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イリスがカナリー姓になったのは十五年も前だ。両親を不幸な事故で失い、十歳のイリスは母の妹ティファニーに引き取られた。十だけ違ったティファニーとの生活は、まるでうんと年上の親友と家をシェアしたような生活で、イリスは自分の部屋に大好きな映画のポスターを貼ることが許されたし、彼女の大人っぽいアクセサリーやファッションを融通してもらえたりもした。でもお風呂は急かしたり急かされたり、冷蔵庫のデザートには自分の名前を書いたりもした。しかし、今思えばそんな日々は、イリスの人生で最もまばゆい光を放っている。
実母と養母の生家であるカナリー家は、農場主で土地持ちだった。祖父はそれらを売った金で自動車会社を設立し、それで一山当て、異国のリゾートに別荘を持つような資産家になった。イリスの実母が亡くなった後に祖父が亡くなったため、遺産はティファニーと彼女の弟、ルイとマイクの父に当たる人に相続された。ティファニーは父の才能を受け継いだのか、相続後に始めたセレブ専門の宝石商で成功し、生前は総資産数十億の大金持ちになっていた。すでに遺産を食いつぶしていた従兄弟たちは、裕福なティファニーを何度も頼ってきており、イリスは金の無心に来る彼らと何度も顔を合わせたことがある。慈悲深かったティファニーは、若くして亡くなる前にそんな甥たちにも遺産を分け与えていたが、強欲な兄弟は、イリスが養母から受け継いだ遺産をうらやみ、イリスがユースアの自宅にいた頃からずっと押し掛けてくるのだった。合衆国ユースアから、エイジア地方にまで逃げてきたが、蛆がたかるように、蠅が飛ぶように、従兄弟たちはイリスの周りをうろうろしている。ティファニーのことを悼む暇もない。
思い返せば思い返すほど、ティファニーは大事な人だということが思い知らされるばかりだった。限りない愛を、誠意を、友情を、イリスに示してくれた人だった。そして守っていてくれたのだ。ここにイリスは一人、頼れる人もなく、息を潜めて暮らしている。持っていたインテリアデザイナーの仕事は、親戚たちのつきまといで辞めざるを得なかった。他国に逃げて何もしないで暮らせるほど遺産があるのは、いいことだったのか悪いことだったのか。
「レディ。今日は家で休んでください。買い物は僕が行きます」
じっと目を閉じたままのイリスが気がかりらしかったノイが、高い声でそう言った。イリスは目を開け、丸い瞳を悲しげに揺らす少年に、静かに笑いかけた。頭を引き寄せ、そこから頬にかけて撫でる。
「大丈夫よ。あなたが氷を持ってきてくれたから、そんなにひどい見た目にはならないわ。それに、傷を作って保険金が出るほどの顔じゃないものね」
「そんなことないです! レディは綺麗です!」ノイが大声で主張し、イリスは声を立てて笑った。口の傷は痛んだが、ノイのかわいらしさに比べれば、そんなことは我慢するに値するものだったから。だからきっと、ステーキのソースがしみても笑っていられる。
(男手を雇わなければ)イリスは不意にそう思った。イリスとノイの二人だけでは、何かあったときに対処できない。いくらここが高級リゾート地でも、従兄弟たちは現にああやって堂々と入り込めるのだから、自分はともかく、この少年に何かあったとき、後悔してもしきれないだろう。ノイが家に向かって砂を蹴って駆けていくのを見て決意が固まった。新しく人と付き合うのは勇気がいるが、ノイを守れるのは、イリスしかいない。
食事も終わり、シャワーを浴びてしまうと、後はゆっくり休むだけだ。強い風は集まっていた雲を払い、今は穏やかに梢を揺らしている。大きな葉の陰が窓辺の影に更に濃い影を作り出していた。見上げれば、月が真珠のようなまろやかな色で浮かんで、その光さえも吸い込んでしまう闇から届く潮鳴りは、もう耳慣れたものではあったけれど、こうして耳を澄ましていると、ここがユースアから遠く離れた異国であると実感する。
ティファニーとの家は、いつも部屋の中でテレビか音楽の音がしていた。音楽は、彼女の大好きなR&B。
かすかにそれと同じ音をとらえ、イリスはリビングに降りていった。テレビに見入っているノイに声をかける。
「ノイ、もう九時よ。そろそろ部屋に行きなさい」
「もう何か用事はありませんか?」
テレビを消してこちらにやってきた彼に首を振り、頬にキスをする。
「ええ、ないわ。今日もありがとう。おやすみなさい、いい夢を見てね」
「おやすみなさい、レディ」
頬にキスを送り返し、ノイは与えた部屋へと向かっていった。扉を閉める音を階段下で聞き届けると、テレビが消え、ノイがいなくなり、夜が訪れた部屋は静まり返り、イリスの気配しかなくなった。彼が座っていたソファの片付けに向かうが、イリスは苦笑した。やっぱり今日も、あの子は敷布をきちんと整え、私が放り出していたはずのローテーブルの下の雑誌類を綺麗にまとめてあるのね。
イリスがこの別荘を手入れしているとき、偶然現れた彼は彼女の手伝いを始め、いつの間にか二人で暮らすようになっていた。話を聞けば、両親も亡くなり、頼れる兄弟もおらず、ここでは『食事』を手に入れていたのだと……リゾートでは残飯が多いのだということを、拙いイグレン語で語った。イグレン語は両親の生前、観光客相手の街案内の際に覚えたものだと言っていたが、見た目こそやせ細った哀れな少年に見えれど、最初の二週間は、決して一人で家の中をうろつくことはなく、かと思えばイリスの手伝いをしてくれたり、彼の立ち居振る舞いは頭の良い少年のそれだったので、イリスも心を許したのだ。
今も、彼は立ち入ったところには触れようとしない。彼の私物は、彼の部屋のほんの少しのものだけだった。二人の状況は周囲から見ればあまりいいものとは言えなかったが、当人たちにとっては十分な距離と関係であると言えた。親も兄弟もいないというノイと出会って二人で暮らすことになったのは、ここから十分も離れた隣人のマクレガー夫人に言わせれば『乞食に家を乗っ取られた』ようであっても、イリスは単身渡ってきたトゥイで心安らげる家族を迎えたようなものだったのだ。そして、ノイもそう思ってくれると彼女は信じていた。本人が了承すれば、養子にするくらいの気持ちが、イリスにはある。今自分を取り巻く環境が落ち着けば……と思うのだが、ルイとマイクは、隣家を別荘としているマクレガー夫人に取り入って頻繁にこちらにやってくるため、なかなか話に出すことはできなかった。できるのは、精一杯彼を愛していると態度に表すだけ。
イリスはそっと二階へ上がり、ノイの部屋の扉を開けた。白いシーツにくるまっている暗い色の肌の少年は、髪をくしゃくしゃに枕に押し付けて、黒い瞳を閉じて眠っていた。ベッドサイドには宝物にしている、父親が生前プレゼントしてくれたというオパールがわずかに混じった原石と、イリスが買ってやった写真立てに収まった彼の死んだ母親の姿があり、イリスは彼の母になった気持ちで、眠る少年の頭をそっと撫でた。まだ眠りが浅かったのか、手が触れると、頬が緩んだ。子どもらしい表情で、自分に子どもがいたらこうなのだろうとイリスの心はくすぐられる。そうだとすると、彼は少し大きすぎるけれど。
次の瞬間、イリスははっと息をのんで、急いでベッドを離れて自室へ走った。けたたましく鳴る電話を、ノイが目覚めないうちに素早く取り上げて、耳に当てる。
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