『よお、イリス! さっきはどうも』

 何度この、汚れたカーペットを見るような気持ちにさせられなければならないのだろう。電話をかけてくるような人間は彼らしかいないはずなのに、安易に受話器をあげた自分に舌打ちしたい気持ちになる。声の背後でがなり立てる音楽と同じくうるさい声に、イリスは冷徹な声を意識して返した。

「ルイ、飲んでいるのね」

 陽気な肯定の声が返ってきた。

『マクレガーさんのところで飲んでるんだ。君も来いよ』

「いいえ。行きません。酔っているときに電話なんてしてこないで」

『お固いなあ。俺が今から行ってやろうか。ちょうどいいから』

 何がちょうどいいのかしら。イリスは「お断りします」ときっぱり言い切って電話を置いた。胸のむかつきが押さえきれず、下に降りると、キッチンからワインを取り出し、グラスに注いで一気にあおった。アルコールがかあっと胃から喉に突き上げる。あまり強くないので、頬が火照り、目が泣いたように熱くなった。グラスを置く音は自然高くなる。

 そうした後、本当にルイたちにやってこられたらどうしようという不安が突き上げた。玄関をロックしただろうか。ノイが起きないようにしなければ。

 玄関に向かったとき、インターホンの音がし、イリスは鍵をかけようとして、間に合わなかった。顔をのぞかせたルイは酒に酔った赤ら顔で、一気に部屋に押し入ってきた。

「出て行って!」

「ご挨拶だな。いとこだろ、俺たち」

「あなたみたいな従兄なんていらないわ。不法侵入で警察を呼ぶから」

「痴話喧嘩に来るかな? この国は包丁を持ち出しても日常茶飯事だって聞いたけど」

 イリスは震え上がり、きびすを返してリビングに逃げ込んだ。カーテンが揺れている。窓が開いているのだ。そこから飛び出し、裸足で玄関ポーチを駆け抜ける。我ながら過剰な反応だとは思ったが、ルイに対する恐怖心は子どもの頃からの根深いものがあった。


 ルイの笑い声が悪魔のように響く。もつれるイリスのナイトドレスを鳥の羽に見立てたのか、「ほら、早く逃げないと篭の中に入れてしまうぞ」とげらげら喚き立てた。早く遠くへ逃げないと。ノイのことを思い出されて、あの子に危害を加えられたらと思うと。隣家までは時間にして十分の距離がある。マクレガー家の別荘にはマイクがいるはずで、そちらには逃げられない。しかし、もう一方の隣の別荘に今所有者が来ているのかを知らなかった。ここにやってきてからというもの、イリスがろくに外出もせず、付き合いをしないせいだ。

「ほうら、逃げろ、逃げろ。すぐに捕まえてやるぞ」ルイの声が闇に響く。離れようとしているのに、決して声は遠くならない。イリスは悲鳴をあげた。いつの間にか海辺に来ていたらしい。満ちてきた潮が、裸足の足をさらったのだ。

「イリス、イリス、小鳥ちゃん」

 逃げ場はない。ここから先は海の向こうだ。逡巡は一瞬、イリスは浜辺を走り出した。ぴたぴたと濡れた砂を踏む音が鳴る。一方でルイの足音が消える。砂の上を歩き出したのだろう。

 振り向くと、裂けんばかりに笑ったルイのぎらついた目が見えた。震え上がって前に目を戻すと、驚いたことに人影を見た。こんな時間に出歩いているのはイリスだけではなかったようだ。しかし向こうは追われているわけではなく、ぼんやりとした様子で波打ち際を歩んでおり、走ってくる裸足の音に気付いてこちらを見た。

 トゥイ人の若い男だった。黒真珠のような瞳を認識できたのは、対比する白い珠のような月の光が彼の瞳に差し込んだからで、夜の中でその瞳は漆黒ではなく青みを帯びた黒に光っていた。

 人影を見て安心したのか、イリスの足はついにもつれた。

 彼がとっさに駆け寄り、膝をついたイリスを抱え起こす。

「大丈夫ですか?」

 イグレン語でも本場の、キングズ・イグレンスの発音だった。

「イリス」ルイが追いつく。しかし、イリスを抱きとめている男の存在に気付いて、不審な目を向けてくるのが分かった。イリスは反射的に、見知らぬ男の袖をつかんでいた。それほど恐怖していたとも言えた。

 ルイは微笑んだ。まったく完璧に、まるで恋人のように。「走るからだよ、イリス。さあ、こちらへおいで。ご迷惑をおかけして申し訳ない」

「いやよ、来ないで」イリスは震え声で返し、男に身を寄せた。でもできることなら、この男からも逃れて、走り去ってしまいたかった。全身が震える。怖くてたまらないのに、助けて、の一言を忘れてしまっていた。

 しかし、男はまるでイリスに答えるように、彼女の背中に手を回したのだった。抱きしめるのに似ていた。

「失礼ですが、どちら様ですか?」

「なんだ、お前は」ルイの声が苛立ちを帯びた。普段はマイクとは対照的に温厚を装っているが、彼の本性も弟と同じだ。お酒のせいで、その皮が剥がれやすくなっている。「お前こそ誰だ。関係ないならすっこんでろ!」

「関係ないわけじゃないわ」

 イリスは叫んだ。


「この人は私の夫です!」


 直前に煽ったワインのせいかもしれない。恐怖のあまり冷静さを失っていたからかもしれない。恋人という言葉も、友人という言葉もすっ飛ばして、夫という単語が飛び出し、すぐにばれる嘘を叫んでいた。

 当然、ルイからあがったのは失笑だった。

「夫だって? そいつはトゥイ人じゃないか。結婚したって、君がこの国に来て三ヶ月なのに!」

 イリスが何も言えずにいたそのとき、男の手が彼女の顎を持ち上げた。上向かされ、降ってきたのは、熱い唇だった。


 あまりのことに呆然とする。自ら招いたことなのに、それすら忘れるくらい。冷えた顎をとらえる指の熱さと強さ、そして注ぎ込まれるような口の内の熱に、イリスはろくに思考できずに受け止めるばかりだった。唇が離れていくときに彼の黒い瞳が笑っており、抱きしめられながら、声を聞いていた。

「結婚を約束した、こういう関係なのですが、あなたはどちら様ですか?」

 ぼんやりしていたのは従兄もだった。突然人目もはばからずにキスをしたイリスたちを、最初は当惑、次に気味の悪そうな目で見始める。イリスを立ち上がらせる男は本当に恋人なのだろうか、という疑問が彼の周りに散っていた。その彼女自身もこの人は知り合いだったろうかと考えるほど、男は堂々とした態度でイリスを誘った。

「大丈夫ですか、イリス?」呼びかける声は親しく、甘い。「さあ、家に帰りましょう。ああ、あなた、もう二度と彼女に近付かないでください。彼女は迷惑しているんです」

 さあ、とイリスを導く手は、優しく、大きかった。当事者で原因であるはずのイリスは何が起こっているのか把握できず目眩を覚えながら家に戻った。


 そこから先のことは曖昧になってしまっている。彼がどこの誰かを聞くこともなく、他人の、それも男を家にあげたことに恐怖を抱くわけでもなく、気付いたとき、イリスは自分のベッドで朝を迎えていたからだ。

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