EPISODE17 結末
今頃になって、全身が激痛を訴えてきた。
アドレナリンが切れ、本来のダメージが痛点を刺激する。
歯を食いしばっても、呻き声は漏れる。
首に電気が走り、手を当てると血が滲んでいた。
ナイフがかすってできた傷だ。
朦朧とする意識を振り払おうとするも、腰が限界を迎えて倒れ込んだ。
息を吸っても吸っても、満足に酸素を得られなかった。
「龍どうがわ、はっはぅ、はっははは……」
「二階、堂……?」
頭を傾けて、二階堂を視界の中心に捉える。
柵に背中を預けて、座り込んでいるのが見える。
肩は小刻みに上下し、無理矢理捻りだしたような声で笑っていた。
ポケットに突っ込んでいた右手を勢いよく掲げる。
手に握られていたのは、黄色い筒の注射器だった。
「なんだ、それ……」
俺の問いなど耳に入っておらず、針の先を首筋に突き立てた。
シリンダーの中身が、注入されていく。
空になった注射器を捨てて、耳を澄まさなければ聞こえない奇声を上げている。
こいつは、まだ諦めていないのだ。
膝をついて、立ち上がろうと足掻いた。
しかし、腕に力が入らない。
「また、逃げる気か!」
「はは。ああ、逃げてやるさ」
上げた顔は、血だらけで潰れていた。
口角を上げているのは分かるが、警察手帳の顔写真と一致しないほど別人のような顔だった。
低い声を出しながら、脚を伸ばしていた。
「龍道川トオル……天晴だったよ。これで殺せなかったのは、二度目だ。そこのナイフ拾って、首を掻っ切ったっていいんだが」
顎で、落ちているナイフを示す。
「どうせ、てめぇを殺しても、ボスは許してくれねぇよ。だから、見逃してやるさ」
「俺は……逃がさねぇぞ」
「てめぇからも組織からも、逃げ切ってやる。そして、今度こそ殺す」
肩に手を押さえながら、扉に向かって全力疾走した。
バカな、もう動けないほど痛めつけてやったはずなのに。
銃弾を撃ち込まれても平気だったのは、あの注射器のおかげか。
凄まじいほどの回復力だ。
俺は雄叫びを上げて、全てを奮い起こす。
激痛を我慢して、何とか立つことに成功した。
あとは追いかけるだけだ。
ただ、体は言うことを聞いてくれない。
歩いてでもいいから、奴を追うんだ。
そう考えることで、ようやく重い足を一歩、前に進ませることができた。
歩いている内に、回復してくるはずだ。
足を引っ張るようにして、扉を目指した。
ゲームセンターを抜け出し、フロア中央の吹き抜けまで歩いてきた。
落下を防ぐ柵に凭れ、一階の様子を見下ろす。
一階の広場に勢力を張っていた二階堂の部下は全滅していた。
指では数えられないほどの部下が、ソファで倒れている三上と村雨によって倒されたのだ。
肩で息をしている二人に声を飛ばしたかったが、かれた喉によって阻止され、咳き込んでしまう。
視界の隅に、逃げる二階堂を捉えた。
エスカレーターで二階まで下りて、奥へ消え去っていった。
奥に、外へと出るドアがあるのだろう。
逃がすものか。
首を回して、エレベーターを見つける。
そちらに足先を向け直して歩を進めたが、バランスが不安定になって、ついには膝から崩れ落ちた。
「だ、大丈夫? 救急車いる?」
横から女性の声が聞こえる。
すぐ肩に手を回して、体を押し上げてくれた。
息を整えると足に電撃が走り、体を支えるため、彼女の肩を掴んだ。
彼女は驚いていて、手が慌てている。
目線が持ち上げられないほど、瞼は重い。
見える範囲で、細身に白衣を着ている女性を確認した。
ボタンを外しており、黒いカジュアルな服を着こなしている。
「早く避難した方が、いい……」
「な、何が起こっているのか分からないの。銃声と悲鳴が、トイレに聞こえてきて。怖くなって、トイレに引きこもって」
「落ち着いてくれ……あなたに頼みたいことがある」
「え、え?」
左手を持ち上げて、デバイスに警察手帳を表示する。
「俺は警視庁の刑事だ。さっき逃げた犯人を追っている。その犯人が、車のトランクに人質を隠した。警察を呼んで、中の人質を救出してほしいんだ! 黒い車で、ナンバープレートの地域名はT京、分類番号3XZ、平仮名は……」
「探せばいいのね。分かったわ」
「メインエントランスの近くに止まっているはずだ。頼む、俺のことは放って、助けてやってくれ!」
激しく頷くのが目に入る。
そして彼女は肩に手を回して、エレベーターまで支えながら歩いてくれた。
二階と一階のボタンを押して、両扉が閉まる。
二階に到着するとベルが鳴り、真っ白の扉が開いた。
降りた後、ふと振り返ると彼女は親指を立てていた。
俺も微笑み返して、親指を立てる。
それから、扉は隙間なく閉じられた。
ツカサは助かったんだ、と考えたら、尽きかけていた気力も少し回復した気がする。
足を死に物狂いで動かして、二階堂が逃げた方向へ走った。
二階から外に出る大階段があった。
階段を下った先は逃げた人々が密集しており、警察と救急車の到着を待っている。
混乱状態に陥っている者で、いっぱいだった。
二階堂に撃たれたのか、大量に出血して倒れている者もいた。
「すまない、通してくれ」
人で詰まった周囲を、前に出した腕でかき分ける。
俺の手が出血していることもあって、動揺している人もいる。
傷だらけの体を引き摺って、人に揉まれながらも抜け出すことができた。
視線をあちこちに向けると、向かいの歩道に二階堂が歩いていた。
「ま、て……」
声は思ったように出ず、手を伸ばしても届かない。
車道を二つ越えた先に、目標がいるんだ。
向こうへ渡る横断歩道は、遠く離れた所の交差点まで行かなければならなかった。
そこまで歩く余力も、時間もない。
腕を上げながら、車道に足を突っ込んだ。
右から来る車は、俺を認識して止まってくれた。
急いで渡らなければ。
「どこ歩いてんだ! ん?」
車の運転手は、訝しい目と共に訴えてきた。
挙動がおかしいから、当然だ。
男の注意を無視して、ひたすら足を運ぶ。
かろうじて、中央線を越えることができた。
意識が朦朧として、呼吸も乱れる。
あと少し、歩けば。
「おい、危ないぞー!」
誰かの叫び声が耳に入ってきた。
次の瞬間、左から強暴なヘッドライトを浴びせられた。
そして、何が起こったのか理解できないまま、地面に激突した。
空中を舞っている間、時の流れが遅く感じ、運転手が助手席の女性と睦み合っていたのを目にした。
旧式のどぎつい車で、車内の爆音が外に漏れている。
俺は眠り心地に誘われ、意識が急速に薄れていった。
やがて、音は遠ざかり、何もかもが暗闇に飲み込まれた。
「……う……どうがわ……龍道川! しっかりしろ!」
「村雨、さん……」
救急車のサイレンが聞こえる。
視界は糸のように細く、それ以上こじ開けることはできない。
空は暗く染まっている。
手のひらが触れているものは冷たい。
どうやら車道で倒れているみたいだ。
村雨に上半身を抱えられ、軽く揺さぶられる。
側には三上の顔もあり、心配そうな目で見つめていた。
周りには人垣ができているようで、ひそひそと声が聞こえる。
二階堂が逃げた道に、必死で腕を向けた。
死にそうなくらい辛かった。
「にかい、どうは……あっち、です」
「これ以上の追跡はできない。奴は諦めろ」
「しか、し」
「お前がいなければ、計画は破綻する。本来の目的は、奴を追うことではない。ここで終わりにしよう」
「トオルくん、悔しいのは分かるが……マサムネくんに従うしかない。今は、君の回復が最優先だ」
「君の親友は助かったそうだ。それと……」
「――すみません! 通ります!」
救急隊員が人垣から飛び出てきたようだ。
村雨が耳元に顔を寄せる。
「私たちは姿を消す。今は、治療に専念してくれ。また会おう」
村雨と三上が人垣の中へと埋まっていった。
ストレッチャーに乗せられ、救急車の中に詰め込まれる。
救急隊員のマニュアル化された質問に一生懸命答えながら、病院まで運ばれた。
朧げな意識の中、耳だけは働かせる。
現在、Y医療病院にいるようだ。
病棟内も騒がしく、ストレッチャーで運ばれている間、涙声や悲鳴が響いてくる。
「おとうさーん!」
「撃たれたって、どないなってんねや! おい!」
「お姉ちゃん、しっかりして!」
チラッと見えた壁面のテレビ画面には、さっきまでいたショッピングモールが映されていた。
ハッキリと覚醒したのは、一時間後。
気が付いたら、ベッドで寝ていた。
個室の病室だ。
側に男性医師が立っており、目覚めたことを確認して、胸をなでおろしている。
「先ほど、左手のデバイスを確認させてもらいました。T京都お住いの龍道川トオルさん、で間違いないですね」
「ああ……」
曖昧な返事を呟く。
医師は納得して、タブレットを操作した。
「何があったか、憶えていますか。ショッピングモールで18人を殺めた犯人を、あなたは追っていた。犯人を追う最中、車にはねられた」
「そうだ、二階堂を追わなければ……!」
毛布を除けて、ベッドから抜け出そうとするも下半身に力が入らず、肩から転がり落ちた。
医師が慌てて、体を押さえてくる。
「落ち着いてください」
「二階堂を逃がすわけにはいかないんだ! どいてくれ!」
なぜ、二階堂を追いかけようとするんだ。
収まりきらない怒りが、原動力となっているのだろうか。
思考に矛盾する考えが脳裏に浮かんだが、暴走する体は抑えられない。
医師を突き飛ばし、座った姿勢から立ち上がろうとする。
腕を床について伸ばした。
上半身を持ち上げ、あとは下半身を動かすだけだ。
「龍道川さん! 落ち着いて、聴いてください! あなたは……!」
落ち着いてなど聴いていられない。
膝を起こそうと意識しているのだが、全く微動だにしない。
手で右の太ももを持ち上げるも、すぐ萎れるように戻った。
なぜだ、なぜか力が入らない。
なぜなんだ!
医師が駆け寄って、俺の両肩を押さえた。
そして、憐れむ目で一語一語を脳に刻むように話した。
「あなたは、交通事故で……下半身不随に、なってしまったのです」
全身の動きが止まる。
血流さえも止まった気がした。
同時に身体が冷え込み始めた。
視界が、ぐらりと揺れる。
激しい動悸と、それに合わせて脈動する呼吸。
そして、恐ろしいものを見た時のような絶叫に耳を聾した。
絶叫は脳をドリルでかき混ぜられるような頭痛を引き起こし、自分自身を保っていられなくなった。
耳を塞いでも、暴れても、絶叫は鳴り止まない。
その絶叫が他ならぬ龍道川自身が発していることに、本人は気が付いていなかった。
医師が何かを口にしているが、絶叫に上書きされる。
この絶叫を誰かに聞いてほしかった。
底から溢れる悲しみや、夢を潰された痛みを込めた悲鳴を。
だが、日本の技術は発展しており、病室は完全防音が施されていた。
とどのつまり、絶叫は自分と医師しか聴いていなかった。
警察官として、正義のヒーローになると決めた龍道川トオルは今、死んだ。
死んだものは、もう蘇らない。
ヒーローとしての志は、交通事故であっけない最期を迎えたのだった。
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