ブラックブック

真乃晴花

ここのつむすび

 私は出会った。黒い本と、その持ち主である少女に。


 私、有沢結花は学校の図書館にいた。既に陽がおちて薄暗くなった十月の午後五時、図書館には、私しかいなかった。少し離れたグラウンドから運動部の気合の入った声がかすかに届いている。あとは、私が乱暴に本を棚にしまう音と、返却棚とプレートについたワゴンを引く音がするだけだった。

 私は、腹を立てていた。なぜ、私がこんなことをしなくてはならないのかと。

 授業が終わって、ホームルームも終わった時、図書委員である友人、矢部ともこから両の手を合わせられて今日の図書委員の当番を押しつけられた。まさか、ひとりで残って仕事をするとは思ってもいなかった。ともこも、何も言わなかった。だから、まあいいかと引き受けた。そうして図書館に行ってみれば、他の委員は部活だと言って四時前にいなくなり、担当教諭も「よろしくね」の言葉と仕事を残して帰っていった。本来なら、数人で手分けをすれば短時間で終わる仕事のはずだ。でも、ともこの当番である月曜日は、最後ひとりで仕事をしなくてはいけなかった。ともこが、帰宅部だから。そして、私も、帰宅部だった。私は、ともこにはめられたのだ。

 こんなことは、よくあった。私も特にやりたいこともなく部活もしてなければ、習い事もしていない。家に帰っても爪の手入れをしたり雑誌を読んだりするだけだから、まあいいかと良くめんどうを引き受けていた。掃除当番や、他の委員の仕事を手伝ったり、ノートを貸したり。でも、こんな風にひとりではなかった。いいように利用されているのだと、今日初めて理解した。

 怒りが抑えきれなくて、本にあたってしまう。それほど図書館を利用することもないから、本を元の棚に戻す作業もはかどらない。ああもう、と叫びたいほどだった。

 やっと最後の一冊になって、私はその本を手に取る。ハードカバーの重い本だった。背表紙を見て貼られたシールの色を確認しようとして気がつく。その本には、シールが貼られていなかった。裏表紙に貼ってあるはずの、学校名の入ったバーコードのシールもない。透明のカバーもされてなかった。

「忘れ物?」

 忘れ物など、どうしたら良いのか知らない。私はため息をついた。どこかに名前が書いてあるだろうかと、表紙をめくろうとして気がつく。本の題名が書かれていないことに。背表紙にも、どこにも。その本は真っ黒な装丁をしていて、もしかしたら、表紙カバーが取れているものなのかもしれなかった。

 私は、表紙をめくった。

 最初のページの真ん中に、一行だけ「この本には人を呪うすべての方法が記されています」と書いてあった。私の心臓がどん、と言った。

「呪い? なに、この本」

 恐ろしいけれど、興味の方が勝って、私はページをめくる。

 そこには、頭に三本の火を灯した蝋燭を刺し、木に藁人形を五寸釘で打ちつける女の絵が描かれていた。『丑の刻参り』と題打ってある。藁人形の作り方までもが細かく書いてあるようだった。私は、恐ろしくて、気持ち悪くて、すぐにページをめくった。

 次にあったのは犬の首と肉らしきものがその犬の前に置かれた絵だった。『犬神』と書いてある。残酷な絵に私はまたページをめくる。

 気づかぬうちに、私は近くの椅子に座って、その本をめくり続けていた。これじゃない、これじゃないと、何かを探すように。

 本の中ほどまで繰った時だった。

「どんな呪いを探しているの?」

 落ち着いた声だったけれど、私は心底驚いて、悲鳴が口からこぼれそうだった。声のした方を振り向くと、私と同じか、ひとつふたつ年下くらいの少女が立っていた。けれど、着ている制服がうちの高校のものではない。うちの学校の制服はブレザーにチェックのプリーツスカートとありふれたものだが、彼女の服はワンピース型の黒いセーラー服だった。転校生だろうか。それとも、学校見学に来た中学生だろうか。少女は猫のようなアーモンド形のつり目が可愛らしく、髪は黒く艶やかで天然パーマなのか、くるくると巻いている。私は、アンティークの人形のようだと思った。

「これ、あなたの?」

「そう」

「良かった。どうしようかと思ってたから」

 私は立ち上がって、彼女のところまで歩く。彼女も歩み寄った。

「勝手に読んでごめんなさい」

 私は黒い本を彼女に返した。

「いいのよ。別に。良かったら、貸してあげてもいいわ」

 私より少し背の低い彼女は、上目遣いで言った。

「呪い、探していたんでしょう?」

「そんなこと」

 私は「ない」と完全に否定しきれなかった。

「これはどうかしら。簡単よ」

 少女は本を繰ると、私にひとつの見開きページを見せた。

 そこには『九つ結び』とあった。

「必要なのは紐だけ。すぐに切れちゃうようなものでなければ、どんな紐でもいいわ。おまじないのようなものよ」

 私は本を渡されると、そこに書かれた文字を知らず追っていた。途中まで読んで、はっとして顔を上げると、少女が微笑を浮かべて私を見ていた。

「別に、必要ないから」

 私は慌てて本を返そうと少女に差し出したけれど、押し返される。

「こんな時間にひとりでいるなんて、何かあったんでしょう?」

 少女の言葉で、私は怒りを一瞬で思い出していた。

「良かったらその本、あげるわ。私はその本の中身はすべて覚えているから」

 少女はそう言って私から離れた。

 私はまた我に返って、少女を追おうとした。けれど、足が少しも動こうとしなかった。

 私の手には、黒く重い本が残った。



 私は、黒い本を家に持ち帰っていた。

 帰路は、ずっと、ずっとぼんやりと考えていた。

 友人だと思っていたともこに利用されたのが悔しかった。この怒りをまた明日、ともこに会ったら言うのだろうかと。そうしたら、謝ってくれて、この怒りは収まるのだろうか。それとも、友人ではなくなってしまうのだろうか。たったこんなことで、親しい友人を失うのだろうか。でなければ、いいよと笑ってまた利用されるのだろうか。

 私なら、こんなことはしないのに。

 学校の中では、こんなことは日常茶飯事なのは知っている。利用するものはうまく立ち回って、誰でも利用して、楽しむ。利用されるものは、利用されるのを断れば「生意気」「うざい」と言われ、はじかれる。それでもかまわないと思う人間と、それを恐れる人間がいる。恐れる人間がいるから、力関係は存在する。私は、恐れる人間だと思う。クラスは二年になった時に変わったけれど、三年には変わらない。今は十月だから、私は、まだあと一年半も同じクラスに在籍しなくてはならない。今はじかれてしまったら、私は一年半をきっと淋しいと思って過ごすに違いない。

 私は、この怒りを鎮めて、また明日笑って過ごすのだろうか。ずっと、ずっと、一年半を利用されて終わるのだろうか。

 私には正義がある。誰かを利用したりしないという正義が。でも、本を捨てることもできない弱さもあった。正義がある一方で、呪ってやりたいと思う悪が、矛盾が確かにあった。

 私は、黒い本を開いてしまった。


『九つ結び』


 まず、呪具を作ります。呪具を作る時は誰にも見られてはいけません。結びやすく、結んだ時に緩まず丈夫な紐を用意すると良いでしょう。紐は適当な長さに切ります。細い紐なら十五センチメートル程度で構いません。

 憎い相手の不幸を願いながら、紐を固く止め結びします。(簡単な結び方で構いません)そうして、結び目を九つ作ります。呪具はこれで完成です。

 できた呪具は相手の持ち物に隠しましょう。相手に見つからないところに隠さなくてはいけません。また、隠す時にも誰にも見られてはいけません。

 この呪いを行ったことを口外してはいけません。

 

 少女が言っていた通り、簡単だと思った。おまじない程度だと言っていたのもうなずけるくらい。

 ともこが、ちょっと痛い目にあって反省すればいい。そう思っている私がいた。

 私は紐を探し、ともこが二度と私を利用したりしないようにと、そう結び目に込めた。



 火曜日の朝、私はいつもより早く家を出た。九つの結び目のある紐を持って。午前八時の教室には、誰もいない。鼓動が早くなるのを感じる。

 私は、その紐をどうするか、悩んでいた。持ち物に隠すのはとても難しい。とりあえず、私は自分の机に鞄を置き、斜め前のともこの机を見た。ともこの机の中にはびっしりと教科書類がつまっているのが見える。教科書は、私も試験前にならないと持ち帰ったりはしない。ともこも同じなのだろう。

 私はともこの机の中から、教科書やノートをすべて出してみる。紐を隠せそうなものはない。

 心臓は変わらず、早鐘を打って、背中にじんわりと汗をかく。

 どうしよう。早くしないと、誰かが来てしまう。

 私は頭を振る。何をやっているのか、やろうとしているのか。こんなことを真剣に。いや、違う。これは、ほんの、ほんの、いたずらのようなものだ。ただのおまじないで、そんなに考えなくたって、いいはずのこと。

 私は、教室にあったセロハンテープで、机の奥に紐を貼りつけて、また出した教科書を適当にしまった。誰にも見られていないか、教室を見渡して、私は息をついた。自分の席に座って、鞄からペンケースとペットボトルと携帯電話を取り出す。そして、少女に返そうと思って持ってきた、黒い本が目に入る。気味の悪い、黒い本。私は、なんとなく、その本を鞄に入れておきたくなくて、鞄から出す。

「有沢さん? 早いね。おはよう」

 時計をみたら八時十分になっていた。クラスメイトのひとりが登校して、教室に入ってくる。

「おはよう」

 私は挨拶を返して、本を机に置いた。

「有沢さん、本読むの?」

「え、うん、これ借りたものなの」

「へえ」

 私は、あわてて黒い本を机の中へ隠した。

 クラスメイトの子は、少し訝しげな顔をする。

「高橋さんも早いね、いつもこの時間?」

「うん、そうなんだあ。うち田舎でさあ。バスの本数が少なくて」

「そうなんだ」

 私はなんとか話をそらすことに成功して、密かにほっとしていた。

 次第に教室が賑やかになってくる。

 私は、ともこが紐に気づいたらどうしようと、そればかりが心配だった。ともこが登校してくる瞬間が気になって、扉の方を何度も見てしまう。ホームルームの時間が近づくにつれて、私の心臓は強く速く打つ。けれども、ともこは予鈴が鳴ってもその姿を見せない。もう本鈴が鳴るという時分になっても来ない。元々ギリギリに登校してくるともこだが、もしかしてという思いがあった。

 ともこが来ないまま、本鈴が鳴り、担任が教室に入って来る。挨拶をし、席に座ってすぐに、担任が口を開く。

「矢部は風邪で欠席だそうだ。みんなも気をつけろよ。中間テスト近いからな!」

 中間テストという言葉に教室がざわつく。そんな中で、私はひとり、青くなっていた。担任が出席を取るために私の苗字を最初に呼んだのも聞こえず、そのせいでまた教室がざわついているのも聞こえなかった私は、担任が心配して私の机にやってきて初めて我に返った。

「大丈夫か、有沢。真っ青だぞ。保健室、行くか?」

 我に返っても、私は声を発することもできず、また気がつけば、保健委員の子が私の横に立って「行こう? 歩ける?」と私の顔をのぞきこんでいた。私は、よろけながら、腕をとられて教室を出て保健室へ連れて行かれた。行く途中で、私は、朝食べたものをすべて吐き戻してしまった。そんなはずないと、自分に言い聞かせる度に、吐き気に襲われた。

 保健室で午前中いっぱい休んだ。私は、お昼の休憩時間になって、やっと保健室から出て教室へ戻った。自分の机に座ると、近くで食事をしていた子が「大丈夫なの?」と心配してくれる。私は「もう大丈夫」と答えて、やり過ごす。鞄にしまっておいてくれたのであろう携帯電話を出して、LINEアプリを起動する。ともこからはなんのメッセージもない。私はあえて、LINEではなくて、普通のEメールをともこに送った。『風邪だいじょうぶ?』と。それから午後の授業を受けて、ホームルームの後すぐにメールの着信がないか確認する。ともこからメールが届いていてほっとする。『昨日はありがと。ごめんね。大変だったでしょ。ゆかに押しつけたからバチがあたったんだわ。でも。だいじょぶだから。心配してくれてありがとね。ちょっと咳がひどいんだあ。ゆかも気をつけて』所々に絵文字が入った明るい文面に心底ほっとした。

 私はともこの机を振り返る。紐を、どうしようか。まだ教室にはひとがいる。これから掃除も始まる。メールでは大丈夫って言ってる。ただの偶然。

 そう思って、私は教室を後にした。



 水曜日。ともこは、今日も休みだった。朝のホームルームが終わってから、私はすぐにともこにメールを送る。けれども、ともこからのメールは、お昼になっても、授業が終わって放課後になっても返っては来なかった。新着メールの問合せをしても、ありませんと表示される携帯の画面に、私は嫌な予感がしてアドレス帳を開く。ともこのアドレスを引っぱってきて、電話をかける。

 心細いコール音が鳴り続く。「じゃあねー また明日ー」「またねー」そう言って教室から出て行くクラスメイトを私は振り返った。テストが近いせいか、いつもはだべっているクラスメイトも次々と帰っていく。コール音が途切れて、私は期待したけれど、すぐに裏切られる。

『ただいま、電話に出ることができません。御用の方は』

 一度切る。

 たまたま、たまたま電話に出られなかったのかもしれない。きっとそう。

「結花、帰らないの? 一緒に帰る?」

「誰に電話してるの?」

 ともこがいなくてひとりの私をクラスメイトの友人が気にしてくれたらしい。

「ともこからメールが返ってこないから」

「あ、そうだね、LINEの方も見てないみたい。大丈夫なのかなあ」

「ともこ、風邪とか引きそうにないタイプなのにねえ」

「ちょ、それ失礼だから」

 彼女たちは笑う。

 ともこは確かに、いつだって元気で、明るい。私と違ってたくさん友達がいて、だから、私みたいな辛気臭い人間にも声をかけてくれて、本当は優しい。

 私は、ともこが妬ましかったのだろうか。だから、だからあんなことをしたのだろうか。

「私のことは気にしないで。テスト勉強するんでしょう?」

「うん。わかった。なんかあったら教えて。こっち来たくなったら、場所教えるし」

「うん。ありがと」

 彼女たちと手を振って別れる。

「矢部に電話してるのか?」

 声を掛けてきたのは、クラスメイトの男子だった。

「あ、うん。でも、出なくて」

「心配だな」

「うん」

「でも、あいつらも言ってたけど、矢部なら大丈夫だろ」

「そうかな。そうだといいけど」

「大丈夫だって。一週間休んだっていうならあれだけど、一日二日なんて誰にでもあるって」

「うん、そうだね」

 あんなことをしてなければ、私は、これほど心配しただろうか。最低な自分に嫌悪する。

「まあ、確かに、矢部が風邪とか、雪が降るんじゃねって思ったけど、あれも人間だし、こういうこもあるって」

 少しだけ、私は笑った。

「それ、ひどいよ」

「矢部には内緒な。それより、帰らねえの? 俺も今日部活ねえし帰るんだけど」

「ごめん、もう一回電話してみるから。先帰って」

「そっか。じゃあな」

「バイバイ」

 彼と別れると、私はまた電話を掛ける。

 同じ、頼り気のないコール音がする。

 教室には、わたしひとりきりだ。隣の教室からも、廊下からも物音がしない。

 コール音は続く。

 諦めかけて、耳から電話を離そうとした時、コール音が途切れた。

『はい』

「ともこ!?」

 私はいつもよりはるかに大きな声で名前を呼んでいた。けれども、電話に出たのは、ともこではなかった。落ち着いた、少し沈んだような声だった。私は、心底がっかりする。

『ともこのお友達?』

「はい。有沢といいます。お母様ですか? あの、ともこは?」

『ごめんなさい。ともこね、入院してるの』

 入院という言葉に私は動揺を隠せなかった。

「入院? 入院ですか? 風邪、じゃあないんですか? なんで、入院なんて」

『最初は、普通の風邪だって思ってたんだけど、風邪をこじらせちゃって、肺炎になってしまって。いやあね。普段あの子風邪なんて引いたりしないものだから、私も軽く見てしまって』

 後悔しているのだろうか。そんな声に聞こえた。

「肺炎、ひどいんですか?」

『そうねぇ、大丈夫だとは思うのよ。ただ、今は絶対安静なの』

「そう、なんですか。大丈夫って言ってたのに学校に来ないから」

『有沢さんだったわね。心配してくれてありがとう。落ち着いたら伝えておくわ』

「いえ、すみません。失礼します」

 私は電話を切った。

 すぐに私は肺炎がどういうものなのかを調べる。退院は早くて四日、長ければ二十日とあった。十歳代の死亡率は極めて低い。それを読んで少しほっとする。

「呪いは効いたかしら?」

 突然の聞き覚えのある声に私は驚いて顔を上げる。図書館で会った少女が扉のとこに立っていた。この間と同じ制服を着ている。

「ぐ、偶然よ」

「偶然じゃないわよ」

 少女は教室に入って来る。

「ねえ、どうして呪具を呪いたいひとの持ち物に隠すか知っていて?」

「え?」

 そんなことは考えたこともない。その理由は、あの黒い本には書いてなかった。

 少女は迷うことなくともこの机まできて、そこに手を置く。

「それはね、その持ち主の気を覚えるためよ」

「き?」

「匂いみたいなものね。同じ気を持つひとはいないわ。そのひとの生まれ、生い立ち、名前、食べたもの、選んだもの、捨てたものの違いで気は変わるから、同じ気の人間がいることはありえないの」

「でも、そんなの」

「口で死ねって言ったってなかなか死んだりしないでしょう? それは、その呪いがただ吐き出されて自分のまわりを漂わせるだけのものにしかなっていないってこと。あなたが作り出した呪いは紐に篭められて、呪いたい相手の気を覚えて、その相手のところへ飛んでいったわ」

「そんなの」

 私は、それでも偶然だと、ありえないと口にすることができなかった。

「言葉や想いには力があるわ。色んな奇跡があるのを知っているでしょう? 呪いだけ力を持たないなんてことはないわ。説明できない奇跡があるように、説明できない不運もあるのよ。死ぬはずのない病気のはずなのにって」

 少女はおかしそうに笑う。

「死なないといいわね。もっとも、いつかは死ぬのが人間を含む動物だけど」

 少女は言って、ともこの机から離れ、扉の方へ向かう。

「待って。呪いを解くには、どうしたらいいの」

 私の問いに少女は振り向く。怒ったような顔をして、それから呆れたようにため息をついた。

「紐の結び目を解いてあげたら? ちょっとは和らぐんじゃない? あとは、お寺か神社にでも行ってみたら?」

 少女は冷たい顔をして言う。けれども、次には笑う。

「ああ、でも、人を呪わば穴二つ。お気をつけになってね」

 少女は教室から出て行った。

 私は、気がつくと携帯をきつく握り締めていた。その携帯を自分の机に置いて、ともこの机に行く。中からこの間のように教科書やノートをすべて出し、手を奥まで入れて紐を探った。すぐに紐が触れたけれど、セロハンテープがなかなか剥がれなくて、私は爪を立てる。なんとか取り出して、息をついた。教科書を元に仕舞い戻して、私は急いで結び目を解こうとした。けれども、細い紐だったおかげで、結び目が小さく、なかなか解けない。本に書いてあった、結び目が緩みにくく細い糸が良いというのは呪うのに良いという意味だったことに、私は気がついた。焦って指は上手く紐をつかめない。結び目が思ったより固い。

 私は、そんなにともこを恨んでいた?

 そんなことはないと、必死に自分に弁解して、結び目をひとつひとつ解いていく。結び目をすべて解き終えた時には指先が痛かった。手に残った紐を見る。紐というより、糸に近い、なんでもない普通の紐。たったこれだけのものが、ひとを死に追いやるものだとは、到底思えなかった。それでも、私はそれを捨てずに、神社へ持っていこうと思った。携帯でマップアプリを起動させ、近くの神社を検索する。程近いところに神社があるのが分かった。私は走って学校を出る。少し坂を上って、地図を確認する。いつも通う道をそれて、住宅街へと入る道を歩く。しばらくすると、右手に階段があって「神明神社↓」の看板があった。私は階段を見上げる。鳥居は見えない。階段はけっこう急で、段数も多い。私は紐を握りしめて、階段を登っていく。登りきると、紅い鳥居が私を迎えた。正面に本殿がある。左側には大きなイチョウの木が一本そびえている。右側にはおみくじやお守りを売っていると思われる木造の建物、社務所があった。境内に人影はなく、静かだった。私は、社務所へと向かう。窓口のガラス戸は閉まっていたけれど「御用の方は呼鈴を押して下さい」と書かれた張り紙があった。私は、窓枠の近くにあった赤く丸い小さな押しボタンを押した。キンコンと、いかにも古そうなレトロな音が鳴る。しばらくすると、ガラス戸が開いて二十歳代後半くらいの男性が顔をのぞかせた。

「はい」

「あの、あの、呪いを解く方法が知りたくて」

 私の声は、小さくなっていく。

「呪い?」

 私は、紐を彼に見せる。

「出来心で、あの」

「君が、誰かを呪ったってこと?」

 その言葉が突き刺さって、私は唇を噛んでうなずいた。そして、恐る恐る顔を上げる。怒られるのではないかと、私は覚悟していた。だけど、彼は難しそうな顔をしていて、怒る気配は少しもなかった。

「こんな呪い、よく知っていたね」

「本に、書いてあって」

 彼は「本か」とつぶやいて、私の手から紐を取り上げる。そして、考えるように紐をみやる。

「呪いを解くことはできない」

 彼はあっさりと、私を谷底に突き落とす。

「え、じゃあ、あの、どうすれば、どうすればいいんですか!?」

「呪いは返すしかない」

「返す」

「そう。君に返すしかない。もしくは、他のものを犠牲にするしかない」

「他のもの」

「けっこう大変だよ」

 私はそこで気がつく。

「そっか、お金が必要なんですね」

「いや、直接的にお金が必要ということではないし、僕くらいじゃできないよ」

 お金を払えばなんとかなるのなら、私の貯金で足りるのなら、いや、親から借りることができるなら、払ってでもやってもらえるつもりでいた。

「あの、私に返ってもいいです。それは、当然のことだし。だから、なんとかなりませんか!?」

「死んでしまうかもしれないよ」

「私なんかどうなってもいいんです!」

 私は叫んでいた。

 彼は驚いたようようで、目を丸くして一歩身を引いていた。

「ちょっと、待ってて」

 そう言って、彼は奥へ行ってしまった。

 待っていたのはどれくらいだろうか。おそらく、十分は待っていたような気がする。「お待たせ」と言った彼の手にはA4サイズほどの木箱があった。しかも、社務所の中からではなく、外へと出てきてくれていた。

「お参りは済ませた?」

「あ、いえ、まだ」

「じゃあ、先にお参りしようか。その、呪ってしまったひとの名前と分かれば生年月日を教えてくれないかな」

「はい」

 私はともこの名前と、アドレス帳に登録してあった誕生日を教える。

「ともこさんを守って下さいってお願いすればいいから。お賽銭も、百円で充分だから」

 私は言われた通り、お賽銭の百円玉を用意し、賽銭箱へと入れた。そして、鈴を鳴らす。彼に倣って本殿の前で二礼し、拍手を二回打つ。

「祓い給へ、清め給へ、守り給へ、幸はへ給へ」

 私は彼がそう唱える横で、ともこが元気になりますようにとひたすら祈った。

 そして一礼をして本殿から離れる。

「あっちで座って話そうか」

 彼の指差した方には木製のベンチがあった。私たちは、そちらへ行き、ふたり並んで座った。

「これでともこさんはうちの神様が守ってくれる。だから、呪いは君に返ってくる」

 私はうなずく。

「だから今度は君を守るためのお守りを作る」

「作るんですか? 売っているのでは、ダメなんですか?」

「売っているのを持っていたとしても、また呪いが跳ね返るだけだから、そうなると、君以外の誰かがその呪いを受けることになる。だから、身代わりを作る」

 彼はそう言って、木箱から人の形をした板切れを出した。手のひらほどの大きさだ。

「これに自分の名前と生年月日を書いて」

 板切れと、筆ペンを渡されて、私は板切れに慣れない筆で名前と生年月日を書いた。

「これでいいんですか?」

 私が書いたものを見せると、彼はそれを私の手のひらから拾い上げる。

「これで、君が二人になった。本当は、本物の君を隠さなきゃいけないんだけど、それが僕にはできない。だから、呪いは君にも半分、返って来る。ごめんね、本当はちゃんとそういうことができるひとに頼むところなんだけど」

「いえ、私は、ちゃんと罰を受けるべきだから」

「強いね。君みたいな子は、間違ったことを認められるひとっていうのはなかなかいない」

「私、強くなんて」

「それでいいと思うよ。自分は強いんだと思ったら、それ以上成長しないしね」

 彼は立ち上がる。

「その人形の板は、どうするんですか?」

「これは、僕が預かっておくから。君はもう帰りなさい。神社は夕方、夜になると良くないからね」

「神社なのに、良くないんですか?」

「そうだよ。光ばかり差している場所は、どこにもないからね」

 私は、怖かったのだと思う。これから、罰を受けるこの身のことが。だから、離れたくなかったのかもしれない。

「よかったらまた来て」

「あ、はい。すみません、ありがとうございました」

 私はやっと腰を上げる。

「気をつけて」

 彼の言葉に私は頭を下げて、神社を後にした。

 ともこが、良くなりますように。そう願いながら、階段を下りる。降りてから、住宅街の街路樹はイチョウだったことに、今更ながら私は気がついた。黄色く紅葉した葉が西陽をうけて輝いていて、それがとても神々しく、美しかった。




 二週間後、私は再び神社を訪れていた。お参りをしようと思ってきたのに、私は苦笑いするしかなかった。それでも、お賽銭を入れて、頭だけ下げた。心のなかで、ありがとうございましたと言っておく。そして、社務所へ向かい、またあの赤く丸いボタンを押す。変わりのない、懐かしい音が彼を呼んだ。

 彼は、私を見ると一瞬だけ喜んだような笑顔を見せた。けれど、すぐに目を覆った。

「あの、ありがとうございました。ともこ、元気になったので、これを」

 私は「お礼」と書かれた熨斗袋を彼に渡した。

 彼は、またちょっと待ってと言って奥へと行く。

 私は、外へと出てきてくれる彼を待った。

 この間と同じベンチへと誘われて、私たちはそこにまた隣り合って座る。

「それ、骨折したの?」

 彼は、私の腕を見て言う。私の左腕はギブスで覆われて、肩から三角巾で吊るされていた。

「はい。階段から落ちて。痛かったですけれど、でも、腕だけでした」

 誰かに押されて階段から落ちたような気がしたけれど、階段の上には誰もいなかった。でも、これでともこは元気になると、そう思ったら、清々しかった。

「こっちも割れたから、大丈夫かなと思っていたんだけど」

 彼の手には、みっつに割れた人形の板だったものがあった。

「本当に、ありがとうございました。私、こんなことになるなんて、思ってなくて。おまじないみたいなものだって、そうやって言い聞かせて、本当に、馬鹿でした」

「おまじないも呪いも同じだよ。同じ字を書く」

 そのことを私は知らなくて、驚いた。

「もうひとつ、教えておこう。結ぶっていう行為には、呪いもそうなんだけど、願いを篭める力がある。さっき貰った熨斗袋にも水引が結ばれていただろう? これは、東洋だけのおまじないじゃない。インディアンなんかは馬の手綱に結び目をつくって安全を願っていたりしたんだそうだ」

「そうなんですね。ただの験担ぎとか、そういうものだと思ってました」

「ほら、お守りにも、結びがある」

 彼の見せてくれた白いお守りの結び口には、確かに紐が花のように結ばれていた。

「これは、君にあげる」

 言って、彼は私にそのお守りを渡してくれた。

「あ、ありがとうございます」

「紐を結ぶ時には、良いことを願うといいよ。そうしたら、良いことが君に返ってくるから」

 私は笑って「はい」とうなずいて、立ち上がる。

「また何かあったらおいで。愚痴でもなんでも聞くから」

「そんな……」

「呪いなんてものに手を出す前に、君の話を聞いてくれる人間が必要だったってことだよ」

 私ははっとした。今までそんな相手がいなかったことに気がついた。ただひとりの友人であるともこを失いたくなくて、だから、ともこに何も言えなかった。

「悪口は良くないけどね。どうしたらいいのかっていう相談なら乗るよ」

 私は、泣いていた。そう言ってもらえたことが、嬉しくて。

「はい、また、来ます」

 私は涙を拭いて、笑った。




 あの黒い本は、机の中から消えてしまっていた。あの少女に返そうと思っていたけれど、叶わなくなってしまった。そして、その少女とも会うことがなかった。クラスメイトに少女のことを聞いても、誰も知らなかった。いつしか、少女のことは幽霊なのではないかと噂されるようになった。

「結花、骨折してるのに手伝わなくていいよお」

「月曜日の図書館は幽霊がいるから嫌だって言ったの、ともこでしょ」

「それはそうなんだけどね、居てくれるだけでいいから」

「早く片して出よう。もうテストも終わったんだし、使いたいってひとも来ないよ。幽霊が出るならなおさらだし」

「ごめーん、ありがと」

「いいの」

 私は知っている。この図書館にあの少女が現れないことを。あの少女は、心に闇を持った人間の前に現れるということを。何も、恐れることなどないということを。


     ここのつむすび  おわり

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