my last breath

loud

第1部

憂鬱から変わる世界

第1話 人嫌い、最初の一歩


 四角い空しか多分記憶にない。


 大自然なんてそんなものはテレビの旅番組やらで見かける程度で、自分には馴染みのない光景。

 深呼吸をすると、自然の欠片もない汚染されたこの街の空気が鼻から入り、気分が悪くなる。見知った街並みと誰のものでもない道路を近所の子供達が無邪気に己の横を走り抜けていった。ため息混じりに乾いたガムの張り付いたアスファルトへと視線を落とし、足を止める。つま先の汚れた学生靴を死んだ魚のような瞳が無心に見つめた。


「……なんか疲れた……」


 遠くから聞こえる子供の笑い声。

 手にしている鞄を面倒くさそうに持ち直して松崎サトルは家路へと重い足取りで向かった。


 春薫る桜の季節。

 憂鬱な中学校生活は終わった。

 中学時代。

 サトルは陸上部へ入部。特別良い成績を残したわけでもなく、ただひたすらトラックを走った。部活動は厳しいわけでもなく、周囲には怠い空気が立ちこめていた気がする。その空気に背を向けてただただ、ひたすらトラックを走って、走って、走って。

 ただそれだけの部活動だった。

 それも三年の秋には終了。受験のシーズンに入り、周囲は一気に慌ただしくなったように感じたが、自分は楽に合格のできるラインの高校を選んだので特別受験のための勉強をする必要もなかった。ようやく迎えた卒業式に感動することもなく、足早に三年間通った母校に背を向けて去る。サトルにとって、つまらない長時間のHRを終えたようにしか思えなかった。

 部屋の中はいつの季節も埃をかぶったパソコン、オーディオ、本棚、散乱した勉強机。これもいつもと同じ光景。サトルはベッドに横たわった体勢のまま、4月に入学する橘高等学校の制服へと目を向けた。

「……眠い」

 髪をグシャグシャにしながらサトルは見慣れた天井を呆然と見つめた。

 この日常に終わりなどない。

 これからも繰り返される膨大な日常。

 これから始まる高校生という時間。

 気分はいつもと変わらず憂鬱。

 溜息だけが充満した。






 サトルの通うことになった学校は都心の外れ。

 自分が住んでいた場所からJRで約一時間の場所。周辺は緑も多く、駅構内も人が疎らなようだ。そこから歩いて20分。賑やかな商店街を抜け、舗装整備された道を直進。道路脇には整備され、黄色い花をつけた植物が均一に並んで咲く。

 白く高い外壁、三階建ての校舎を囲むように桜が咲き乱れていた。


 橘高等学校。


 サトルは額の汗を腕で拭いながら手に持った紙切れを見つめて足を止めた。

「ここが校舎だから、寮はこの周辺か?」

 これから自分が通うことになる、まだ見慣れない校舎を横目にサトルはまた歩き出した。


 この春からは全寮制。橘高等学校は昔からの男子高。

 これからの生活の想像がつかないが、異性がいない分、少し気が楽なような気もした。だからといって同性が楽なわけでもない。――人間が嫌い。

 そう思う自分に浅く息をする。


 校舎の周りをぐるりと歩き、寮らしきものが見当たらずまた元の道へと戻る。

「先生とか、学校にいんのかな」

 人気のない校舎を見上げ校門前の広く舗装された道で、サトルは息を吐いた。

「先生ならいねえぞ。迷ってるなら俺が案内してやる。一年だろ?」

 斜め後ろから声がしてサトルは目を見開いたまま振り返るとそこにはTシャツにジーンズ姿の男が経っていた。男の表情は笑顔。人懐っこいというより、どこか嫌味のあるような笑顔。サトルは、はぁ、と愛想のない返事をした後軽く頭を下げた。

「もう荷物とかは寮に送ってんのか?」

「はい、先日」

「ふぅん」

 自分の先を歩き始めたその男から風に乗って香水の匂いがした。襟足まで長い黒髪。結構な身長。多分先輩だろう、とサトルは思った。

 黒髪の男に付いて歩く事数分の所に寮はあった。

「ほら、ここだ」

 門には『橘第一寮』と記されている。見た目は新しい三階建ての建物だった。紙に書かれていた住所だ。目的地に到着してサトルは黒髪の男へと頭を下げた。

「ありがとうございました。助かりました」

 人がお礼を伝えている最中だと言うのに黒髪の男は玄関で靴を脱ぎ始め、サトルはきょとんとした顔でその様を見つめた。男はまた嫌味のような笑みを浮かべる。

「いやいや俺も一年生だから」

「……あ、そうなんだ。先輩かと思った。ごめん」

 勝手な自分の思い込みにサトルは気恥ずかしさを感じつつ再度頭を下げる。

「まぁいいって。で?部屋何号室よ」

「……202号室」

「マジ?」

 そう言うと男はまた笑みを浮かべて玄関前の階段を登り出した。

「来いよ、202号室は二階」

「……あ、あぁ」

 サトルはようやく玄関から入って急いで指定された下駄箱へと靴を放ると男の後を追いかける。寮内は白で統一されており、階段を登ると続く廊下が両側に長く伸びていた。しんと静まり返っている廊下に差し込む光は柔らかく、真新しい建物の匂いが鼻先をかすめた。

「おーい、こっちだ」

 階段を上がって左、声のする方へと顔を向けると黒髪の男が立って自分へと手招きしているのが見えた。その方向へ歩いていく途中いくつかの部屋から人の話し声が漏れて聞こえた。

 どうやら防音ではないらしい。

 男へと近づいていくと202号の文字が目に見えた。端から二番目の部屋のようだ。サトルはドアの手前まで行くと男から少し離れて立ち止まり軽く頭を下げた。

「部屋まで教えてくれて助かったよ。ありがとう」

「いいや」

 男はドアへと背をもたれたままサトルを見てニヤニヤと笑みを浮かべている。不審に思ったサトルは眉をぴくりと動かすも目の前の男の態度に圧された。

「……えっと、ここが俺の部屋なんだよな?」

「そ」

「中に入りたいんだけど、構わないか?」

「ど~ぞ」

 そう言うと男はドアノブへと手をかけ、回す。

 開かれたドアの向こうにダンボールが積まれていのが見えた。確かに自分の送ったもののようだ。確認すると同時に男は当たり前のように中へと入って来た。先に人の部屋へと勝手に入る黒髪の男の行動にサトルは瞬時気分を害したが軽く息を吐いて、それから後に続いて入室した。

 決して広くはない長方形の白い部屋には薄い緑色のカーテンが開けられた窓から吹く風に靡く。右端に二段ベッド、正面と左壁側にはそれぞれ勉強机、そして中央に丸いテーブルが備えられておりサトルは周囲をゆっくりと目で追って確かめた。

「中々いい部屋だろ」

 男がのん気な声を上げながら二段ベッドの下へと入り込んだ。

「おい、ちょ……」

 男のあんまりな態度にサトルを顔を顰め、深くため息をつきながら置かれた丸テーブルの横に座り込んだ。初対面でも失礼な奴はいるもの、と仕方なくサトルが頭の中で納得しているとベッドに横になっていた男がサトルへと手を差し出した。

「俺は神崎シノブ、よろしくな。多分クラスも一緒だと思うぜ」

「……松崎サトル。よろしく」

 クラスもってなんだと思いながら差し出された手に渋々握手する。

 こんな奴とクラスが一緒。

 はっきり言って疲れそうだとサトルは内心穏やかではなかったが、ふと気付いてシノブへと顔を向けた。

「あ、じゃあ……」

「そ。俺がマツのクラスメイトでルームメイトだから。うわ~こいつ最悪な奴だなぁって思っただろ?」

「……まぁ少しは」

「だと思った」

 シノブはそう言うとまた嫌な笑みで笑って見せた。





 入学式前日になると寮内は沢山の人で騒がしくなり、廊下にはダンボールの山がたくさんできた。サトルは人ごみとダンボールを避けながら廊下を進み、自分の部屋のドアを二回叩く。すぐに中からシノブがドアを開け、ニィとまた例の笑みを浮かべた。

「悪い悪い、自動販売機どこにあった?」

「一階奥の食堂の先。食堂のおばちゃんに聞いて行ってきた」

 手にしていた缶ジュースをシノブに渡して部屋へと入る。シノブの使用している勉強机の上は教科書類で溢れかえっており、その周囲も散らかったままだった。

「片付けでもしてんの?」

 缶の封を開けながらサトルがシノブに聞くといつもより覇気がない様子のシノブが缶へと口を付けたまま首を振った。そのまま一息に半分以上飲み干すとシノブは深く息を吐いて机へと目をやる。

「あー……なんつうか宿題?みたいな。用意しなきゃなんだけどなんか気が散ってな」

「宿題?」

「……俺、総代なんだよ。だから明日全校生徒の前で喋んなきゃなんねえの」

「は!?」

 総代?神崎が?

 サトルは驚いたと同時に疑いの眼差しでシノブを見つめた。その目に気付いたシノブは少し顔を赤くして、

「言っとくけどこれマジな話だからな!嘘じゃねえよ!」

「ムキになんなよ、別に嘘だなんて言ってない」

「嘘つき見るような目だったぞ?今のお前の目!」

「じゃあ神崎も笑い方直した方がいいと思うよ」

「は?え?なんの話?」

「お前の笑顔ってさ、……嫌味臭いんだよね。なんつうか」

「……嫌味?いつだよ」

「いつも、だな」

 そう言うとシノブは自分の寝場所である下ベッドへと転がり込んだ。その様子にサトルは少し笑った。

青色の枕に顔を埋めて動かないシノブは、そのままじっと動かずにサトルへと背を向けていたが一息おいてから顔だけ都合悪そうにサトルへと向ける。

 サトルはそれに少し笑って見せる。

「怒るなよ」

「笑うな」

「笑ってない、神崎が怒ってるだけだろ」

「お前が笑うから怒ってるだけだ」

 初めて会った時とは違ったシノブの一面を知って、サトルは少し気が楽になった気がした。

「神崎ってすごく大人っぽく見えてたけどさ」

「なんだよ」

「あ、まあいいや。言ったら怒るだろうから」

「子供じゃねえんだから怒らねえよ!」

 顔を赤く染めて荒れるシノブの様にサトルはまた笑った。

 子供っぽいところもあるんだな、なんて絶対怒る。

 時間は午後六時。そろそろ夕食の時間だ。廊下からも人の声が聞こえてくる。サトルはベッドへと横たわったまま拗ねるシノブの肩を叩いた。

「飯食いに行こう。遅くなると良いのが無くなる」

 子供をあやす様な気持ちでサトルはまた笑った。


 廊下からは騒々しい足音が絶えず聞こえる。

 明日は入学式。

 高校生活が、本格的に始まる。






 鍵付きの下駄箱に自分の外靴を入れて準備してきた真新しい内靴へと履き替える。生徒玄関の床は紺色の絨毯が敷き詰められており、顔を上げると高さのある天井から天窓を通して光が通路を照らす。周囲からは自分と同じ真新しい制服を着た生徒たちが次々と玄関に入ってくる。サトルは少々戸惑いながらも未だ自分の後ろで靴を履き替えているシノブへと声をかけた。

「神崎、クラス1―Aでいいんだよな?」

「あー」

 明らかな生返事。環境の変化はあまり得意ではないサトルは顔を歪めた。見慣れない校舎、空気、人、人、人。どうも馴染めない。それに比べてシノブは長めの前髪を後ろへと指で梳き大きな欠伸をひとつした。

「なんだ、眠いのか」

「悪いかよ、文章作るのに俺は徹夜したんだぞ、て・つ・や。後から職員室に行って先生とチェックもしなきゃいけねえ。今日は忙しいな」

 ごしごしと乱暴に目を擦りながらシノブは居心地の悪そうなサトルの様子にも目もくれず人ごみに紛れて歩き出す。

「お、あった」

 シノブの声と同時にサトルは顔を上げる。

 教室の表記には1―Aと黒字で書かれていた。

 開けられているドアの向こうにはもう結構な人数の生徒が、教室の中にいるのが見えた。談笑している者。ただ座っている者。中学からの友人なのか、窓際に立ちながら笑って話をしている者。

 サトルはその光景に腹痛を感じた。

 ――こういう空間は本当に好きじゃない。

 先に教室に入ったシノブの後に続いてサトルも教室内へと入る。教卓の前まで行き、黒板に書かれた自分の席番号を探した。

「俺、ここだ。ウゲー……前から二番目かよ。最悪だな」

 神崎が隣で顔を顰めて言った。

「集中できるじゃん、授業に」

「うるせえな、マツは?」

 どうやら俺のことはもうこれからマツって呼ぶんだろうな、と思いながらサトルは自分の席を黒板上に見つけた。

「俺は窓側から二列目、前から四番目」

「四番?いいなぁ~……名簿順だから始めは仕方ねえだろうけど……え?マジ?嘘!?」

 シノブは黒板を見つめたまま急に声を張り上げた。

 サトルはきょとんとしたまま教室内を見渡し始めるシノブを見つめた。

「神崎?」

「俺の席の前に奥崎大和って書いてるだろ!俺と同じ中学の不良!マジ?A組って頭良い組じゃねえの?」

「不良……で頭良かったとか?」

「はぁ?それはありえねえだろ!態度が悪い奴は頭も悪いだろうが」

「……まぁ、そうなのかな」

 シノブの勝手な理論にサトルは少し呆れた口調で答えたが当の本人は件の奥崎を探すのに必死のようだ。

「いた!!」

 シノブの指差した方向を見ると、偶然にもサトルが座るはずの席に体格のでかい男がひとり、机に顔を付けてどうやら寝ている様子だった。

「……マジかよ」

 サトルは不快な顔を浮かべて自分の席で寝ている不良の姿にため息を付いた。ふと、教室内を見るとさっきまで話をしていた生徒や他の生徒も同様、奥崎の所へ歩いていくシノブのことを目で追っていた。


 ああ、目立つんだな。


 サトルはそう思った。

 身長も人より少し高くて、なによりシノブは顔立ちが整っている。少し崩して着ている制服も様になっていて、髪形も黒髪ではあるが真面目には見えない。かっこいい、という言葉が似合う男なんだろうな、とサトルは納得した。

「それで総代なわけだもんなぁ……」

 サトルは少しだけ、シノブに感心しながら後ろを歩いた。

「おい!奥崎、起きろ。もう中学生じゃねえんだ。朝はぎっちり目ぇ開けろ!」

 シノブの声が少し静かになった教室に響き渡る。

 ――いやそいつ、不良だったんじゃねえの?

 サトルはシノブの言動に少し不安になったが、寝ていた奥崎と呼ばれる男はゆっくりと上体を起こしてダルそうにシノブを見つめたまま。

「……あぁ、なんだ神崎か」

 短髪に耳には銀色のピアスが三つ並んで見えた。鋭い目つきに、何より体格が怒鳴っているシノブと全然違って見えた。

「なんだ神崎か、じゃねえよ。ここはこのマツの席なんだから早く立て。お前の席は俺の前!あの列の一番前だ」

「あぁ、知ってる」

 平然と奥崎が答える。低いトーンの声色がやけに恐ろしく感じた。

「一番前が嫌だからこっちに移った。今戻る」

 そう言うと奥崎は椅子から立ち上がった。

 でかいな、とサトルは緊張した面持ちで奥崎を見つめた。

「席、悪かったな」

 サトルへと軽く会釈して、それから奥崎は自分の席へと歩いていった。生徒たちも奥崎のでかさに圧倒されたのか呆然と見つめている者もいれば敢えて目を合わさないように背ける者もいた。

「ごめんな、マツ。嫌な奴じゃねえんだけどな」

「気にしてないから大丈夫」

 ――全然、気にする。ああいう存在は。

 と思いつつ、サトルは心にもない言葉で誤魔化した。

 奥崎と呼ばれた男は一番前の自分の席の椅子を引くとまた先程と同じ体勢で体を机へと沈めた。背中を見てもやはりでかい。短髪の髪が教室に入る日の光を受けて茶色く映る。自分が進んだ高校はそれなりとはいえ、進学校のはずだったと思うが。

 そんな中で奥崎のピアスは異彩を放って見えた。





 1限目。


 教室にて10分程度の入学式の説明。それから廊下へと移動して名簿順に並んだ。自分の後ろと前の同級生は真面目そうで、サトルはホッとした。


 それから鐘が鳴って、手順通り、入学式が始まる。


 親や先輩が両側に座る中、用意された椅子に座って。奥崎へ軽く注意をした周囲を歩く教員の一人がサトルの目にはビビっているように見えて滑稽で。

 着席すると校長の長い話がスタート。

 それが終わると、総代であるシノブの名が呼ばれた。シノブは緊張しているようには見えず、凜とした出で立ちの優等生のようにサトルには見えた。昨日徹夜で作った総代の言葉を堂々と一字一句間違えずに読み、深い礼をして終わり。


 それから。


 それから。


「むかつくんだよ!!あの新入生代表!!!」

「?どうしたんだよ」

 寮の部屋に戻るなりシノブはまだ真新しい制服姿のまま自分の枕を壁に叩きつけた。眉間には深い皺を寄せて息も荒く、何度も舌打ちの音が部屋に響く。

「新入生代表……?あぁ、あの顔が綺麗だった生徒のこと?」

「あんな女男!!ムカつくわ!」

「女男って……神崎より身長高いと思ったけど」

「あーあーうるせえうるせえ」

 シノブはサトルの声を遮って大声を出しながら不貞腐れた顔で制服を脱ぎ捨て下は濃い目のジーンズ、上は白のロングTシャツに着替えた。やれやれと思いながらサトルは小さくため息を付いて持っていたガムをシノブへと差し出した。

「本当にどうしたんだよ。なんか言われたのか?」

「……言いたくねぇ」

「言いたくないこと、か」

 シノブは渋々とガムを受け取り、少し考えてからサトルへと顔を向ける。

「なぁ」

「何?」

「俺を動物に例えてみろ」

「……動物?」

「まだ会って間もないからなぁ……なんて言われたの?」

「いいから!パッと!パッと見でいいんだよ!」

「パッと見で?」

 何に似ていると言われると結構困るものでサトルは首筋を掻きながら何度か首を傾げた。シノブは黙っていれば犬系な顔だとも思うのだがじっと見つめていると魚のようにも鳥や爬虫類系にも見えてくる。ブタやカバだときっとものすごく怒るからその答えは始めから排除したのだが、徐々サトルにはシノブが小猿のように見えてきた。

「……おい、早く言えよ」

「わかったよ、じゃ小猿」

 別に腹の底からシノブが小猿に似ているとは思わないが、最終的に行き着いたのが小猿だったのでそう返答するとシノブはショックを受けたかのように大きな瞳を一層大きくした。

「マジで!?」

「……うん、まぁ」

「マジかよ~……」

 頭を抱えて今度はシノブは悶々とし出したようで、サトルは聞こえないように小さく息を吐いた。

「……すごくって訳じゃないから」

「いや……いいんだ。いい……」

 そんなにすぐにそこまで落ち込めるもんなのかとサトルは少しシノブを面倒臭くも思ったが、ここで面倒くさいからといって構わないとこの先に支障が出かねないなとサトルは思った。

「じゃあ、あの新入生……上月だったっけ?あいつにもそう言われたのか?」

「ううん、ゴリラ」


 ゴリラ!


 余りにも予想外の返答に、どうすればシノブがそう見えるのかとサトルは急に困惑した。

「いや、絶対ゴリラには見えない、安心しろって。小猿の方がいいじゃん、可愛いし」

「でも猿は猿だろうが!しかもゴリラっておま……」

 それ以上言葉を続かずまたシノブは沈み出した。

「……単なるイジメじゃねえの?」

「バカ言うな!俺はな!小学中学と成績優秀で女にもモテてイジメとはご縁がないんだ!そういう人生を送ってきたんだ!」

「……そうですか」

 サトルは落ち込んだりそうかと思えば急に怒り出すシノブの様子が段々と可笑しくなってきた。気を遣ってかけた言葉は簡単に掃き捨てられてしかもバカまで言ってくる。

「神崎さ」 

「なんだよ」

「面倒くせえってよく言われない?」

「言われねえよ!!しかも笑うな!」

「ごめん」

 込み上げてくる笑いを抑えるためにサトルは顔をシノブから背けてドアへと歩き出した。

「おい、どっか行くのか?」

 ――頼むから今は声出さないでくれ

 サトルは顔を背を向けたまま何度も頷き「ちょっと自販」と震えそうな声で答えるとすぐさま部屋を出た。

 面白い奴だなぁ、とサトルは思った。


 二階から一階へと階段を降りると正面玄関。そこから左へと曲がると何室か部屋の前廊下を歩き渡り廊下を進んですぐが食堂室。その食堂室の向かいが団欒室。団欒室は夜12時まで使用可能でそこは結構な広さで大きなテレビと本棚、新聞、テーブル、ソファが数組ずつ設置されている。食堂室、団欒室前廊下を歩いてすぐ、行き止まり手前少し曲がった所に自販機コーナーがある。日が落ちてきたせいか自販機コーナーの照明がやけに眩しく見えた。小銭を入れて缶コーヒーを2本。ひとつは神崎の、機嫌取りが必要だと感じたので。自販機から落とされた缶コーヒーを取り出すためにしゃがんで手を突っ込んでいるとパタパタと誰かが近づいてくる音が聞こえてきた。

 取り出して立ち上がったと同時に近づいてきた足音の主が自販機コーナーへと走って曲がってきた。

「あ!すんませんっ!」

 サトルは一瞬目を疑った。

 謝罪された声は確かに男の声。

 なのに。


 サトルはぶつかりそうになったその男を思わず凝視した。絶対に160cmはない。あっても155cmだろう。小柄な体型に脱色した傷んだ髪。長い前髪に長い睫毛。堀の深い二重。わざと破いたようなTシャツは安全ピンであちこち留めている。そういうデザインの服なのだろう。

 正直、女子。に、見える。本物の小猿に出会ってしまった、サトルはそう思った。

「あ、あんた松崎サトル君だろ?」

「えっ!あ、あぁ」

 小猿の気さくな言葉にサトルはすぐさま都合悪そうに顔を背けた。

「俺ね同じクラスの佐田。佐田マコト」

「あぁそっか。同じクラスなんだな、よろしく」

「はは、仲良くしてくれな~」

 サトルへと握手を求めてきたその手は身長の割には大きかった。

「手、でかいんだな」

「あぁよく言われる。お前って身長の割りに手は普通だなって。まぁギター少年だから、俺」

 マコトはそう言うと笑って見せた。つられて、というより合わせてサトルも笑って見せる。マコト自身、チビだという自覚がある人間のようだとサトルは少し安心した。

「佐田は身長どれくらい?」

「マコトでいいよ。んと去年で154.5位だったから多分今158くらいじゃね?」

「そっか」――多分、そんなにないだろ

 笑顔を作ってサトルはそうなんだ、と頷いた。

「マッちゃん背高いよな」

 マッちゃん、マツの次は今度はマッちゃんかと思いつつも少し首を傾げて「そうでもない、普通じゃねえかな?俺って結構なんでも普通だから」と答えた。

「そっか。でも俺のことチビじゃなくてちゃんとマコトって呼んでくれよ」

「わかったよ」

「絶対な」

 そう言うとマコトは笑って手を振りながら細い片腕に新製品の缶ジュースを数缶抱えながら去っていった。

「ギター少年小猿……いやいや佐田マコト、ね」

 名前を覚えるために復唱するも次会った時にギター少年小猿と呼ぶわけにはいかない、とサトルはゆっくり自室へと歩き出す。マコトの去った後を歩く廊下には微かにまた、シノブと違った甘い香水の香りがした。

 部屋に戻ってみるとシノブはベッドに入ったまま不貞寝をしていた。なにも言わず缶コーヒーに黒マジックペンで『神崎』とだけ書いておいて、サトルはベッドへと背を向けて設置されている机に向かって新しく渡された教科書へと目を通した。


 憂鬱な日常に辟易していた日々より、今はまだちゃんと笑えている。

 出会う人とも会話もできている。

 教室の環境に慣れてしまえばどうってことのない平穏な日々を送れるかもしれない。

 人と関わるのも最低限で構わない。

 問題があるような輩とは絡まずやっていければ大丈夫かもしれない。

 環境ごと変化した今の現状に文句は、ない。


「飯に行かねぇ?」

 後方から突如耳に届いたシノブの声にサトルは教科書から目を離した。いつの間にか起きたシノブの手には缶コーヒーが握られていて。サンキュと屈託ない、少し嫌味の入った笑みを浮かべて礼を言われた。






 食堂の今日のメニューは照り焼きハンバーグ定食。シノブは和風ハンバーグの方が好きだと言いながら全てを平らげていた。

 食べ終わったら所定の場所へ戻す、此処のルール。

「神崎」

「お、オック」

 夕食を済ませ食堂から出ようとしていたサトルたち二人に向かいの団欒室から奥崎が話しかけてきた。黒のジャージに身を包んで耳のピアスが学校で見た時よりも増えていた。まるでヤクザの如き風貌にサトルは引いたが、それにも自然に関わっていくシノブが内心すごいと思った。

「なんだよ、勉強なら授業料取るぜ?」

「はぁ、そんなくだらねえことじゃねえよ。これ、買えよ」

 何かが奥崎の手からシノブへと手渡される。紙のような何か。

「別にヤバいモンじゃねえから安心しろよ」

 急に奥崎がサトルへと話しかけてきた。サトルは一瞬で全身に汗をかいて首を横へと振った。

「いや……別にそういう風に思ってないから」

「そうかよ」

 奥崎の返答にサトルは困惑した。どんな意味の『そうかよ』なのか、分からない。緊張する。平然と奥崎と話しているシノブの背中をただ見つめた。

「チケットねぇ……お前ホントバンドバカだな、オック。そのためにこの学校に入ったのか?」

「まぁ、だいたい当たりだ」

「……ふぅん、暇ができたら行ってやるよ。そん時でいいだろ?金」

「別に今でも構わねえよ」

「いや、どうなるか分かんねえし後払いにする。俺は学業に忙しいからな」

「そうかよ、相変わらずそっちは勉強バカだな」

 奥崎へ手を上げて先に引き上げるシノブ。サトルはその後を追うように付いて行った。サトルが振り返った時には奥崎はもうテレビへと視線を逸らしていた。


 苦手、としか思えない。

 サトルは何か失敗したような気分になった。






 入学式が終わってすぐ、高校生活始めに組まれていた行事は『レクリエーション』。まず午前中はこれで潰れ、午後はクラスで長いHRを迎える。それが今日の予定だ。渡されたプリントにはそれが更に三日続く事を示すスケジュールが事細かに記されており、サトルはそれを四つ折にしてジャージのポケットへとしまった。

 正直言って、面倒くさい学校だなと思った。

 交流を深めるのがそんなに大事なことかとため息混じりに思うも同室のシノブは朝から気合の入った様子でサトルを待っていた。

「マツ、今日はレクリエーションとは名ばかりの初クラス対抗球技大会みたいなもんだ。組まれているスポーツは三つ、サッカー、バスケ、バレー……もちろんバスケに参加するよな?」

「参加するよなって……まぁいいよ。バスケで」

「マツーお前朝弱いのか?元気ねえな!今日はつまらねえ授業があるわけでもない。うちのクラスの凄さを周囲に見せ付けることができる絶好のチャンスだっつうのに」

「……わかったよ」

 今日は朝からシノブは絶好調みたいだな、とサトルは少し安心した。落ち込まれて宥める方が厄介だと昨日学んだばかり。今日はずっとそのままでいてくれ、と心を込めてシノブへと微笑んだ。


 廊下に出ると部屋から丁度生徒たちが学校併設の体育館へと向かっている様子だった。ガヤガヤと五月蝿い中、こちらへと歩いてくる男にサトルはすぐ目を逸らした。

「よぅ、オック。今日は真面目にスポーツしろよ。じゃねえと怒鳴り散らすからな」

「……あぁ。まあ、ぼちぼち頑張るようにはする」

 自然なシノブと奥崎の会話。サトルは気まずさを感じて口を開けなかった。チラ、と奥崎の目がサトルへと向けられる。

「おはよ、松崎」

「あ、……おはよう」

 自分の予想以上の声の小ささにサトルは焦った。緊張してるのか喉の奥が異様に乾いてるように感じた。明らかに奥崎を苦手扱いしてしまったとサトルは身動きさえ取れずにいた。が、奥崎は気にとめた様子もなく軽く手を上げるとその場から離れて体育館の方向へと歩いていった。

「さて、俺らも行くかね。マツ気合い入れろよ!」

「……あぁ」

 授業だったら楽だったのに。サトルは鬱々とした様子でシノブの後ろを付いて行く。

 空は曇り空。

 ため息は深さを増した。




体育館へと続く渡り廊下を歩いている途中、体育館側から大きな歓声が耳に付いた。

「……?なんだぁ?」

 間延びした声を出してシノブが少し入り口へと駆け寄る。両扉開かれた体育館は中学の体育館に比べたら広く、照明が白銀色に光った。体育館の隅には多くの生徒が壁に凭れて立っていたりしゃがんでいたり。

 だが、多数の生徒の中で一際目に入ったのはバスケのゴール下にいた男だった。身長もバカでかい、そんなことより多分目を惹いたのはモデル並に長い手足と、顔。一見、そこいらの女よりも顔が綺麗としかいいようがない。襟足につく位の黒髪さえ違って見えそうだ。

「うあっ!あいつ……」

 シノブが一歩退いて嫌悪するような瞳でその男を見つめた。

「あ……あぁあれか……」

 例の神崎をゴリラと称した、新入生代表上月ミナミ。

「見た感じ、人当たりは良さそうな感じだけどな……」

 そもそもゴリラなんて言葉を吐きそうもないミナミを見つめながらサトルは呟いた。それにすぐ反応してシノブは斜め後ろにいるサトルを軽く睨んだ。

「騙されるな。今にお前にも本性が分かる」

 自信満々に話すシノブにサトルは圧されてそうか、と意見を認めた。

「神崎のお守は大変だろ」

 急な奥崎の声にサトルはすぐに後ろを振り返った。

「お……奥崎さ……」

「?別に奥崎でいい。あー、あれが噂のうちの学年一良い男な」

 思わずさん付けで呼びそうになった言葉に奥崎が顔を歪めたのをサトルは見逃さなかった。

 体育館でバスケを披露しているミナミを遠目で見ながら奥崎がぼそりと意見を述べた。予想通りシノブは奥崎へと鼻で笑って見せ「全然男らしさを感じねえただ顔の良い奴だろ?あれって。きっと俺が総代だったから妬んでるんだぜ?良い男っつうのはもっと違うもんだ」と宣った。

「……はいはいそうですね」

 感情の起伏もない奥崎の返答。

 また出た理解不能なシノブ節にサトルはシノブの目を盗んで首を少し傾げた。ふと、顔を上げると自分へと目を向けている奥崎が軽く笑っているのを見て。


 何故かひどく安堵した。


 球技の説明と3つの競技へと生徒たちは別れて各々10分間練習時間を設けられ、サトルとシノブ、奥崎はもちろん強制的にバスケに参加することになり、サトルは何度かシュートを試みたが中々入らずそれを見てシノブはもっと腕を伸ばせ等と指導し始めていた。奥崎と言えばボールを軽々と片手で持ち上げて見せ豪快にダンクを一度決めてさっさと壁へと凭れて座る。周囲からは疎らに歓声と拍手が起きたが当の本人は気にせず寝ようとしていた。


 そんな中。


「やぁ!ゴリラ君」

 爽やかな声が体育館へと響いた。

 例のミナミがシノブへと微笑みながら再度またもゴリラと声をかけてきたのだった。シノブはもう頭にきたのか、ボールを脇に抱えたまま近づいてくるミナミを凝視しているようだった。

「ゴリラ君もバスケかい?あは、俺もバスケなんだ。対戦したらお手柔らかにお願いするね」

「……俺は手加減っつうのが大嫌いなんでね。……つうかなんで初対面でゴリラって言われなきゃならねえんだよ、俺が」

「まぁいいじゃない。ニックネームみたいなもんだよ。君を一目見た時にそう思ったんだ」

「一目見て?はは。一目見てそう思った?俺のどこがゴリラだよ!この女男!!」

 シノブは自分より少し背の高いミナミを思い切り睨んで声を張り上げ、練習していた周囲もじっとそれを凝視している。なのにミナミは動じることもなく変わらぬ笑顔でシノブを優しげに見つめたまま。

 サトルも周囲同様動けずにいた。

 犬猿の仲、とはこういう関係をいうものなんだろうか。

 そんなことを思っているとボールがバウンドする音が体育館の静寂を破った。

「わわっ!!」

 聞き覚えのある声にサトルは体育館舞台側へと顔を向ける。階段付近で慌てた声を出した人物、昨日自販機で合った小猿、マコトだった。どうやら舞台横に設置されている階段にボールを持って座っていたのにこんな静まり返った状態でボールを落としてしまったようで、みんなの視線がマコトへと一気に集中する。

「あ、あ……あ~すいません……続きどうぞ」

 顔を真っ赤にしたマコトは困ったように周囲に頭を何度も下げた。

「マコト!」

 サトルは声を張り上げてマコトのいる場所へと片手を軽く振りながら近付く。マコトは困惑した表情から近づいてくる相手に嬉しそうに笑う。

「あーマッちゃん!!おはよー」

「マコトもバスケ?じゃあ俺と一緒だな」

「うん」

 敢えて静寂を破った恥はなかった事の様に振る舞いマコトの横へと座った。遠くから未だ対峙している二人を見るとやはり目立つ。あの場所からここへと逃げて少し開放感を感じながらサトルは息を吐いた。

「……あの二人、なんか喧嘩でもしてんの?」

「いや……犬猿の仲って奴だろ、多分」

「どっちが猿でどっちが犬なんだろ……」

 マコトの疑問にサトルは少し眉を顰めた。それから色々考えて小声で「まぁ……神崎が猿……になるんじゃねえかな。ゴリラって呼ばれたくらいだし」というとマコトは零れそうな瞳を見開いた。

「へ?!ゴリラ?マジ?じゃあ、ナンちゃんが犬か」

 ナンちゃんって、上月ミナミの事なんだろう。

「そういうことになるんじゃねえかな……」

 サトルは話してから、少し複雑な心境に陥った。


 試合が始まってみればサトルは思いの外気持ちが高揚するのを感じた。奥崎は例のダンクで前半戦で活躍し、それをシノブがよくやったと誉めたり。マコトも背の割りに運動神経はいいらしく相手からボールを奪うのが何度も見られた。

「マツ!!」

 何故か自分へとボールをよく回してくるシノブの意気込みに呑まれたのか、いつの間にかサトルも真剣にバスケに集中した。おかげで一戦終わる度に足の筋肉は熱くなったが汗を掻くのが久しぶりだったからか別に嫌な気分にはならなかった。

「マ……マツ足速ぇな……」

 息が相当上がっているシノブは体育館の床に伸びながら話しかけて来た。他のクラスが試合をしている最中、サトル達は舞台上で座って休んだ。周囲は歓声と熱気に包まれてまさに球技大会。果たして当初の名目であるレクリエーションになっているのかは謎だったが、今となってみれば別に構わなかった。

「……あぁ、俺、陸上部だったからかな」

「あ、やっぱり?」

 ――やっぱりって。

 サトルはシノブの額に自分の濡らしてきたタオルを押し当てた。するとパタパタと足音が近づいてきた。

「マコト」

 こちらからだと首から上しか見えないマコトが笑いながら腕に抱えてきた缶ジュースを3缶、置いていった。

「飲んで。次俺らまた試合だろ?水分補給水分補給」

 そう言うとすぐにマコトはどこかへ走っていった。持ってきてくれたのは冷えたコーヒーと炭酸系、スポーツ飲料と様々。サトルは缶ジュースを引き寄せて奥崎へと顔を向けた。

「あの、奥、崎。何がいい?俺なんでもいいから」

「……そうだな、コーヒー、多分神崎が炭酸飲むだろうから」

 コーヒーを奥崎へと手渡すと奥崎は封を開け、すぐさま一缶飲み干した。

「……さっきのチビ名前なんて言うんだー……」

 寝そべった状態のシノブが声を出す。

「あぁ、俺らと同じクラスの……」

「佐田マコトだ。あいつの前でチビとか言うなよ。すげえキレるから」

 奥崎がサトルの言葉を遮ってマコトのことを話し出したことにサトルは面食らった。シノブはふぅん、と応え、ゆっくり目を閉じたまま黙った。

「奥崎、マコトのこと知ってんだ。もしかして同じ部屋?」

「いや、ライブハウスでたまに一緒になるからな。中学からの顔見知りだ」

「ライブ……」

「あぁ。俺、バンドやってんだ」

 少しだけ、でも話せたのは進歩だな。

 サトルは気持ちが楽になったような気がした。

 それでも名字を呼ぶのに、勇気が必要だ。

 名前を呼ぶ声が震えているように感じた。


 レクリエ-ションと称された球技大会の結果、サトルたちのクラスは総合準優勝を果たした。シノブは奥崎、サトルへ向かってなんで負けたのかと敗因や愚痴を教室に帰ってから熱く語った。何度も髪をいじるのはイライラした時のシノブの癖らしい。熱冷めることなく苛立っているシノブとは反対に奥崎は大きな欠伸をひとつ、サトルといえばまたシノブの機嫌の悪さに苦笑いを浮かべていた。

「クラス全員が一丸となってなかった証拠だろ?今回の球技大会。どう考えても俺のクラスが負けるわけがねえ」

 眉間に深い皺を入れながらシノブは奥崎の方を向いた。奥崎はそれを横目で流すと首の関節をだるそうに鳴らして小さくため息混じりに「もう終わったことだ。みんながんばった方じゃねえのか?準優勝したんだし、いいんじゃねえの」と、気だるげに応えた。

「お前って……本当にやる気ねえな!バンドのことしか頭にねえのかよ!」

「余計なお世話だ。少しは静かにしろ。あの新入生代表のクラスが優勝したからそんなに怒ってるのか」

「うるせえ!!あーうるせえうるせえ」

 なにも煽らなくても、とサトルは胃の痛みを感じながら奥崎とシノブの会話を席に座りながら聞いていた。できたら廊下に出たいところだがタイミングがつかめず、黙って心配そうな顔で二人のやり取りに焦りに似た気持ちを感じた。

「マツ!お前はどう思う?!ここは学校だ。誰かがいい思いをすれば絶対に他の誰かが嫌な思いをしている。小さな社会なんだここは!今回はあの女男が優越感に浸り、俺らは2位というレッテルを貼られたんだぞ!準優勝だからいいなんてことは絶対にありえねえ。ここで妥協したら将来自分が大人になった時に苦しむことになるんだぞ?いいと思うか!?」

 なんでそんなに話が飛躍するのかとも思ったが変に逆らうと相手はシノブだ。多分厄介なことになる。サトルは自分に振られた話に少し動揺しながらも重い口を開いた。

「……まぁ神崎が話すことも尤もだと思うけど今回はみんながんばったと思うよ?総合で負けたんであってバスケは俺ら優勝したじゃんか。ミナミにも勝てたんだし。お前はミナミよりは優秀だと思うよ」

「……ふぅん」

 サトルの必死のフォローに奥崎が少し笑った。

 シノブはサトルの言葉にゆっくりと頷き、そうか、と一言言った。気を良くしたのか、少し表情が解れたようだ。

「まぁ……そうだな。総合だから仕方ねえか」


 よかった

 機嫌が良くなったらしい。


 サトルは小さく安堵した。

 と、横でだるそうに立っていた奥崎がサトルへと紙を一枚目の前に出してきた。不意な事にサトルは唖然としたまま差し出された紙へと視線を落として暫くしてから奥崎へと顔を向けた。

「これなに?」

「ん、招待状」

「招待状……?」

「あぁ、それ『買え』ってことだ。オックは昔からバンドやっててな。今度またどっかそこら辺のハコでやるんだよ。それでお前のことも誘ったってこと」

 シノブはサトルが手にしているチケットを指差しながら説明をした。

「……あ、ありがとう。行く時に支払いでいいのかな。こういうの俺行った事がなくて」

 奥崎はサトルへと手を差し出して「クラスメイトのよしみで半額でいいぜ」と、目を細めた。

 奥崎自身は笑ったようだが、サトルにはシノギの取り立てにしか見えなかった。



 午後の長時間かけたHRではクラスの規律を作るため会長等委員会の選抜を行った。シノブは総代ということもあって自然にクラス会長へと任命。本人は慣れた風で別に面倒くさがる様子もなかった。他の委員会も次々と決まりサトルは委員会へは入らずにすんだ。昔からこういうことから逃げるのは少し得意だった。HRも終了し、寮へと帰るために鞄の整理を始める。

「マッちゃん聞いてよ」

 声の主へと顔を上げると真っ青な手提げ袋を重そうに持つマコトが泣きそうな顔でサトルの前に立った。いつもの元気がない小猿の様子にサトルは少し驚いてマコトへと身を乗り出した。

「どうした?」

「……俺、広報委員になっちゃった……」

「え、そうだったっけ?」

「そ。別にやりたくないのに……バンドの練習に響いちゃうじゃん~」

「あ、そうか。マコトもやってるんだ。バンド」

「そうだよ。もう最悪だ。それに……」

「それに?」

 マコトの目が怯えたように周囲へと向けられた。

「一緒に広報やる人……なんかすんごく怖い」

「……?怖い?誰?」

「ほら……あの窓際で名簿最後の席の渡辺君……」

 渡辺?

 多分まだ会話をしたことはない。

 そんな怖い奴がクラスにいた記憶がなかったがマコトがチラチラ見つめる窓際が気になった。サトルはゆっくりとそ知らぬ振りを装いながらマコトの視線の先、後方へと視線を動かす。


 と。


 長いのであろう黒い前髪を後ろへと流した髪型の男の鋭い目と目が合ってしまった。崩して着た制服に、ダルそうなネクタイ。目と眉毛の位置が近すぎる。何よりも圧が凄い。正直あまりの威圧を感じすぐにマコトの方へと何事もなかったかのような顔を作り姿勢を戻した。

「……ね?」

「……ん」

 小さく呟くマコトに合わせてサトルも小さく返答した。同じ年とは思えない眼光。正直奥崎の方が扱いやすいような気がした。

「もう無理~……」

 そう言いながらマコトはサトルの机の前にしゃがみこむマコトが本当に不憫に感じた。




 寮の廊下はまだ誰も帰ってきていないのか、それとも自分が早く帰って来過ぎたのか、人の気配がなかった。そのまま自室へと戻るとシノブが勉強机に座って一人黙々と勉強をしていた。帰って来たらすぐに勉強。結構真面目なんだな、と思いつつ音を立てないようにドアをゆっくり閉める。

「お、お帰りー」

「あ、ただいま」

 やっぱり気付いたか、とサトルは自分に背中を向けたままのシノブへと少し頭を下げた。

「遅かったな」

「まぁね。マコトと話してた」

「あぁ、あの小猿な」

 シノブはサトルへと顔を向けて嫌味な笑みを浮かべてそう話すと、再び机へと向かった。自分はゴリラと言われてあんなに怒っていたのに人のことは小猿と称するんだな、とサトルは思いながら着替えを始めた。

「お前マコトと仲良いんだな」

「あぁ前に自販機の前で会って」

「ふぅん」

「マコト、委員会に入ることになっちゃったから凹んでたよ」

「あぁ、バンドやってるんだったか。じゃあマツ代わってやればいいんじゃね?」

「え……ちょっと無理だな」

「へ?なんで?」

「いや……」

 クラスメイトが怖いからとはちょっと言うのに気が引けてそのまま黙って制服をハンガーにかけてその話題から離れた。冗談じゃない。マコトは不憫だとも思うが代わるのは快く動けない。サトルは勉強机の椅子をひいて腰をかけた。そして、まだ空の状態の引き出しを開けて持ってきていた筆記用具等細かいものをダンボールから出して整理しようと思った。


「あ」


 突然のシノブの声にサトルの手が止まる。

「なに?」

「今日さ、奥崎のバンド練習あるんだって。一緒に見に行かねえ?」

 よかった、マコトの話じゃないと思ったのと同時に急な誘いの話に気が進まない。

「え……でも邪魔にならないかな?」

 サトルは苦笑いしながら返答した。

「別に大丈夫だろ。俺も行くんだし」

 机に向かいながらシノブは淡々とした口調で返してきた。正直、シノブの強引なところは嫌いだ、とサトルは思いながら勉強を続けるシノブの背中を見つめた。

 空は曇り。

 まるで同調だ。



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