さんざめく左手 ― よろず屋・月翔 散冴 ―
流々(るる)
プロローグ
もうすぐ日付が変わる。
駅前の猥雑な風は、ここまで届かない。
洒落た青銅の看板にちらと目をやり、男は頭を少し下げながらマホガニーの扉を開けた。
カウベルの音が響く。
奥へ伸びたカウンターには誰もいない。
「あ、すいません。もうすぐ閉店なんですが」白髪まじりのマスターが男に声を掛けた。
「ここで待ち合わせなんです。すぐ来ると思いますから、いいですか」
ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確かめていた男は返事を待たずにコートを脱いだ。ハイチェアに腰を下ろしながら頭に右手をやる。
「素敵な帽子ですね。お似合いです」
男は嬉しそうに微笑んで、黒い山高帽をコートの上に置いた。
「このお店の内装も黒をアクセントにしていて『ノアール』という名前にしっくりきていますよ」
黒い革の手袋を右だけ外し、細身のジャケットのボタンをはずしながらマスターの背中に並んでいるボトルを眺めていく。
「バランタインの12年を。ハイボールで」
「かしこまりました」
マスターが冷蔵庫から銅のタンブラーを取り出す。
氷、ウイスキー、最後に炭酸水が注がれ、男の前にすっと置かれた。
赤茶色の光沢を帯び、ダウンライトを
「これで呑むと、より美味しく感じますよね」
右手でタンブラーの冷たさも味わう。
「ありがとうございます」
「私、バーボンが好きなんですけど、スコッチならバランタインが一番かな」
「お若いのに詳しいですね」
「いやいや、もう三十路を越えていますから。知識も聞きかじった程度ですし」
「スコッチはスモーキーな香りが特徴ですが、このバランタインは甘い香りがしますからバーボンに近い味わいを感じる方もいらっしゃいます」
「そう、そこなんですよ。やはり、こういうお店でマスターの話を聞きながら呑むのは楽しいな」
再び、カウベルの音が響いた。
新しい客は短く刈り込んだ髪を栗色に染めている。
先客がいることに驚いた表情を一瞬浮かべると、がっしりとした体を少し窮屈そうに手前のハイチェアへ収めた。
「ビールを」
「かしこまりました」
三つ離れた席に座った彼へ、男は視線を移す。
満足そうな笑みを見せるとカウンターへ向き直った。
「マスター」
声を掛けられ、ビールの用意をしていた手を止めて男を見る。
「なぜ彼には言わなかったんですか。もうすぐ閉店だ、って」
虚を突かれたように眼が泳いだ。
「いえ、すぐ帰られるお客様だと思ったので」
「ふーん。まぁ良しとしますか。待ち合わせ相手も来たことですし、始めるとしましょう」
その言葉に二人が驚いた。
「お客様、あちらの方とお知り合いなのですか」
「ええ、私は知っています。はじめまして、上村さん」
声を掛けられた彼は動揺を隠せない。
「な、なんで、俺のことを知ってるんだ」
「あなたをお待ちしていたんですよ。あれを持ってくると思って」
彼の顔色が変わっていく。
「マスターも彼とは初めてですか」
「え、ええ」
「やはり連絡は電話ですね。メールやLINEだと内容が残ってしまいますから」
「あの……何をおっしゃっているのか私にはさっぱり」
マスターの視線が動いたのを男は見逃さなかった。
視界に入っていたタンブラーに影が映り込む。
男は咄嗟に振り向きながら、手袋をはめたままの左手を頭の上へ掲げた。
金属同士がぶつかる高い音が短く響く。
「特殊警棒ですか。穏やかに済まそうと思っていたのに」
涼しい顔をした男へ、
軽く体を沈めながらその一撃も再び左腕で受け止め、がらあきとなった奴の左脇腹へ右拳をめり込ませた。
前のめりにうずくまる奴の右手から、特殊警棒を奪い取る。
「あぁ、破けてしまったじゃないですか。お気に入りだったのに」
手袋を外した男の左手は、
「こちらで顧客情報リストの売買が出来る、という話を耳にしていました」
呆然としているマスターへ男は顔を向けた。
「二日前に、ある企業からリストが流出したんです。どうやらアルバイトの男が怪しい、と」
タンブラーに手を伸ばし、喉を潤す。
「公表すると企業イメージの低下につながるので、内密に取り返して欲しいと依頼が来ましてね」
マスターは床に倒れたままの上村を見ている。
「旅行に出られていて昨日までお店が休みだったので、彼と接触するのなら今日に違いない」
男は上村を仰向けにして胸ポケットからUSBメモリを取り上げた。
「彼が目を覚ましたらコピーデータも消去するように伝えて下さい。身元もバレているのだから、これ以上馬鹿なことはしないのがお互いのためです」
黒い山高帽へ右手を伸ばす。
「あの看板、三十万程度しますよね。扉も内装もいいものを使ってる。裏で稼いだ金で贅沢していると税務署にも目をつけられますよ」
聞こえているのかいないのか。マスターは動かない。
男はコートに袖を通し、左手はポケットへ深く入れた。
扉を開けようとした手を止め、振り返る。
「そうそう、近くで国立サッカー場の工事が始まりますよね。また寄らせていただくことがあるかもしれません」
カウベルの乾いた音が響いた。
カウンターの上には千円札が一枚、そして名刺が置かれている。
そこには『よろず屋
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