第一章 国立サッカー場
第一話 小夜子
連結された銀色の車両が運河にかかる鉄橋へさしかかった。けたたましい音が瞬時に車内を満たす。
まばらな乗客のなかにその女はいた。飾り気のない喪服を思わせる黒いワンピースに身を包み、扉へ細身の体を預けるように立っている。
窓から見える東京湾は先週の台風をとうに忘れ去っていた。おだやかな
女はわずかに目を細めた。
無人の改札を抜けて広い階段を女は下りていく。すれ違う人の流れをかろやかな足取りでかわしている。
ロータリーに到着したばかりのバスは次々と人を吐き出した。それを気にするそぶりも見せず通り過ぎ、駅を背に遠ざかっていく。
信号で立ち止まっているあいだも頭上の高速道路からは絶え間なく耳障りな音が聞こえていた。
運河沿いの道には若い街路樹が並んでいる。ブロック敷きの舗道が続くその先で朝日を反射しているタワーマンションを女は見上げた。
天井の高いエントランス、石張りの壁に大判の床タイル。タッチキーをかざすとオートドアが軽いモーター音を響かせた。
早朝にもかかわらずフロントにはスーツ姿の男性がいた。軽く会釈をしながら通り過ぎ、停まっていたエレベーターに乗り込むと三十一階のボタンを押す。
扉が開くと女は廊下を右に歩いて行った。
突き当りの部屋の前で立ち止まる。シリンダーに鍵を差し込み、ゆっくりと回した。
そっと扉を引くと面倒なドアガードは掛かっていなかった。
センサー式ダウンライトが点灯し玄関を照らす。廊下に面した五つの扉はどれも閉まっている。リビングへと続く正面のガラス扉から漏れてくる光もない。
女は右手前のレバーハンドルに手を掛けた。音を立てずに滑り込む。中央に置かれたダブルサイズのベッドには寝息を立てる男の姿があった。
薄暗い部屋に黒いワンピースが溶けこむ。女は静かにベッドへと近づき、男の寝顔を覗き込んだ。その顔におだやかな笑みが浮かぶ。そのまま体を深く折り曲げた。
「誰?」何かを感じた男が目を覚ました。
自分を見下ろしている顔を見てもう一度目を閉じる。
「あぁ、
彼女は何事もなかったかのように窓へと近づきカーテンを開けた。
「もう八時を過ぎております。お目覚めにならないと」
「そんな時間ですか」
けだるそうに体を起こし、ベッドの縁に腰を掛ける。綿シャツにスエットというラフな格好だが、男の左手には黒革の手袋がはめられていた。
「お食事の用意をしてまいります」
小夜子は両手を胸の前でそろえ、軽く頭を下げて部屋を後にした。
着替えを終えた
「小夜子さんの作るスクランブルエッグは大好きなんですよ」
きつね色に焼けたバゲットにバターを塗りながら笑みが浮かんでいる。
「坊ちゃまは昔からそう言ってくださいますね。たまには目白のお屋敷へお帰りになればいつでも作って差し上げますのに」
「その呼び方は止めて下さいって言ってるじゃないですか。それにあの家にはもう私の居場所はありませんから」
小夜子へ顔を向けることなく、スクランブルエッグを乗せたバゲットをほおばる。二人の会話が止まった。
すぐに口を開いたのは彼女だった。
「スーツをお召しになって、今日はお出掛けですか」
「ええ。仕事の依頼があったので新宿まで行ってきます」
「たまには人のためになることもお受けすればいいのに」
その声にとがめるような響きはない。おだやかな表情のまま、散冴が飲み干したカップへ紅茶を注いだ。
「誰かしらのためにはなっているはずなのですけれど」彼もまた笑みを浮かべて返す。
「たとえば、どんな仕事を受ければいいと小夜子さんは思っているのですか」
「そうですね……」
散冴の傍らに立ったまま手を止めて考えるそぶりを見せた。
「目白のお屋敷へ週に二回、有機野菜を配達している業者があります。その配達員の方――女性なのですが、お話をさせて頂くことが最近になって多くなりました。どうやらご主人が浮気をしているのではないかと悩んでいらっしゃるそうで。まだお子さんも小さいのでどうしたらいいかと相談を受けています」
「いやいや、それは私の手には負えません」
「あら、そうですか」
「そうですとも。それは小夜子さんだからこそ、その方も相談しているのですよ」
「ぼっ――散冴さまにそのご主人をちょっと締め上げて頂ければすぐに解決すると思ったのに」
彼女の言葉に苦笑いしながら散冴は首を横に振った。
銀のチェーンをつけた懐中時計を胸ポケットに収め、黒い山高帽を右手に持ちリビングへ入ると小夜子は片付けを終えて椅子に座り待っていた。
「ほかへ寄ることになるかもしれないので、適当に引き上げてください」
玄関へと向かう散冴のあとを彼女がついてくる。
「今回は大きなお仕事なのですか」
「話を聞いてみないと分かりませんが、依頼主は国内有数の建築会社なので」
「わたくしにお手伝いできることがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね」
散冴は靴を履くと振り向いた。
「小夜子さんには本当に感謝しています。いつも甘えてばかりで。あなたの力が必要なときは必ず相談しますから」
山高帽をかぶり、いってきますと声をかけた後ろ姿へ、小夜子は両手を前でそろえて頭を下げた。
*
地下鉄を乗り継ぎ、地上へ出た散冴を高層ビル群が取り囲んでいる。
山高帽が目立つのか、ときおり向けられる視線を気にするそぶりも見せずに中央公園を右手に歩いていく。
公園の木々を見下ろす部屋では一人の男が彼の来訪を待っていた。
『お客様がお見えになりました』ビジネスフォンのスピーカーから女性の声が聞こえてきた。
「お通しして」
男は椅子から立ち上がり、扉へ体を向けた。ノックの後、扉が開き秘書に案内された彼が現れた。
「はじめまして、
散冴は山高帽を取り、頭を下げた。右手の手袋だけを外してポケットへと入れる。
「わざわざおいで頂きありがとうございました。
散冴にソファを勧め、自らも向かい合うように腰を下ろした。
「早速ですが、今回の依頼は国立サッカー場建設に関することです」
藤堂は軽く身を乗り出した。
*
「どんな方法でも構わないということですか」表情も変えずに散冴がたずねた。
「はい。お願いできますか」
「それがあなたにとっての正義なら」
藤堂は口を一文字に結ぶ。
散冴は膝の上で両手を組んだまま微笑んだ。
「それでは着手金として三百万、成功報酬として五百万でいかがでしょう」
「……わかりました。これは一企業として目先の利益を追うだけのことではありませんから。誰かがやらねば」
「ご依頼は承りました。振込先は後ほどご連絡します」
「ほかに必要なことが生じた際にはこちらで何とかします。ご依頼が完了するまではお互いに一切の連絡を取らないということでよろしいですね」
「はい。よろしくお願いします」
建物を出た散冴は新宿中央公園のベンチにひとり座っていた。色づき始めた木々の間を風が抜けていく。芝生広場では母親が小さな子と一緒にボールで遊んでいた。
ジャケットの胸ポケットからスマホを取り出し、右手だけで器用にタップしていく。
「ああ寺さん、
港区にある
ええ……そうです。特に設計部を。
担当チームのメンバーについてはプライベートまで。
はい……はい……お願いします」
一分もかけずに通話は終わった。
立ち上がった足元にボールが転がってくる。追いかけてきた男の子へ転がして返すと、向こうで母親が頭を下げた。軽く会釈して、男の子には右手を振り、散冴は公園を後にした。
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