淡い恋心は満月に照らされて

かきつばた

月がきれいですね

「もうっ、先輩のせいですよ!」


 サークル棟を出る頃には、辺りはすっかり真っ暗になっていた。現在時刻は二十一時を回った辺り。そろそろ退館時間が気になり始める時間帯だ。つい作業に没頭し過ぎた。


 やってきたのは、まだ夕方にもなる前だった。思えばずいぶん長いしたものだと、隣の後輩ほどではないが渋い顔になってしまう。


「はあ。サークル長なんか、呆れてさっさと帰っちゃうし」

「そんな文句があるんだったら、お前も先帰ればよかったじゃないか」


 駐輪場に止めた自転車を探しながら、声を荒げて反論する。この女、部屋を出てからもずっとこんな調子だった。


「大事な部分、あたしの手を借りといて、よくそんなこと言えますね。恩知らず、という言葉を差し上げます」


 とげとげしいその声に反論する気は起きなくて、代わりに一つため息。そして暗がりの中を自分の自転車を求めて彷徨い歩く。こう無数に、そして乱雑に並んでいる中から目当ての一つを探し出すのは、はっきり言って苦手だ。


 ようやく目的物を発見して、それを手で押しながら後輩のもとへ戻る。彼女は未知の反対側で、退屈そうにスマホを弄っていた。彼女が大学に来る時、徒歩だというのは、この春の新歓で知った事実だ。


「相変わらず遅いですねー」

「うるせーな。そもそも待ってくれとも言ってない」

「素直じゃない人はモテませんよ?」


 失礼すぎるその一言に、俺は鼻を鳴らして応じた。


 そのままゆっくりと歩き出す。うちの大学は無駄に広い。南北にも東西にも長く、サークル棟近くの出入り口は後輩の家とは反対側。そのため、それなりの距離を歩くことになる。にもかかわらず、この女は決して自転車を使おうとしないのだから、見上げた根性だと言わざるを得ない。


 広い道を行く人の数は疎ら。この時間になると、閉館時間ギリギリまで残るサークルや部活の方が多いので、意外と道は空いている。そのことを知っていたから、まだ残っている作業を切り上げた。


「見てください、先輩! 月です、月!」

「そりゃ今日は晴れてるし、月が出ててもおかしくないだろ」

「風情がないですねぇ。そんなんじゃ、平安時代を生き抜けませんよ?」

「今から千年ほど前のことを言われてもなぁ」


 うんざりしながらも、俺もまた夜空に視線を移した。雲一つない空に、白っぽい月が明るく輝いている。辺りには街灯が少なく、鬱蒼とした林が広がっている。そういう環境が、その天体の持つ本来の輝きを強調しているのかもしれない。


「きれいな満月……! なんていうんでしたっけ、こういうの」

「満月は満月だろ、馬鹿か?」

「その言葉、そっくりそのままお返ししますから。そうじゃなくて、ほら他の言い方というか、表現というか」

「スーパームーン?」

「あれって、めっちゃでっかく見えるやつでしょ」


 確かにそうだ。そして今夜の月は、お世辞にも大きいとは言えない。むしろ、いつもより小さく見えるというか……いや、そもそも月の適正サイズ自体知らないことに気が付いた。


「ああ、思い出した中秋の名月だ!」


 黙っていると、後輩がいきなり大声を出した。その声量に、前を歩いていた集団の一部がこちらを振り返った。


「いつも思うんだが、それって普通の満月とはどう違うんだ?」

「さあ? あたし別に、中秋の名月専門家ではないですし」


 果たしてそんな専門家など存在するのだろうか……。なんとも言えない気分になりながら、俺はスマホを開いた。そして検索バーに『中秋の名月』と打ちこんでいくが――


「あっ! すぐそうやって調べる。現代人の悪い癖ですよ、それ」

 言いながら、彼女は俺の腕を強く引っ張てくる。

「お前も同世代だろうが……」


 こうなってくるとそのまま調べるのを続行する気にはなれず。俺は釈然としないままに、スマホをポケットにしまい込んだ。きっと帰った頃には何を検索しようとしたか忘れてるだろう。これもまた、現代人が抱える闇だな。


「とにかく、あの満月は特別ってことで。ってなわけで~」


 突然走り出す後輩女子。呆気に取られて俺は足を止めた。

 

「お月見しましょう! お月見!」


 くるりと身を翻した彼女の顔には、満面の笑みが宿っていた。





「ストップ!」


 後輩の声で立ち止まる。そこはだだっ広い草地だった。


「ね、意外と真っ暗でしょ、ここ。この間、バイトの帰り道に見つけたんです」

「お前な、あんまり遅い時間に出歩くのもどうかと思うぞ」

「あら、心配してくれてるんだ、先輩」

「俺はこの街の治安を案じているんだ」

「なにそれ、意味わかんない」


 けらけらと笑いながら、彼女は近くにそっと腰を下ろした。

 俺も自転車の籠から荷物を取り出して、その横に座る。地面は少しだけ湿っていた。でも彼女にそんなことを気にした様子はなく、足を延ばして楽しそうに夜空を見上げている。


  大学構内の道とは違って、ここには灯りの類は全くなかった。それに道路からも離れた位置にある。夜空に光る星々が本当によく見えた。そして、俺はこの時初めて、月明かりの真の明るさを知った気分になった。


「しっかし、全くもって風情のない二人乗りでしたね。ほら、夕焼けの河川敷のあれ、みたいなのを想像してたのに。爽やかな青春の一ページ、みたいな」

「二十を超えて、おっさんに片足をつっこんでる俺には、全く耳が痛い話だよ、そりゃ」

「確かに、途中で力尽きてましたもんね。ほんっと、情けない」

「道路交通法を順守しただけだ、あれは」

「はあ、言い訳がましい~」


 うんざりした様に吐き捨てると、彼女はスーパーの袋を漁り始めた。ここに来る前に、飲み物と軽食を買った……俺の金で。


「でもどうしてお月見にはお団子なんですかね」

「形が似てるから、とか」


 気になってスマホを取り出したら、隣から手が伸びてきた。彼女の腕は俺の手元から、便利な電子機器を取り上げた。そしてそのままそれをビニール袋の中へと放り込む。


「調べるのは、禁止ですよ? 大事なのは、正誤じゃないですから」


 彼女にしては珍しく囁くような言い方だったので、俺はついどきりとさせられてしまった。気恥ずかしくて、逃げるようにして空を見上げる。


 しかし、俺はなんでこうして月を見上げているのだろうか。仲のいい後輩女子に、月見に誘われたから。断らなかったのは別に帰ってからやるべきこともなかったから。


 ただ、それだけじゃなくて――


 ちらりと横目で、彼女の姿を確認した。袋から取り出した団子はどこへやら。両手を地面につけて、その首はしっかりと空に向かって固定されている。


 この状況を意識するな、というのが無理な話。人気の少ない空間、暗闇が広がる夜、この静寂がただひたすらに息苦しくなってくる。


 彼女は一年生で、俺は四年生。付き合いは短いけれど、なぜだか不思議とウマがあった。こうして遅くまでサークルの用事で一緒に残ることも珍しくない。


 脳裏に、かの有名な文豪のエピソードがよぎった。

 

「……月がきれいですね」

「はい?」


 ぽつりと漏らした一言はしっかりと彼女の耳にも届いていたようだ。そんなつもりは毛頭なかったので、一気に恥ずかしくなる。顔から火が出るんじゃないかと思える程、体温が急激に上がったのがわかった。


 沈黙が実際にはどれくらいの長さだったのかはわからない。でも、俺にはそれが永遠のように思えた。彼女のことを直視できない。一刻も早くこの場から逃げ出したい。


「なに当たり前のことを言ってるんです? 文学部なんだから、もっと表現に工夫を凝らしてくださいよ~」

「うるせーな。第一俺は、心理――」

「学専攻ですよね。わかってますってば」


 あはは、と一際大きな笑い声が闇の中に響いてた。同時に、俺の心も落ちつきを取り戻す。


 余計な心配だった。普通に考えて、この状況であの言葉は額面通り以外の意味は持たない。


 というか、客観的に見ればさっきの自分は相当気持ち悪いではないか。平静になっていくにつれて、今度は自己嫌悪を気持ちがやってきた。


 雰囲気に酔うとはまさにこのこと。たまたま気になる女の子と共に月見をしているからとはいえ、今のは無い。無いわ。ほんと自分が恥ずかしい。


 散々、心の中で自虐を繰り返した末、ようやく俺は視線を地上に移した。彼女の顔はいつの間にか下を向いて、その手元は不自然に明るく光ってる。


「……先輩、さっきのって『あいらぶゆー』ってことでいいんです?」


 静けさの中、いきなりもたらされた爆弾発言は、俺の心拍数を撥ね上げるのに十分だった。


 何か言わなければ、思いだけが先行するだけで、口は全く動いてくれない。第一、思考すらうまく紡げない。


「あれ、違いました? てっきり、夏目漱石大先生を踏まえての発言かと」

 なおも追撃。ふふ、という揶揄うような笑いのおまけつきで。

「それで先輩、あれはどういう意味だったんです?」


 後輩はぐっと身体を近づけてきた。そして覗き込むようにして俺の顔を見てくる。

 だが、それに動揺する俺ではない。恥ずかしさのピークはとうに過ぎた。この程度……いや、やっぱ無理だわ。


「考え過ぎだ。第一、こんな自己陶酔に満ちた告白の仕方があるか?」

 彼女から離れてぶっきらぼうに答えた。

「先輩のキャラではないですね」


 しかし、なおも後輩は俺のことを見つめてくる。なんとなく目を逸らしたらいけない気がして、俺もそのまま見つめ返した。


 空白の時間が続く。虫の音、風が草木を揺らす音、自分の心臓の音、誰かの少し浅い息遣い……普段は意識しない音が、今ははっきりと聞こえてくる。


 言うべきことはいくらでもあった。なんならさっきの失敗すら挽回できるだろう。しかし、やっぱり俺にはそんな勇気は持てなくて――


「いいのか、月見」

 結局根負けしたのは自分だった。

「……ヘタレ」


 ぼそりといった後輩の一言はよく俺の胸に刺さった。


「まあいいですけど。あたしはどれだけ誰かに想いを寄せられても、月に逃げたりはしませんから」

「かぐや姫か……そしてその表現はちょっと語弊があるが」

「えっ!? あれって、マリッジブルーの女の話じゃないんですか?」

「なかなか斬新な解釈だな、それは」

「先輩に褒められちゃいました~」


 嬉しそうに団子を頬張る後輩。その姿を見ていると、自然と頬が緩む。それを悟られまいとして、再び俺も月を眺めることに。


 訪れた沈黙は決して息苦しいものではなかった。むしろ心地がいい。それは奇しくも、さっきまでもサークル棟の中で過ごした時間と似ていた。


 俺が黙々と作業するそばに、こうして彼女がいて。時に軽口を叩き合って。ゆったりとした時間が、二人だけのあの部屋には流れていた。


「ねえ先輩、月がきれいですね」

「そうだな、月がきれいだな」


 月の明かりに照らされて、俺たちはどちらともなく笑い合うのだった――

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