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 忘れろだって? フラムは苛々と砂を蹴った。美しい浜辺の白い砂は、彼女の肌触りを連想させる艶やかな光を秘めている。夜の中で輝く真珠やオパールのような光沢だ。

 忘れろだと、寂しいくせに。怒りは治まらない。何故なら、彼女が買ってきた香辛料で鶏肉のカレーを作り、それを三人で食している間、彼は懸命に感情を抑え、彼女の望む態度を取り続けたからだ。彼女が目の前で怯えるように微笑んでいない今、取り繕う必要はない。

 忘れろと言うくらいなら、追い出せばいいのだ。なのにイリスはそれをしない。理由は簡単。自分からは言い出せないほど寂しいか、彼女自身気付いていない本心があるからだ。彼女とのキスで、フラムにはもう分かりすぎるほど分かっている彼女の本音は、イリスは彼を愛し始めているということだ。


 どちらにしろ、従兄弟たちの前に出るときには、彼女には気付いてもらっていなくてはならない。あの占術の予言が示す通りなら、イリス・カナリーは私の妻だ。出会うべくして出会った伴侶となる女性を、簡単に逃がすつもりはない。占術などきっかけにすぎないのだ。あの日、ああして出会ったことにこそ意味がある。

 月の光がさざ波に反射して、道を作っていたあの夜。空を行く天女が初めて降り立ったような、駆けてくる水まじりの足音。月で染めたような金色の髪、彼女の瞳。彼女は彼を求めていた。それは正確に言えば助けを求めていたのだが、彼女が彼を求めて走ってきたように思うのは容易かった。そして、胸の中に閉じ込めたときの百合のような甘い香り。

 彼女は自分に気付いていない。華やかに歩き、唇に微笑を浮かべれば、その影を秘めた姿に目を吸い寄せられる男は後を絶たないだろうということを。そして、自分はそれにいかれた筆頭だということ。


 フラムは海岸を辿り、だんだんと人気のない道を歩んでいた。距離を置いていくつかの邸の屋根が見えているが、この辺りでは、それらの住人は皆、車を使った。だから彼の足跡が残されていくのは邸をうかがう不審者の痕跡のようで少々不気味なようにも思える。しかし、彼は歩くのが嫌いではなかった。自分の足で街を歩き、変化を楽しむことを好んだし、幼少期からよく歩き回ったおかげで、簡単には手に入れられないつながりも得られた。邸の、エアコンの効いた部屋で、キーボードを叩く以外のことで手に入れられるものは計り知れないほど多いというのが持論だ。もちろん、両方できて損はない。

 インターホンを押せば、カメラが彼の姿を捉え、自動ロックが解除される。扉を開ければ、迎えがあった。

「〝おかえりなさいませ〟」

「〝ただいま、スウ〟」

「〝カンル様から定例報告が届いております〟」

 真面目で穏やかな後見人、愛すべきカンル叔父を思い浮かべ、頷く。スウは「〝それから〟」とフラムの後に続きながら、生真面目に報告した。

「〝父上様からお手紙が〟」

 フラムは歩みを止めた。「〝手紙だけか?〟」と聞けば、否定が返ってきた。

「〝いいえ。日中に何度かお電話がございました〟」

 当然だ。彼は気まぐれで、連絡を取りたいときに連絡が取れないと、飽きるまでしつこいのだ。家を空けていてよかったな、と笑った顔はおそらく非情だろう。フラムには、父に対する愛情はない。あんな、夫の役目も父の役目もしない男など。

「〝どうせ、私の見合いの話か、新しい恋人の自慢だろう。しばらく取り次ぐな〟」

 スウは頭を足れた。自室に入ると、着替えが用意されている。ごく普通の、ありふれた既製品の衣装を脱ぎながら、思ったことがあった。

 もし婚約を披露するなら、準備が必要だ。

「〝スウ。最近流行のブランドといったらどこだ、特にドレスの〟」

「〝ガシュー、ディアは定番ですが、面白みがないと言ったらそうでございますね。年齢にもよりますが、若い女性にならイル・マリネンでしょうか〟」

「〝わかった、ありがとう〟」フラムは電話を取り、番号録に書き留めてある『イル・マリネン』の女性デザイナーの番号をプッシュした。イグレン語で簡単に挨拶をすると、彼女はこちらを覚えていた。

『まあ、ミスター! お久しぶりです。電話をくださって嬉しいわ。どうなさいましたの?』

「お久しぶりです。無精をして申し訳ない。あなたのドレスのことを思い出して電話をしたんです。お仕事は順調ですか?」

 肩をすくめたような笑い声。『以前ご報告した通りですわ。店内の派閥争いがひどすぎて、杭が出たら打たれるという状況です。この調子なら店を辞めようかと思っています』

 うまい状況だ。フラムはにっこりした。

「だったら、エレン。あなたは自分の腕を振るう場が欲しいと言っていましたよね? 大きな会ではなくて恐縮なのですが、ユースア人女性に似合うドレスを一着頼みたいと思っていて。時間もあまりないのですよ。あなたの腕を見込んでお願いしたいのです」

『まあ、本当ですか!?』電話の向こうの声が、一段高くなる。受話器を持ち替え、フラムは笑った。

『お相手はどんな方なんです? ああ、結構ですわ、自分で見て確かめますから! 早速明日伺ってもよろしいでしょうか?』

「ええ。モデルはとても綺麗な方ですよ。早ければ早いほど助かります。その際、お願いがもう一つあるのですが」

 なんでしょう? と彼女の声は子どもじみた興奮を帯びた。


「彼女は私の素性を知らないのです。ですから、私がトゥンイランだということは内密に願います」


 少し間があった。『……それは……どういう方ですの? 少なくとも社交がお得意な方ではありませんよね? まさか、トゥイ屈指の資産家一族トゥンイランの名をご存知ないというのは……』声に堂々と困惑があり、彼はくすくすと笑った。

「会えば分かると思いますよ」

 トゥンイラン・フー・ラムは部屋を見回した。世界中から集めた書物、古書の類いが、深い色味で壁一面を覆っている。アンティークのランプがほの明るいオレンジの光を投げかけ、天井からつり下がる照明、テーブルランプ、スタンドライトのランプシェードは、すべてオレンジで統一してあった。ソファは黒の革、彼の残しかけている椅子は普段使うもので、ゆったりとしたラウンジチェアだった。この部屋はエイジアンリゾートをイメージしたもので統一してあるが、イグレンシア風の部屋もある。イリス・カナリーの住まいより広いことを、彼はもう知っていた。部屋だけは多いのだ。すべて、彼の持ち物である。海岸から突き出した岬の上に立つ邸は、彼の別荘だった。


 素性の知れない男が、実はトゥイの長者であることを知ったら、彼女はどうするだろうか。考え、微笑み、打ち消した。何故なら、しばらく明かす気はなかったので。

 彼女には一度こちらに立ち寄るよう伝えて、電話を切った。いつの間にかお茶の用意を整えたスウが言った。

「〝明日わたくしは本宅に参りたいと存じます〟」

「〝何かトラブルか?〟」

 すると、初老の執事は目をきらりと光らせた。

「〝フー・ラム様は大事なことをお忘れです。パーティにお出になるなら、あなた様の身なりも整えねばなりません。でなければ、お相手の女性に恥をかかせることになりますぞ〟」

 爺やの剣幕に、彼は両手を上げて降参した。

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