11

 少し遅くなる、という連絡を、イリスはフラムから聞いていた。彼が帰ったすぐ後で電話が鳴り、明日は行くのが少し遅くなると言ってきたのだ。この数日で彼がよく手伝ってくれるため、急ぎの仕事もなかったので了承した。

 彼には休息が必要だわ、そして、私にも。

 お互いの立ち位置が微妙に変わりつつある今、イリスはルイたちの手前引くこともできなかったし、自ら前になど当然行けなかった。しかし、これから彼女たちはこの関係に名前を付けなければならないのだった。彼はイリスを相手に選ぼうとしている。

 トゥイの夜は決して寒くはないはずなのに、知らず知らずのうちに二の腕をさすっていた。宣言してしまえば、イリスは彼から逃げられない。肩に触れ、唇に触れた彼を求めて、身体は冷えて訴えている。彼に抱きしめられたい。彼に委ねたい。


 でも、それだけはだめだわ……。


 息で呟き、顔を覆った。それだけはしてはいけない。理由は馬鹿馬鹿しいくらいのことだ。

 イリスは、手に入れる前に失うことを恐れている。時が、人生が、喜びの光で輝けば輝くほど、それが失われていくときが恐ろしい。

 身を切られるような思いをして一人になるくらいなら、もう最初から一人でいようと決めた。ティファニーがいなくなったことはイリスに多大なダメージを与えたが、その後に巻き起こった遺産を巡る問題にも、彼女は彼女自身の心を傷つけられていた。そんな風に、周囲にも自分にも絶望することに疲れてしまったのだ。

 しかし分かってもいた。それでもなお自分を愛してくれる誰かを求める浅ましい気持ちがあることを。拒絶を越えて強引に抱きしめてくることを望んでいるのだ。これを最低と言わずに何と言うだろう?



 朝が訪れ、目覚めても、いずれ来るときが近付くだけで、イリスの心は晴れなかった。時間だけが減っていく。自分の心もすり減っていきそうなほど疲れており、イリスは初めて朝食を残した。

「レディ、今日の食事は口に合いませんでしたか?」

「違うのよ、ちょっと体調が悪いだけ……」額を押さえ、微笑んで首を振るが、どうしても頭痛のような鈍い痛みがある。すると、ノイはぎゅうぎゅうとイリスの腰を押した。

「片付けなら僕がしますから! 部屋に行って休んでいてください」

「でも」と反論を口にしようとすると、泣きそうな顔をされてしまう。「じゃあ、お願いできる?」と観念すると、一転してにっこりされた。なかなか演技派のようだ。

 部屋に行って目を閉じる。開けた窓から、潮風が入り込んでカーテンを揺らした。疲れているとは感じなかったのに、包み込むような眠気がやってくる。目を閉じれば、ゆっくりとその波に引き込まれていく……。


 ――はっと気付いたとき、彼女の側には黒い瞳の男性の姿があった。イリスは睨んだ。

「女性の部屋に入り込むのがあなたのマナーなの?」

「失礼しました」と彼は引き下がる言葉を口にしたが、右腕を頭の上に挙げ、寝そべったイリスの上にかがみ込んだまま動こうとはしなかった。

「フラム」

「眠れる姫君はご機嫌斜めのようですね」フラムが浮かべた微笑にはからかいの色がある。「体調が悪いと聞きました」

 あなたが原因なのよとは言えない。疲れた息を吐いて横を向いた。

 あらわになった首筋に、彼の指先が触れて目を剥く。身をよじり、また視線を鋭くしたが、フラムは意に介さず、笑みを浮かべているがどこか真剣な表情で顎の下から鎖骨までを辿っていく。その手が熱く、漏らすまいとした息は、細く、震えて、吐き出された。

「フラム……」

「静かに」と彼は息をひそめる。「脈を診ているので」

 鎖骨のくぼみや下の部分を辿っていた手は、ゆっくりと首に戻り、柔らかくイリスの顎を捕らえるようにした。行きつ戻りつする手の平、指先。耳元に触れられるとぞくりとする。

(嘘つき……)脈を診るなんて嘘に決まっていた。医者の真似事をするならこんな風に触れたりはしない。静かに、とまた彼はささやいた。捉えられた顎から頬を支えられ、仰向けさせられる。

「目が潤んでいる」フラムは冷徹にも思えるくらいの口調で言った。「熱があるのですか?」

 こんな風にしておいて、と唇を噛むと、親指がそれをとどめた。ほとんど手入れできていないイリスの唇を、指のほんのわずかな先でいじっている。どうしてだろう、不思議と安らぎがあった。心地よく身を委ねてしまいそうな。ずっとこのままでいたいと思わせるような。彼女はここに来て初めて誰かに身を任せていた。そしてそれは、彼女が願望していた平穏を持っていた。

 抵抗しなさい、とイリスは眠りにも似た心地よさの中で自分を叱咤する。流されてはいけない。後先考えず、今このときだけ与えられる熱に踊らされてはいけないのだ。イリスはトゥイの人間ではないし、フラムは恋人ではなく、この先も恋人にするつもりはない。この行為の許容は彼の期待を無駄に煽ってしまうものだ。妖婦になったつもりもなければ、はけ口にしたいわけでもないイリスは、しかし触れるだけの手のひらの翻弄され、もう一度わずかな抵抗を再び試みた。

「……フラム……」

 それは、応じる声に似ていた。望む声にも。フラムの笑みが、獰猛さを帯びた。

「イリス」

 途端、何かが香った。煙のような、花のような。時間の止まった花を思わせる香りだった。


 その時、下階で派手な音が響いた。何かをひっくり返したような音だ。わずかに悲鳴が聞こえた気がする。

 二人の動きが止まる。イリスは瞬きをし、フラムはがっくり頭を垂れて、何事かを低い声で呟いた。

「〝ちくしょう、せっかくいいところだったのに〟」

「え? なんて言った?」

「……なんでもありません」まだ怒りのようなものを漂わせて、彼は起き上がった。

「ノイの声がしたわ。……誰か別の人の声も」同じくイリスも起き上がり、服装や髪の乱れを直しながら尋ねる。

「私の友人です。あなたの準備のために連れてきたのですが」

「準備って、何の?」

「パーティに行くのにドレスが必要でしょう?」なんてことはないとフラムは肩をすくめた。「せっかくですから、新しく作ってもらおうと思ったのですよ」

 イリスはまだ理解できていなかった。自分とドレスがうまく結びつかなかったのだ。しかしゆっくりとつなぎ合わされていく単語に、「あなたと行かなければならないパーティの?」と尋ねる姿はおどおどしてしまった。

「せっかくですから」ともう一度フラムは根気づよく言った。

「これはいい機会です。ドレスがあれば、外に出て行く気になるでしょう?」

「そういう問題じゃなくて」イリスは言う。だが、下が気になって仕方がない。追求を諦め、ベッドから立ち上がった。すっかり日差しが強く明るく、部屋が暑くなっている。「とにかく、下を見てこなきゃ」


 急ぎ足で下に向かうと、消毒液のにおいが鼻を突いた。困惑しつつ覗いたリビングに、見知らぬ女性の姿がある。金色の髪を短くした、赤い唇の華やかな女性だった。ノイとともに床に散らばったもの――救急箱の中身を片付けていた彼女は、こちらを見てぱっと顔を輝かせた。喜ばれる理由が分からなくて、イリスには当惑の念がわき起こる。

「お邪魔しています、ミス……」

「イリスです。フラムのお友達だそうですね。出迎えなくてごめんなさい」

「いいえ!」と彼女は明るく言って、イリスの差し出した手をとった。「エレン・ジョーダンです。フー・ラム氏の数多い友人の一人に加えていただいています。こちらこそ、勝手に入り込んで申し訳ありません。とてもいいお宅ですね。庭の緑と室内のシックな色合いがとても素敵」

 顔が輝いてしまうのが抑えられなかった。歓迎の表情を表すことができたのは、この別荘は、イリスの最後の仕事のようなものだったからだ。「本当にそう思ってくださる? 三ヶ月間ですべて整えたの」

 エレンはにっこりした。「とても腕利きなんですのね。それにとても悪戯心がおありみたい」

 何を言われたのか分からないでいると、ノイが両手で何かを差し出した。バネ仕掛けのおもちゃに見える。

「薬箱を開けたら飛び出してきたんです」

 言われて、記憶が蘇った。これはイリスのものだ。何十年も前の少女の彼女のお気に入りのひとつだった。

「なくしたと思っていたわ。子どもの頃に遊んでいたおもちゃ」ノイから受け取って、イリスは苦笑した。「ティファニーが隠していたのね。そういえば、救急箱の中身は見ても、薬箱の中身は見ていなかった」

 それで、ノイは救急箱を落として消毒液をこぼしてしまったらしかった。バネの先のキャラクターが、何かメモを挟んでいる。イリスは笑いを堪えて読み上げた。

「――『落ち着いて!』」

 くす、とフラムが笑い、イリスも笑った。ノイもエレンも笑い出す。何十年越しに仕掛けた悪戯が発動するなんて、ティファニーらしかった。

「楽しいお家ですわね」とエレンはくすくすと笑っている。「センスがあるわ。これなら、無茶な注文を受け付けられずに済みそう」


 目を瞬かせると、彼女は名刺を取り出した。ゴシックな字体で彼女の名前と肩書きがある。デザイナー。所属は「イル・マリネン……」呟いて、はっとした。イル・マリネン。ユースアに本店があるフォーマルファッションブランドの名前だ。イル・マリネンのデザイナーがどうしてフラムと知り合いなのだろう?

「仕事の関係です」思わず見つめた先で彼は首を傾けて言った。「以前勤めた仕事先で知り合ったのですよ」

「あなたの今までの仕事って、いったい?」強気に出られたり、言葉が出来たり、彼には不審なところが多すぎた。

「いろいろ、ですね。観光、土木とか建築、服飾もやったかな。多すぎて覚えていません」

 変なひと、とイリスは納得しきれないまま腕を組んで彼を見上げた。

「あなたってやっぱり不思議だわ。でも、あなたはそれでいいという気がする」

 何も言っていないのにすべてを知っているような。何をするのでもなくそこにいて、いつまでも待っていてくれるような。そういう不思議な気配が彼にはある。

「人徳ですわね、ミスター」

 そう言ったエレンはにこやかにイリスを見た。「フー・ラム氏がめずらしく電話をかけてくるので、いったいどんな方にドレスを着せるのかと思ったけれど、あなたが相手なら、私も腕が鳴るわ」

「イル・マリネンのドレスは、私も何度か見たことがあります。母が何着か持っていて」イリスの声はか細く、しかし興奮で震えていた。「友人たちもそちらのドレスを持っているだけで自慢していたわ。そんなすごいブランドのドレスなんて、私……」

「そんなに緊張なさらないで。私、下っ端なんです」エレンは肩をすくめた。スーツでかっちり着込んでいる姿にその仕草は、とても愛嬌にあふれて見える。「むしろ気を張らなくちゃならないのは私の方。あなたのドレスで、私、主要デザイナーにのし上がるつもりなんですから」

 イリスはちょっと笑った。どこのブランドも同じらしい。イリスが以前勤めていたインテリアブランドは、皆誰しも自分のカラーを持っていて、それを花開かせようと必死だった。自分はそこまで主張するほどのものは持てていなかったけれど。だからエレンには親近感を覚えた。はきはきとしたしゃべり方と言い、裏表のなさそうな笑顔といい、新鮮な風を吹き込むような人だと好感も持つ。

 ノイが救急箱から取り出した頭痛薬を差し出してきた。さきほどの音は、それを取ろうと手を滑らせた音らしかった。


 さっそくエレンは仕事を始めた。彼女は他のスタッフを連れてはいなかった。自らの手でイリスの全身を手早く、慣れた手つきで採寸すると、それをノートに書き留めて、唇をひねってうなっている。ノートには色鉛筆で書き込んだ文字がカラフルに散っており、彼女の豊かな想像力を示すようだった。

「スレンダーなタイプがいいわ。裾もあまり派手にしないで……何かご要望はありますか?」

「あまり派手な色は得意じゃないんですけれど……あの……私、イル・マリネンの黒が好きなんです」

 エレンの目がきらりと光る。イル・マリネンのフォーマルブラックは、その名前だけで一部の人をひれ伏させる効果がある。でも、とイリスは微笑んだ。

「でも、カラードレスを作ってほしいと思うわ。イル・マリネンの黒じゃなく、例えばイル・マリネンの赤、青、薔薇色と言われるような」

「イル・マリネンのカラードレス……」じっと視線を落として考え込んでいたエレンは、はっと天啓を受けたように顔を上げ、何かを素早く書き込んだ。にやりとした顔でイリスを見て、「氏は?」とフラムに顔を向ける。

「彼女に似合うようにしてください」

「もちろんですわ。任せてください。ミス・イリス。あなたにふさわしいドレスを作ってみせるわ」

「僕にも聞いてください」と離れたところで座っていたノイがやってきた。エレンは笑顔を浮かべる。

「あなたはどう思う?」

「イリスには白か青がいいです」ノイは笑顔で答えた。

 目を瞬かせるイリスとフラムだったが、エレンは笑顔だった。「私たち、気が合うわね」ノートをたたんで、彼女は言う。「いくつか色の案を出してみます。でも、私の中ではこれというものがあるから。きっとお似合いだわ」

「お願いします。……夢じゃないのかしら」イル・マリネンのドレス。着て出て行かないともったいない一着になってしまう。すると、あまりにも目を輝かせていたからかもしれない、フラムがくすくすと喉を鳴らした。

「言ったでしょう? 外に出たくなると」

「認めなくちゃいけないみたいだわ」イリスは澄まして言ったが、やはりくすぐったくなって笑ってしまった。例えそれを着ていく場所が望んだところでなくとも、あこがれのドレスを身にまとう自分には心が躍った。

「あまり時間はかけられないとうかがっています。もしかしたらこちらに作業を一任していただくかもしれないのですけれど、よろしいでしょうか?」

「それはもちろん」イリスはため息をついた。「きっと素敵なものができあがると信じているもの」

 エレンはにっこりした。そして仕事に取りかかるべく、ノイのお茶に手を付けることなく、ここを後にすることになった。玄関まで三人で見送り、フラムとエレンは友人の抱擁を交わす。


「〝支払いは私に〟」「〝存じておりますわ〟」二人は笑顔で、イリスには意味の取れないトゥイ語で親しく言葉を交わした。

「また後日お会いしましょう、ミス・イリス」

「楽しみにしています、エレン」イリスもまた抱擁し、車に乗り込んだ彼女を見送った。


「お茶、飲んでもらえませんでした……」

「今度お菓子と一緒に飲んでいただきましょう? でも、今は私に入れてね」

 笑顔でキッチンに向かうノイの背中を見ていて、不意に、隣に立っていたフラムも同じ瞳をしているのを目撃し、密かに笑った。しかしそんな笑い方はすぐに気付かれてしまう。フラムは緩く瞬いた。

「あなた今、あなたが言ってくれた私の視線と、同じ目をしていたと思うわ。……父親か兄のよう」

 フラムは一瞬表情をなくした。怖いくらい衝撃を受けた顔で、口元を押さえた手は思わずといった印象がある。まるで彼の素の表情を見た気がして、イリスの方が目を丸くしてしまった。

「私、何か悪いことを言った?」

「いえ……」彼は夢から覚めたように瞬く。視線をそらし、小さな声で「なんでもありません」と呟いた。イリスは憤然とした。そんな顔をすれば、何でもないことはないくらい分かるわ。

 父親か兄に、何か思うところでもあるのだろうか。彼の家族の話は聞いたことがない。そもそも、彼はあまり自分の話をしなかった。穏やかに凪いだ感情面はイリスの憧れにもなるような静けさだったが、それは、線を引いた境界の向こう側、閉ざされた彼の内面でもあるらしい。そのことにようやく思い当たった。彼は、自分のことをまるで明かしていない。

 二人の間にはそれぞれ物思う無言の時間が流れた。彼はゆっくりと目を伏せた。子どもがうなだれるようだった。しかし次の瞬間には大きく息を吐き出し、胸を張っている。影を振り払った、自信にあふれ、穏やかな物腰の、いつもの彼に戻っていた。

「少し疲れましたね。お茶を飲みましょう」

 話す気はないのね、とイリスは腕を組んだ。思ったが、言いはしなかった。踏み込めるほどイリスは強くはなかったし、彼の脆いところを見た気がして怖かった。だからおとなしく頷いた。

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