14

 スウの運転で、三人は島の中心部へと向かった。この島は、大きな森を中央に抱いており、北側は絶壁で、西から南、南から東に向けて海岸になっているという。東西に長く、見事にノイの指摘した通り亀の形をしているのだ。

 豊かな森の中には、白い宮殿のような建物が隠されていた。この建物のために森があるのではないかというまぶしいくらいの輝きを放ち、グラキア建築の神殿を思わせる古風さと荘厳さ、しかし近代建築の洒落っ気がある。


 荷物を下ろそうとすると、スウに止められた。「どうぞ、三人で中へ」と言い、フラムに導かれ足を踏み入れる。


 中は建物と同じ白い光に満ちていた。採光が緻密に設計されており、真昼はライトなど無粋と言わんばかりに明るい。本当に神殿みたい、とイリスはため息をこぼした。カーペットの豪奢な文様が、天に浮かんでいきそうなこの場所を現実に引き止めている。

「中庭もあるんですよ」フラムは見知った場所のように優雅に彼女を先導した。イリスはその小さな庭を見て息を呑んだ。噴水があり、白いベンチがあった。まるで、天使が水浴に来そうなところ。

「宮殿だわ」最初に抱いた感想が、ようやく口にできた。あまりに驚きすぎて声が出なかったのだ。「雲の上にあるお城みたい」

「トゥンイランの曾祖父が、グラキア人の血を引く妻のために建てたものだそうです。グラキア神殿風ですが、主立った造りはトゥイの宮殿ですね」

 なるほど、見てとれる異国情緒は、トゥイの遊び心が混じったものなのだ。それにしても素晴らしい建物だった。それだけ価値ある建物に足を踏み入れていることに不思議な気持ちになる。こんなところで二週間も過ごすのだ。もちろん、建物の周辺の森や海も忘れてはいけない。こんなところに楽園があったのだ。

「荷物をすべてお部屋に運びました」スウが現れた。「冷たい飲み物をご用意してありますので、どうぞ、居間へ」

 居間でもイリスはため息をつくことになった。外国人向けではない、本物のトゥイの伝統的な居間。絨毯を敷き、たっぷりとクッションを置き、椅子の足は低く、テーブルは棚の役割をしている。だから彼女たちの喉を潤す飲み物は、床の上の盆に並べられ、汗をかいていた。

「キッチンはどうなっているのかしら」イリスは呟いた。「まさか、かまどで煮炊きしていないわよね?」

 フラムは笑った。「後で案内しましょう」

 飲み物はジンジャーエールだった。控えていたスウが「お口に合いますでしょうか?」と聞いたので自家製だったようだ。イリスは笑顔で答えた。

「ええ、とても! ぴりりとしていて、さわやかですね」

 スウは笑顔になった。顔を引き締めているのが常のようだが、笑うと愛嬌のある人だ。

「〝媚を売るな〟」フラムが鋭く言った。

 スウは目を伏せて澄ました。「〝美人はどんな年齢にとっても美人ですから〟」

 イリスは笑った。声を立てて。二人は顔を見合わせ、ノイが聞く。

「今のトゥイ語が分かったんですか?」

「いいえ、全然」イリスは手を振った。彼女が身につけた語学は、イグレン語とフラン語だけ。「でもトゥイの言葉って素敵ね。呪文みたいだわ」言葉のひとつひとつの響きが、異国語は不思議な呪文のように聞こえる。短く早く口にすると、余計にそうだった。

「トゥイに滞在されるなら、ぜひ言葉をお覚えいただけると嬉しゅうございます。トゥイの絵本や童話など、この邸の書斎には教科書になるような本がたくさんございますので」

「書斎があるんですか? ぜひ見せてください」目が輝いた。数ある部屋のうち、イリスは書斎が好きだった。書斎には家主のセンスが出る。家具だけでなく、本を見るのも楽しいのだ。

「絵本や童話があるんですか?」ノイがスウを見上げた。顔はもう押さえきれない好奇心ばかりになっている。

「ええ、ありますよ。見に行きますか?」

「お願いします!」ストローで一気にジンジャエールを飲み干してしまうと、ノイはスウに連れられて書斎に向かっていった。弾む足取りのせいで、せっかくの行儀のいい紳士が台無しなくらい楽しみらしい。もう少し本をあげられたらよかったわね、とイリスはそれを見送った。彼の知識欲を十分に満たせる本が、自宅には少なかったらしい。


「ノイを連れてきてよかったですね。この邸、部屋の数と本だけは多いですから」

「あなたには感謝しているわ。ここなら、誰かに追いかけ回されることはないから」でも違う意味で追いつめられそうな気がするけれど。「〟ありがとう、フラム〟」

 トゥイ語で言うと、彼は嬉しそうに笑った。「綺麗な発音です。トゥイ語、私がお教えしましょうか」

「お願いできる? ノイに少し教わったんだけれど、アルファベットも曖昧なの」

「〝すぐに上達するには耳で聞くのが一番覚えが早い〟」

 イリスは目を瞬かせた。「なんて言ったの?」

「耳で聞くのが一番覚えが早い、と言いました」

「全然だめだわ。そもそも、トゥイ語には男性と女性では違う言葉を使うときがあるでしょう? 私、あれが苦手で」

「繰り返せば覚えますよ。〝あなたは綺麗だ〟。さあ、どうぞ」

「〝あなたは、綺麗だ〟?」

「上手ですよ」微笑んだフラムの口から、また呪文のような言葉が、ゆっくりと唱えられる。「〝私はあなたを愛している〟」

「〝私はあなたを愛している〟……ちょっと待って、発音が」聞こえやすいよう、唇の動きを追いやすいよう、彼女はフラムとの距離を詰めた。「こうすれば見やすいし聞きやすいわ」

 フラムはくす、と喉の奥で笑った。「じゃあ、続けましょう」そう言って、イリスを覗き込む。黒い瞳を美しく細めて。

「〝あなたは私のもの……私はあなたのもの〟」

「〟あなたは私のもの……私はあなたのもの〟」

 しかし突然、イリスは何かがおかしいという気がしてきた。どうしてあんなに、フラムはぞくぞくするような笑い方をしてトゥイ語を呟いているのだろう?

「〝キスして〟」

「ねえ、フラム……」

「繰り返して」フラムは小さく言った。「忘れてしまいますよ」

「ええと……〝キスして〟……ねえ、なんて言ってるのか答え合わせをしてくれないと」

 かぶさる影にイリスは目を見開き、唇を押し包む熱に呆然とした。触れた瞬間は驚きと怒りがかっと突き上げたが、後ろの髪を柔らかく引いて顎を上にされ、底をなめとるように口づけられると、次第にぼうっとしてきた。それほど彼のキスは巧みで、彼女が何度か繰り返して思い出したあのキスよりも、見えないところでくすぶらせた欲望が感じられた。甘えるように鼻を鳴らしてしまう。彼の、背中を辿る手に、もっと触れられたい。

 心の奥がくすぐられる。彼女は恐怖した。このままでは閉じ込めた箱から洪水のように感情が溢れ出してしまう。そうなれば、またあの失う痛みが訪れてしまう。愛する人を亡くし、一人になるのはもう嫌だ。

 呻いたイリスは、彼の胸を押した。「お願い」呼吸の合間に絞り出す。「こんなことは止めて」

「あなたが本当にそれを望むなら」フラムは飢えでぎらつく目をしていた。「キスしてとあなたが言ったんですよ」

「言わせたのはあなたでしょう」イリスは更に彼を押しのけようとした。「これじゃカナリアじゃなくてオウムだわ。詐欺師。二度とトゥイ語であなたとしゃべったりするものですか」

「いいでしょう」彼は彼女を解放した。「この島で過ごす時間は二週間もあります。あなたを素直にしてみせましょう」

「私は曲がらないわ」

「運命というものは簡単にすべてを打ち砕く」どこかで聞いたような言葉を彼は口にした。「私の意思をはっきりさせておきます。私はあなたを愛しています。占術に示されたのはあなたとの出会いだ。これは精霊が導いたことでしょう」

「私は救世主教国の出身者よ。精霊ではなく聖霊に従う教徒なのよ」日曜のミサにはもうしばらく言っていないが、イリスは見栄を張った。「あなたの信仰を馬鹿にするつもりはないけれど、思い込まないで。あなたにはもっとふさわしい人がちゃんといるわ」

 言ってしまってから、イリスは後悔した。彼からありありと怒気が放たれ始めたのだ。しかし赤ではなく青を思わせる冷徹な目でイリスを見つめてくる。彼は怒ると黙るのだった。何か言ってやりたいが、言うべきではないと理性が働くから、瞳が輝くのだ。

 結局、フラムは一言も言わずに腰を上げ、出て行った。

 静まり返った他人の別荘で、イリスは倒れ込むこともできないまま、膝を抱えて自分がぶつけた言葉を反芻した。

 愛されたいと叫ぶ自分がいるのに、口から出るのは「愛していると思い込まないで」なんて、私はやっぱりいやしい女だわ。彼の瞳を、声を思い出せば、胸に染み入る。彼がくれた言葉を思い返せば、もぎ取られることを望む果実のように、心が甘くとろかされていく。愛してくれる人を愛したいと望むのに、果実はいやいやと手をすり抜け、枝にしがみつく。いつか腐り落ちるときがきてしまうと知っているくせに。彼の最後の態度は、その序章に過ぎない。だったらやっぱり、私は何も答えなくてよかったんだわ。

 呟いた。ふさわしい人がちゃんといるわ。こんな、異国人の女じゃなく。

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