15

 朝の散歩に出たビーチは美しかった。イリスは心から安らいだ息を吐く。ティファニーの愛した浜辺も美しかったけれど、このビーチは楽園のおもむきがある。南の異国、パラダイスと呼ばれるところの静けさが。彼女は昨夜、穏やかな風の音を聞きながら、素晴らしい書斎のコレクションの中からたった一冊だけを選ぶという困難な選択をし、その本を寝台に寝そべって遅くまで読んで、目が覚めたらすぐに誰にも邪魔されない浜辺を歩くという贅沢をしていた。ノイもまた、広々としたところで羽を伸ばしているのだろう。時折足音のようなものは聞こえたが、彼は彼なりにこの島とあの建物を冒険しているらしかった。


 イリスはその日、一日かけて島をぐるりと歩いた。朝食のときにスウに頼んでサンドイッチと飲み物の入った水筒をもらい、北の岬から南の浜辺へと。初めて、旅行に来たという気分を、彼女は存分に味わった。じりじりと太陽は彼女の白い肌を焼き、初めて見る鳥が彼女の頭上を羽ばたいていく。

 マングローブの木の山に導かれて島の内側に足を踏み入れると、小さな川の河口からうっそうと茂る森にたどり着いた。泥でサンダルの足が汚れて、イリスは小さく笑った。泥は冷たく、心地よかった。その泥地を迂回していくと、大きな池を見つけた。その場所の水は澄み、木がずっと底にまで根を張っているのが見えた。まるで冷たいガラスを溶かしたような、美しい水だった。きっと、底には女神がいて、落とし物を待っているに違いないというくらい。その使いなのか魚が銀のひれをきらめかせ、梢からは薄き緑色の木漏れ日が振る。虫が起こした波紋が池の隅々にまで大きな輪を描いていった。

 そこで食事をしたかったが、座れるような適当な場所が見当たらなかったので、海岸まで戻り、そこで足を洗い、裸足になってサンドイッチを食べた。熱された砂浜は、さらさらと彼女の足をくすぐった。海は不思議な水色だった。砂浜から見ていれば、絵の具で描いたような鮮やかさなのに、近付けばうっすらと緑がかった透明な水なのだ。

 心穏やかだった。イリスの望むものがここにはあった。ノイの姿が見えたら最高だと思い、今度は彼を連れて探検に来ようと決める。子どもの笑い声は、どんな喜びにも勝った。もちろん、共に笑うことも。

 夕暮れを待ち、水平線に吸い込まれていく紅玉のような太陽を見送りながら、イリスは邸に戻った。




 その日の夕食の席に、フラムは現れなかった。スウが「散歩に出てくると言ったまま戻ってきません」と言い、「心配しなくても大丈夫です」と微笑んだ。彼はああいうところがあるのだという。

「ああいうところ?」

「一人で考えたい時、砂浜を歩かれる。昔からの癖です」

 波の音を聞くと落ち着くのはイリスにも覚えがある。ただ風に吹かれ、潮の音を聞いていると不思議な心地になった。その音は、フラムと唇を会わせたときに聞こえてくるような気がした。と言っても、その場合、大波のような荒々しさを伴ってイリスの足下をすくおうとしていたけれど。

 そして、多分、イリスがそう感じていることに、フラムは気付いているのだ。

 食事は、トゥイの料理ばかりではなかった。トゥイから更に西へ行った、大河が流れる国イーディカの、ヨーグルトや香辛料につけ込んだ鶏肉を焼いたものや、汁物が添えられた炊き込みご飯が出てきた。果物の酸味とハーブが香るソースがかかったサラダは新鮮で、味付けは辛いものではなく、どちらかというと甘みが感じられ、ノイの気に入るところだったようだ。

 ノイは素早く食事を終えてしまうと、書斎に行ってくると言って駆けていった。ずいぶん本が気に入ったようだ。


 イリスもまた、食事を終えると少し休んでから、海岸を歩いてくると言って邸を出た。森を出るのはさほどかからなかった。車が通る道は、景観を損なわないように遠回りに作ってあるらしく、イリスが歩いたのは、人が通れるくらいに舗装された徒歩専用の小さな道だ。それは島の西側の海岸に向かっていた。

 青紫色に染まる空、水平線は青い鈍色で、海もまた同じ色をしていた。風が吹き、イリスがやってきた梢を揺らした。砂浜に降り立つと、南側に向かっている足跡を見つけた。フラムだろう。

 ここで待っていれば戻ってくるかもしれない。そうでないかもしれない。

 彼に会いたいのか会いたくないのか、イリスにはまだ分からなかった。ただ、彼のキスは彼女の奥底を揺らした。眠りから覚ますように。王子様を待つ年頃ではないイリスは、しかし少女のように砂浜に座り込んだ。

 いつかもこうしていた気がする。あの時は立っていただろうか。風と海を聞いていた。遠いところを思って。


 気付けば、彼女の方へ歩いてくる人影があった。金色だが重厚感のある上着と、肩にかけた赤い布、黒のズボンを着た男だった。まるで夜を連れてくるような歩みで、イリスに気付き、笑顔を浮かべた。知らない男だ。だが、身なりは正装のように思えた。

「金髪の天女がいる」くすぐるような声で男は言った。「水浴びするなら我が家の噴水はどうかな」

「ミスター・トゥンイラン?」ぼうっとしていたイリスは慌てて立ち上がった。「私は……」

「当ててみせよう」言いかけた彼女を彼は制した。「トゥート・サワン? それともテープテターかな」

 イリスは困ってしまった。「申し訳ありません、私、トゥイ語は堪能でなくて」

 気を悪くした風でもなく、むしろ楽しげに彼は肩を揺らして笑った。「これは口説きがいがある」

 笑ってくれたことにほっとしたイリスは言った。「ご招待ありがとうございます、ミスター。とても素晴らしい島ですね」

「どうもありがとう、トゥート・サワン。招待したのは私ではないが、星も海も私に素晴らしい出会いをくれたようだ」

 彼は目を丸くするイリスに笑う。ではこの人は誰だ。イリスはうろたえて視線をさまよわせた。

「でもあなたはトゥンイラン氏なのでは」

「確かにそうなのだが、トゥンイランを名乗る人間は百人はくだらないな」彼は潮風に乱される髪を撫で付けた。「しかし、こんなことをする人間は限られているがね」

 彼は大股にイリスとの距離をつめた。黒の瞳は、彼女の底を探り、イリスのすべてを見透かすようだ。

「魔法にかかっているね」男はそう言った。「古い古い魔法、精霊たちの遊び心と運命を秘めた力だ」

「魔法?」

 彼が口にすると、マジックという言葉は神秘を持ったものになる。イリスの口からではただのおとぎ話だ。

「そう、魔法だ。精霊たちが君に少し悪さをしたようだね。取り戻さなくては」

「私、泥棒には遭っていません」

「そうだろうとも」彼は心からの同意を示した。「盗まれたのではなく隠されたのだよ。かれらは弱い心が大好きだから。でも、どうやら遊んでいるつもりらしいな」

「何をおっしゃっているのか……」緩く首を振る。イリスにはいたずらされた覚えも、盗まれたものも、何かを失くした記憶すらなかった。

「それが解けるのは君の側にいる人間だ。さて、そのトゥンイランは何をしているのかな」

「こちらにはいらっしゃらないと思いますわ。私、氏の招待で、彼の知り合いという人と来たんです。フラムと言います」

「フー・ラム?」彼はにやりとした。「そうか、君はあいつの恋人か」

 イリスは一瞬息を詰め、息を大きく吸って答えた。

「恋人ではありません。友人です」

「フー・ラムの友人の中でも最も親しい人、更に言うなら一生涯そばにいたいと考えているんだろうさ」

 機嫌良く彼はイリスに両手を広げ、その手で肩を押した。イリスは当惑で渦を巻く思考で考えた。本当に、フラムは私の一生涯を考えているのかしら、この人に分かってしまうくらい明確に? 胸が鳴る。疑惑の一部が、儚い希望に変わりつつあった。

「さて、あいつの顔を見よう。彼は私に会いたくないだろうが、私は彼に用があるのでね」


 海岸から邸への道を行き、イリスはどのトゥンイランか分からない男性とともに戻ってきた。帰ってきたことを知ったスウが現れ、こちらを見て息を飲み込んだ。

「〝コウ・イム様〟」

「〝やあ、スウ。お守りご苦労〟」朗らかに彼はスウの肩を叩いた。

「〝フー・ラムはいったい何の遊びをしているんだ? こんな女性を捕まえて。かわいそうに、あいつのことを知らないみたいじゃないか〟」

「イリス様」スウはイリスに微笑を浮かべた。「ノイは書斎にいますよ」

「ええ……」追い払おうとしているらしい。連れてきてはいけない人だったのだろうかと不安になる。「見てくるわ」

 イリスが気がかりを残したまま遠ざかったとき、トゥイ語がかわされる声が響いていた。それは一方は気安げに、一方は少々固くなっているように聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る