預けられるし、何よりもご主人の家族への思いを確かめたかったみたいですね」
「木内さんの浮気はクロだったってこと?」
南条の問いかけには応えず散冴はカップを口に運んだ。
「旦那さんにとってはきついお灸になったんだねぇ」
「俺は西船橋の駅前で見たけれど真面目そうな人だったのに。木内さんは今回のこと、気づいてないんですか」
「まさか自分の奥さんが協力しているとは夢にも思っていないようですよ。あれからは休日の家族サービスも増えたそうです」
ホール係の女性がラファの前へカレーを並べた。最後にコーラのグラスを置き、頭を下げたあと去り際に彼の顔をちらっと見た。
「女性は怖いからねぇ」
セミロングを揺らす彼女の後姿を見やりながら、南条は新聞を丁寧に折りたたんでいく。
「でも津島がプレゼンの場へ行かなかっただけで、こんなに効果があるとは思わなかったな」
焼き立てのふっくらとしたナンを両手でちぎり、キーマカレーにつけてラファがほおばった。
「だからキミはまだまだ甘いと言うんだよ」
南条はラファへ人差し指を立てて二度振った。
「そうだなぁ、舞台初日を迎えるお芝居のことを考えてみようか。配役も決まり稽古も重ねた。準備は万端。前日のリハーサルも上手くいき、後は本番を待つだけ。ところが当日になって入りの時間を過ぎても主役が現れない。何度も連絡をしたけれど返信がない。幕が開く時間は迫っている。キミならどうする?」
「うーん、やっぱり代役を立てるしかないんじゃないかな」
タンドリーチキンを手に持ってかぶりついた。
散冴は黙って二人のやり取りを聞いている。
「だよねぇ。でも代役を誰にする? 他の役をやっていた人を充てるなら、今度はそっちが空いてしまう。スタッフの中に流れも理解し、主役の台詞も頭に入っている、そんな人物がいたとしてもこの状況でいきなりいい芝居ができるか、ってことさ」
「すげー納得できます」
「そもそも芝居にすらならない可能性の方が高いよね。直前まで津島が来ると信じていれば、対応もそれだけ遅れることになる。きっとプレゼンの評価は散々だったと思うな」
サフランライスにチキンカレーを掛けながら、ラファは何度もうなずいた。
「サンザ君のストーリーが秀逸なのは、むしろこの先だよ」
「どういうことですか」
「金央建設が何かしらの攻撃を受けるなり、邪魔をされたら公表するはずだって僕が言ったのを覚えてる?」
「南条さんは最初にそんなことを言ってましたね」
「明らかにプレゼンが邪魔されたとなれば金央建設だって黙っていなかっただろう。でもプレゼンは実施された。担当責任者が来なかっただけでね。もし津島が誘拐されたなら話は別だけれど、そうじゃない。怪しむ思いはあっても、肝心の被害者が公表を望んでいないのなら、金央建設が先走るのはかえってマイナスになる。と、ここまで読んでいたんじゃないかな、サンザ君は」
南条は笑みを浮かべたまま首を傾けて散冴の顔を覗き込む。
「楽しんでもらえたみたいですね」
満足そうに微笑むと、散冴はジャケットの内ポケットへ右手を入れた。
取り出した二つの封筒を南条とラファの前へ差し出す。
「今回の報酬です」
南条が封筒の中を覗き込むと帯をした一万円札の束が入っていた。
ラファはナンを口に放り込み、中身も確かめずにデニムの後ろポケットへ無造作に突っ込んだ。
「南条さんには追加の依頼もあるんですが」
「え、僕に? 何々、早く教えてよ」
さも嬉しそうに目を見開いて、南条は身を乗り出した。
「津島さん自身に落ち度がなかったとは言え、今回の件で彼は社内での立場が悪くなっています。しかし彼の人柄、誠実さは申し分ない。それはほかの誰よりも私たちが知っている。設計者としての能力も折り紙つきです。そこで四菱建設にはヘッドハンティングの提案をしました」
「お、それなら『人材コンサルタント 細川』の出番だねっ! 任せてよ。もう名刺交換もしているし、口説き落としてみせるよ」
そう言うなりすぐに立ち上がって帰る支度をし始めた。折りたたんでいた新聞を手に取ると、そこから一枚だけを抜き取りテーブルの上に置く。
「じゃ、お先に」
挙げた右手を下ろしながら新聞の上で指を鳴らした。
途端に炎のような白い光が
「うわっ」「おぉっ」
散冴もさすがに声をあげた。
驚いた二人の表情をうれしそうに眺めながら南条はテラスを出て行く。
テーブルの上には新聞紙の燃えかすすら跡形もなく消えていた。
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