第四話 散冴
運河沿いに建つタワーマンション、三十一階から望む東京の街は今夜もきらめきを放っていた。
ソファに座った散冴はファイルをめくる手を止め、テーブルの上に置いたメーカーズマークの瓶に手を伸ばした。グラスの中で琥珀色のバーボンに氷が浮かぶ。
玄関から音がした。すぐにリビングの扉が開く。
「遅くなり申し訳ございません」
「いえ、私の方こそこんな時間に無理を言ってすいませんね」
頭を下げた小夜子へ座るように勧める。
入れ替わりに立上りキッチンへ向かった。
「お茶をいれますよ」
「それならわたくしが」
腰を浮かしかけた彼女を散冴の左手が抑える。
黒革の手袋を目にして小夜子は顔を伏せた。
「わざわざ来てもらっているお客さんですから。でも、小夜子さんが出すお茶ほど美味しくはありません」
湯飲みをお盆に載せて戻ってきた散冴へ、小夜子が封筒を差し出した。
「木内さんからお話を聞いてまとめたものが入っています。彼女には、お屋敷のご親戚が相談に乗ってくれそうだと話してあります」
「親戚、か。たしかに嘘は言っていませんね」
苦笑いしながら、中の便箋に目を通していく。
「お二人は大学の演劇サークルでお知り合いになり、六年前に結婚。ご主人は大手の
「お子さんは四歳の男の子ですか。一番かわいいころですよね」
「ご主人は子煩悩な方だとはおっしゃっていました」
広いリビングには便箋をめくる音だけが大きく聞こえる。
「そういえば小夜子さんはテレビゲームが得意でしたよね」
「どうしたんですか、突然」彼女の顔に笑みが浮かぶ。
「よく遊んでもらったなぁ」
「今でも散冴さまより強いかもしれません」
「勝てる気がしませんよ」
便箋をテーブルの上に置いて立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
散冴がどこか遠くを眺めている間、小夜子はその背中を見つめている。
おもむろに彼が振り返った。
「奥様の由美さんはどんな方ですか? 神経質で繊細とか……」
「とてもしっかりとした印象です。女性にこんなことを言うのもなんですけれど、肝が据わっているというか。ご主人のこともおろおろしている感じではなく、はっきりさせたうえでどうするか考えたい、とおっしゃっていました」
「わかりました。もう少し考えさせてください」
「無理なお願いを言ってすみません」
小夜子が座ったまま、背筋を伸ばして腰を折った。
*
日が暮れるのも早くなり、浜松町ではオフィスから駅へと向かう人波にコート姿が目立つようになった。
金央建設ビルのすぐ近く、街灯がともった公園のベンチには男が二人。山高帽と半袖ポロシャツという人目につく恰好をしていた。
「これがターゲットの津島人志です」
スマホで見せたあと、ラファへ写真データを転送した。
「この男が国立サッカー場の設計チーフなんですか。まだ若いですよね」
「三十八歳なので会社としても大抜擢らしいですが、私立の総合病院が長野に作った研究所施設や三重のコンサートホールなどの設計実績があり優秀な人材のようです」
「それもみんなハッカーから?」
ラファは周囲をそれとなく見渡している。彼らの近くを通る人は数えるほどしかいない。
「今は趣味のアンティークショップを営んでいますが、寺さんのハッキング技術は信頼できますからね」
「それじゃ、盗聴もデータ転送も必要なかったんじゃ……」
「そんなことはありません。基礎データの裏付けとして盗聴も重要です。データ転送のおかげで金央建設のサッカー場設計案も手に入りましたから」
そう答えた散冴が右手を耳に当てた。そこにはイヤホンがある。
「そろそろ津島さんが退社するようです。行きましょうか」
「オゥケィ」
公園を出て交差点の近くで立ち止まった。ここからなら金央建設のエントランスが見える。
「今日は彼の行動形態を確認します。退社後にまっすぐ帰るのか、どこか寄るような馴染みの店があるのか。西船橋に一人で住んでいることも分かっているから、もし見失っても問題はありません」
「それじゃ、俺とサンザさんと別れて追った方がいいですよね?」
「そうしましょう」
「あ、出て来ましたよ。あいつですよね」
ラファが目顔で示したのは、先ほど写真で確認した津島だった。
黙って散冴は頷き、歩き出す。少し遅れてラファも歩き出した。その視線の先には津島がいる。
津島は浜松町駅から山手線に乗り込んだ。二人も同じ車両に離れて乗り込む。
ラファのスマホには『帰宅ルートとは違う』と散冴からラインが届いた。
三十分もかからずに新宿駅へ着くと津島が降りていく。東口の改札を抜けて歌舞伎町へと向かっていた。
すでに暗くなった空と反比例するかのように、この街はぎらつく明るさを放っている。津島は迷う様子もなく、とある雑居ビルへ入っていった。
彼がエレベーターへ乗り、扉が閉まるのを見届けるとすぐに二人が乗り場へやってきた。変わっていく階数表示を見上げる。五階で停まったことを確認し、ビル入り口の案内板へと戻った。
そこにはボードゲームカフェと書かれている。
「どうしますか」
「彼とゲームをしてお友達になる必要はないでしょう」
立ち去ろうとした二人の背中に声がかかった。
「ちょっと、あんたたち」
彼らが振り向くと黒のタートルネックにベージュのパンツ、茶のジャケットを着た若い女性が立っていた。意志の強そうな太い眉を寄せて、二人を見上げている。
「あんたたちもあの男を追ってるの? 狙いは何?」
セーターを押し上げる胸のふくらみをさらに突き出すように半歩踏み出した。
「いや、私たちはここのカフェに行こうか相談していただけで――」
「とぼけないで。ずっとあの男をつけていたじゃないの」
二人は顔を見合わす。ラファは口をへの字にして肩をすくめた。
「やっぱり尾行はラファよりも南条さんにお願いすればよかったですね」
「サンザさんだってその帽子、目立ち過ぎですよ」
「で、何が目的?」
女が引く気配はない。
「実は私たち探偵なんです。依頼主は明かせませんが、彼の素行調査を。特に女性関係について調べています」
「ほんと? 病院絡みじゃないのね?」
「いいえ」
「その依頼主が医者ってことは?」
「私の知り合いに医者は一人しかいません。とびきり腕はいいのですが町医者ですし、その病院に絡んでいることはないかと」
はぐらかす散冴が反撃に出た。
「そういうあなたこそ、何者なんですか。彼と交際しているなら、私たちも見過ごすわけにはいきません」
「あの男とは一切関係ないわ。情報を持っているようなら接触してみようと思っていただけ。どうもただの担当者みたいだし、もう追わなくてもいいかな」
最後のひとことを自分へ言い聞かせるようにつぶやくと「ありがと」と言い残して女は立ち去った。
「何なんですかね、あの女」
「さぁ。ずいぶんと病院や医者を気にしていましたけれど……。とりあえず私たちの仕事には関係ないようですし、彼もすぐには出てこないでしょうから今夜はここまでにしましょう」
二人も雑居ビルを出て駅へと向かった。
「ちょっと離してよ。だからごめんなさいって謝ったじゃないの!」
聞いたばかりの声が背中から聞こえてきた。
振り返ると、いかにもといったガラの悪そうな男二人が女の両腕をつかんでいた。
関わりたくないという意思を見せて、誰もが遠巻きにしながら通り過ぎていく。
ラファは何も言わずに彼らの方へ歩きだした。
残された散冴は苦笑いしながら肩をすくめる。
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