Epilogue

Epilogue

 透き通った泉に、淡い色の肌の少女がちらちらと映り込んだ。揺れる木漏れ日のように楽しげに、真実を恐れる娘のように、彼女はおそるおそるその瞳と同じ透明な水面に身を乗り出していく。

 木の陰を映して新緑の色をした泉は、あまりに彼女が愛らしかったせいか、少女を手招いたようだ。彼女がバランスを崩し、落ちてしまうことに悲鳴を上げた瞬間、その小さな身体は、大きな手に抱え上げられていた。


「何をしているの、アリス?」

 少女を高く、羽のように軽々と抱え上げて、若者は笑いながら言った。

「クイーナ兄さま!」

 少女は一転して笑い声を上げて、自分を抱き上げた青年にしがみついた。青年も小さな笑い声を立てて、妹を空へ放り投げるように抱え上げた。

「お転婆アリス、君はイリスと正反対だね。お兄様に『おかえり』はどうしたの?」

「おかえりなさい! ユースアの大学はどうだった?」

「君に会えなくて寂しかったよ」クイーナがアリスにキスを贈ると、アリスは笑い声を上げて足をじたばたさせた。


 首にしがみつく十歳の少女の手のぬくもりを愛おしく思い、彼女が生まれたときのことを思い出させた。今よりずっとずっと小さな赤ん坊の手が、彼の指を握る。それが赤子の反射行動だということは知っていたが、それでも熱く柔いぬくもりは、誰かを頼らずにはいられない小さな存在を彼に思い知せた。生まれたばかりのまだアリスとも呼ばれていなかった赤ん坊より、早く生まれていた彼の弟妹たちは、彼ほどの知識がなかったために、代わる代わるその手に触れては歓声を上げていたことも、クイーナはよく覚えている。それがもう十歳。彼がまだノイという通称で呼ばれていて、イリスがまだトゥンイランと名乗っていなかった頃の年齢と同じになっている。


「兄さま、お土産は?」

「鞄にいっぱい詰めてきたよ。君を助けるために放り投げちゃったけどね」クイーナは木の根もとに投げ出された鞄を見やった。困ったなと思いはしたが、末の妹がびしょ濡れになるよりはいい。

「私が一番に選んでいい?」

 少女の興味は、すでにまだ数回しか行ったことのない異国の地の品にある。目をきらきらさせて尋ねた。

「いいけれど、僕の見立てを信用してくれないの? 綺麗な絵本を見つけたんだけどな」

「本は兄さまの好きなものでしょ。知ってるんだから。私をだしに使ってるの」

「ばれたか」クイーナは肩をすくめた。見る人が見れば、それが誰と同じ仕草なのかすぐ分かっただろう。

「じゃあ、こういうものはお嫌いですか、レディ?」

 そう言ってジャケットの内ポケットから取り出したのは、カットされただけの宝石の原石だった。飴玉のように少女の手のひらにまき散らされ、こぼれ出しそうな色とりどりの石に、少女は目を奪われた。

「きれい……!」

「最初に選んでいいよ。でも後でみんなで分けるからね。内緒だよ」

 アリスは座り込んで広げたスカートの上に原石を並べた。

 赤い石、青い石、緑の石、黄色の石、藍色の石、紫の石……たくさんの宝石の中で、彼女が選び出したのは白い石だった。クイーナの胸が一つ鳴った。

「それでいいの?」と聞く声は彼女には分からない驚きに溢れていた。

「ええ。白い色の中に、虹が入っているように見えるから。お母さまのあのドレスみたいだもの」

 そう言ってオパールを木漏れ日にかざした。彼女の頬や瞳に、乳白色と虹色の光が反射し、アリスを輝かせた。彼女の瞳には、自分で口にした母親のドレスのことが映っているのだろう。

 現在イル・マリネンのメインデザイナーであるエレン・ジョーダンがまだ無名の頃に作ったドレス。後にイル・マリネンのグラキアホワイトと呼ばれる一連の作品のきっかけになった最初期のドレスは、彼女の父親が最も大切に飾っている写真に映った母親の姿とともに娘たちの記憶に刻まれているはずだった。今もそうであるなら、写真は一番大きく、屋敷の目立つところに飾られているだろう。

 クイーナは彼女の、母親譲りの青い瞳に微笑みかけ、彼の父親と同じ黒い巻き毛を撫でた。撫でられることに不思議そうな顔をして首を竦めたアリスは、澄んだ瞳でクイーナを見上げた。

「ありがとう、兄さま」

「どういたしまして」

 アリス、と呼ぶ声が森にこだまする。

「お母さまだわ。兄さまや姉さまたちも」

 クイーナの手を引き、少女はくすくすしながら言う。

「なんだか精霊の声みたいに聞こえるわ。ねえ兄さま、精霊って、本当にいるのよね?」

 クイーナは微笑んだ。彼の特別な耳には弟妹たち以外の、子どもの声が聞こえていたのだ。きっと遊びにきたのだろう。もうすぐ精霊の仮面祭り。弟妹たちは、その仮面を模したものを作るのに忙しいだろうから。自分たちと遊んでくれる子どもたちの存在を、精霊たちが見逃すことがあるだろうか。ここはトゥイの地なのだ。久しぶりに戻ってきた故郷に、精霊の声がこだましているのは、彼の胸を静かな感動で満たした。そこに彼の妹たちや弟たちが遊んでいるのかと思うと、より深い感慨があった。

「もちろんだよ、アリス。僕は精霊に会ったことがあるんだ。とても綺麗な女性だったよ」

 そうして、『力を貸して』と言ったのだ。


 力を貸して、娘を助けて、あの子に心から愛する人を見つけさせて――!


「兄さまが言うのだから、きっと本当ね」

 もうずいぶん昔の話だ、と感傷に柔らかく微笑む血のつながらない兄を、妹は大人びた目で見つめていた。

 アリス、と低い声が呼ぶのが聞こえた。少女は顔を輝かせた。

「お父さま、ここよ!」

 まだ、彼女の中で最愛の男性である父親の元へ駆け出そうとし、手の中に残っていたいっぱいの宝石をクイーナにもどかしそうに差し出すと、あっという間に駆け出していった。しかし思い出したように立ち止まり、そのかわいらしいエプロンドレスのポケットから、小さな瓶を取り出す。

 クイーナはそれに目を吸い寄せられた。ただのガラスの小瓶に見えたのにだ。少女の手の中にちらりと見え、光を反射させた小瓶は、中にオパールのルースを閉じ込めると、少女の手に握りしめられていった。あれはなんだったろうか、とクイーナは思い出そうとするが、『それそのもの』を見たことのない彼には分からなかった。


「お父さま、お母さま!」

「アリス!」

 彼女の兄姉たちが駆けてきて、あっという間にもつれあうようにしてはしゃぎ出す。その後ろから、ゆっくりと両親が現れた。二人は子どもたちを見守っていたが、クイーナの姿を認め、驚きに目を見張り、柔らかく微笑んだ。


「おかえりなさい、ノイ」

「おかえり」

 彼とアリスを含め、五人の子どもを設けた二人は、トゥイの社交界で噂される仲睦まじさを日常にしている。イリスはまるで彼を十歳の少年のままに扱うように、両手を広げた。その表情には、かつてあった悲しみよりも、生きる喜びが勝っている。


 十五年前、生きる喜びを手に入れたのは彼女だけではない。フラムもそうだったし、ノイもそうだったのだ。だからこそ、彼らにとって家族は喜びであり、帰る場所たりうる。もう彼らははばかることはない。いつでも側にいる誰かに愛を示すことができる。どこへ行ってもそうだということは、当たり前に鳥が空を飛び、どこかで歌うことに似ていた。

 クイーナは笑った。彼らは家族だ。彼はイリスを、フラムを忘れない。血のつながらない弟たちも妹たちもそうだろう。愛を歌われた鳥は、愛の歌を覚えるものなのだから。

「兄さん、おかえりなさい」

「おかえりなさい!」

 妹たちが駆けて、弟たちが歩んでくる。彼らに向かって一歩踏み出し、クイーナは「ただいま」と言った。


 彼らは、家族だった。いつまでもそうだった。






 子どもたちが一番上の兄の帰国に大喜びし、クリスマスさながらの豪勢ながら心楽しませるプレゼントに歓声を上げた後、部屋に戻らせ寝かしつけて、夫婦は長男と語らう時間を得た。

 フラムはノイが望むなら後継者にすることもやぶさかではなかった。それはイリスも同意していた。しかし息子は、しばし困難な道を選ぶことにしたようだ。――少しだけ、自分で事務所を立ち上げて働いてみたいのです、と。ユースアで建築を学んだ彼は、自分の力量を試してみたいらしかった。若い時分にはよくあることだ、大いに励め、とフラムは息子を応援した。しかし、ノイのことだから、彼女たちの実子に遠慮しているところもあるだろう。そして、きっと己で立身するだろうという予感があった。


 そのノイも部屋に休み、イリスとフラムは二人きりになった。夏期休暇としてこの島で過ごすのは、十五年前から恒例行事になっている。イリスが拒み、逃げたこの島で、二人きりで過ごしたのは最初の二年だけ。以降、ずっと子どもたちの声がしている。


「静かね」イリスは言った。いつの間にか子どもたちという小鳥たちのさえずりが聞こえないことは寂しいくらいになり、彼女は孤独を感じる暇もない。

「でもひとりではない」フラムは答えた。イリスの座る椅子の肘掛けに腰をかけ、彼女の髪を撫でた。心地よく目を閉じて、唇を合わせる。

「ありがとう、私を見つけてくれて」イリスは言った。心から。「でも、どうして私だったんだろうと思うの」

「きっと聞こえていたのでしょう。あなたの声が、さびしい、さびしいと歌うのが」

 きっとそうなのだろうとイリスは思った。寂しかったのだ、ひとりは。でもどうしても怖くて、誰も寄せ付けることができなかった。

「私も聞こえていたわ、あなたが、愛してると歌う声が」だからこそイリスは彼と共にいたのだ。あの夜。お互いに何もせずに眠った夜に、彼の声に耳を澄ましていたことを彼女は覚えていた。辛く苦しくとも、心地よく響いていた彼の声、あのメロディのような音を。

 フラムはイリスの頬を包んだ。「イリス」彼は微笑んだ。「歌って」

 イリスは尋ねた。分かりきっていたけれど。

「歌を? それとも……」

 フラムは微笑んだ。


「もちろん、どちらも」

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