鳥籠男爵
南野海
第1話
どうして小学六年生のうちから、塾なんかに通わなくっちゃいけないんだろうね?
「
それが母さんの言い分なんだけど、それってちょっと変じゃないのかな。
田舎ならべつに勉強できなくてもいいけど、東京ならまずいってこと? それってなんか根拠があるんだろうか。はっきりいって、ぜんぜんないと思うんだけど。
きっと母さんは田舎ものだから、東京にコンプレックスとかいうやつがあるんだ。
六年生になるのと同時に、田舎から東京の外れに引っ越してきたんだけど、なぜか急に母さんが張り切りだすのはやめてほしいよ、まったく。そんなの今どき、はやらないと思うんだ。
現に新しい学校でできた友達は塾になんか通ってない。まだ、一ヶ月くらいの短い付き合いだから、そいつらがどれくらい勉強できるのかはよく知らないけどさ。
いや、べつに僕は塾の勉強についていけないから文句をいってるわけじゃないよ。学校が終わったあと、日が暮れるまで勉強する必要なんかないってことさ。中学受験とかするわけじゃないんだし。
だいたい子供が夜遅く、ひとりで出歩いていいんだろうか。誘拐犯とかが出たらどうするわけ? 日本の治安は年々悪くなっているとか、父さんだっていつもいってるのに。だったら学校が終わったあと塾に子供を通わせるのはまずいんじゃないの?
とか、夜道をとぼとぼ歩きながら考えていたのは、まだ晩ご飯を食べてないせいで、腹へってるからだ。まあ、勉強ぎらいってこともあるかもしれないけど。
もっとも、夜道をひとりで歩いていたからって危ない目にあうかもしれないなんてことは、ほんとのことをいうと、これっぽっちも考えちゃいなかった。
だって夜っていったって、真夜中のわけじゃない。そこら中に灯りはついてるし、人だってたくさんそのへんを歩いてる。街灯も人通りもないど田舎の山道じゃないんだし。
だから近道をするために、表通りから細い路地に入っていくのに不安なんかあるはずもなかった。すくなくとも、人さらいとか通り魔とかに関してはね。
というのは、そういう現実的なことじゃなくて、べつの意味でちょっと怖い思いをしなくちゃいけないからだ。
この路地を通ると、どうしても幽霊屋敷のそばに出なくちゃいけない。いや、幽霊屋敷っていったって、ただの誰も住んでない古いお屋敷なんだけどさ。
二階建てのけっこう大きな屋敷で、そのはじっこには時計塔が屋根から突き出ている。大きな通りのある正面がわから見ると、右端の手前の部屋の真上にそびえ立ってるのがわかる。ちょうど高さにして四階建てくらいで、大きめの部屋がすっぽり入るくらいの四角い柱でどどんと。
もちろん、かんじんの時計はずうっと前にとまったままだ。すぐ近くに背の高い建物がないから、その時計塔は近くに行くとよく見える。正直いって、見るからに古びていて、いつも同じ時刻をしめしている時計は不気味なだけだ。
もっともこの近道を通ると、建物の裏側に来てしまうから、こっちから時計塔の文字盤は見えない。とうぜん、文字盤は表の大きな通り側についているからね。
屋敷のまわりは、ぐるっと古い塀が囲んでて、一部こわれたまんまになっている。昼間そこから中をのぞいたこともあるけど、窓ガラスは割れ放題だし、壁にびっしりとツタみたいのが張りついてて、気味が悪いったらありゃしない。
昼間でもそんな感じだから、夜見れば不気味なことまちがいなし。しかもそのまわりは民家のかわりに倉庫だとか、夕方には閉まっちゃう病院とかしかないから、灯りが少ないんだ。だから、そこはさっさと通りすぎるつもりだった。もちろん、塀のこわれたところから中をのぞき込んだりしないでね。
ぶうううううん。
僕はかすかに耳障りな音がすることに気づいた。
そんなに大きな音じゃない。だけど低い音でなにかが振動しているような、聞き取りづらいけど気にさわる音。
それがどこからしているのかはわからなかった。
それだけだったら、僕は内心気にしながらも、やっぱりそこを通りすぎただろうね。たいした問題じゃないし。
だけど、聞こえちゃったんだ、笛の音が。
笛っていっても、音楽の授業で使う縦笛なんかじゃないよ。フルートみたいな感じでもなかった。なんていうか、竹かなんかでできた古風な横笛みたいな……。
とにかく、哀しい音色が幽霊屋敷のほうから聞こえてきたんだ。
そりゃ見るよね、誰だって。とうぜん僕もそうした。
灯りがついてたんだ。誰もいないはずの幽霊屋敷の二階の一室に。
まるで蝋燭かなんかのほのかな灯りをバックに、誰かがその部屋にいるんだ。外が暗いせいで顔や服装はよくわからないけど、たぶん、着物姿の女の子の。その子が笛を吹いている。
幽霊だ。
とうぜん、そう思ったよ。まあ、十人いれば十人ともそう思うだろうね。
僕はそれを見なかったことにして、足早にそこを通りすぎようとした。幽霊の正体を暴こうと、中に乗りこもうなんてほんの一瞬だって考えやしなかった。
だけど、一歩足を前に進めようとしたとき、後ろから場ちがいな音が聞こえたんだ。
ぴるるるるるる~っ。
小鳥の鳴き声だ。たぶんカナリヤだと思う。
まわりがしずかだったせいで、その音がみょうに耳にひびく。
しかも同時にめちゃくちゃいやな予感がした。
こつこつと、後ろから足音が聞こえる。
誰かが来たんだ。
なんか怖かったけど、ふり返らずにはいられなかった。
そこにいたのは、とっても変な人だった。
背はかなりある。六年生としてはちょっと小さめの僕より、頭ふたつかみっつ分くらい高い。だけどそんなことは問題じゃない。
その人は真っ黒なマントを羽織っていた。それもちょうど体の前でその両端をあわせるようにして。だからマントの下からはかろうじて靴が見えるくらいだった。先のちょっととんがった黒い靴が。
しかも黒いシルクハットをかぶっている。今どきそんなもの、マジックのときしか見たことない。
「おじさん、大変なんだ。幽霊がいるんだよ。笛を吹いてるんだ……」
それでも僕は、女の子の幽霊よりはその人のほうがましだと思った。
「ほう、幽霊とな? 坊や、その幽霊はどこにいるんだい?」
おじさんは、低くかすれた声でしゃべった。僕はそのとき、ようやくその人の顔が変なことに気付いた。
口にはぴんととがった髭があるのが印象的だった。こんな暗いところなのに、なぜかサングラスをかけている。でもそんなことより、変なのは皮膚の感じだった。一応肌色はしているんだけど、人間の皮膚には見えない。なんていうか、ゴムかビニールで作った仮面を被っているようだった。
その人がしゃべるために口を動かすと、その顔を覆ったゴムかビニールがきゅうっと変な風にゆがむ。
「え、え、あっちに……」
僕は死ぬほど怖いのをがまんして、女の子のいた部屋を指さす。だけどそこにはもう灯りはついていなかったし、笛の音もいつのまにかとだえていた。
もう、わけがわからなかったけど、こうなったら今の目の前にいる変な人が一番怖い。
「あ、あの、気のせいだったみたいです。ごめんなさい」
「ふふ。気のせいじゃないさ。見たんだろう? あの二階の一番左端の部屋で着物姿の女の子を」
おじさんは、なにもかも知ってるよ、といった口調で話す。
そのとき、もう一度ピピピともチチチとも聞こえる鳥の鳴き声がひびいた。
小鳥? こんな夜に?
「ふふ。気になるかい。カナリヤさ。おじさんが飼ってるんだよ」
目の前の変な人は不思議なことをいう。それともマントの中の手には鳥籠がぶら下げられているのだろうか?
すぐにでも逃げ出したいのに、なぜか目がはなせなかった。足も凍ったように動かない。
「見たいかい? おじさんのカナリア」
「い、いや、あの……」
つい口ごもってしまった。見たいといえば、なんかとんでもないことが起きそうな気がして。
「そうかい、そんなに見たいのかい」
正面であわせているマントが少し開いた。
中から両手で広げているらしい。それもゆっくりと。
マントのすき間がちょうど肩幅くらいに広がったとき、その人の胸元が見えた。
なんかタキシードみたいなものを着ていたけど、その下にシャツは着ていない。だからむき出しの胸が見えるはずだった。
「うわああああああ!」
僕は叫んでいた。たしかに、そこにはむき出しの胸があった。
だけど見えたのは、皮膚なんかじゃなく、むき出しの肋骨だった。
胸全体の皮膚と筋肉がなく、右も左も肋骨が丸見え。しかもその中は空洞だった。
「ぴるるるるる」
胸の中から鳴き声が聞こえる。
というか、止まり木にとまったカナリアが胸の中にいた。
この男の人の胸はまさに鳥籠になっている。中にカナリアを飼っているのだ。しかもカナリヤは作り物でない証拠に、顔をきょろきょろさせると、羽をばたばたと動かした。
「ふふふ。私は鳥籠男爵。またすぐに会えるよ、きっと」
鳥籠男爵と名乗った男はそういうと、はだけたマントを直した。
じょ、冗談じゃない。
僕は必死で逃げた。とうぜん、後ろなんかふり返らない。もしふり返ったとき、鳥籠男爵が追っかけてきてたりしたら気を失っちゃうよ。
僕は大きな通りに出て、まわりにたくさんの人を見たとき、はじめて後ろを見た。
さいわい、鳥籠男爵の姿はそこにはなかった。
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