欲しい言葉

真乃晴花

欲しい言葉


 元気に笑う彼が好きだった。「好きだ」と言った、その声が好きだった。嬉しかった。だけれども、まだ未熟なティエリーだったけれど、それは、世の中に認められていることではないと、知っていた。だから、だから、ティエリーはそっけない態度をとるしかなかった。でも、彼は、ティエリーの内心を見透かしていたのか、もしくは何も考えていなかったのか、変わらずティエリーに接してくれた。ティエリーは、人気者の彼に好かれているという事実に優越感を感じていたのかもしれない。でなければ、彼のくちづけが心地よくて、拒むことができなかった。幸せになることなどないと、思っていながら。



 もうそろそろ日が暮れようという放課後、ティエリーは教室から出て図書館へ向かっていた。廊下の窓から見える空の色は少し暗い。だけれども、そんないつもの風景など気にも留めないでティエリーは歩いていく。階段で一階へ降りて、右側へ進む。そこが図書館だった。木製の落ち着いた赤っぽい色の扉を開けると、並んだ本棚が見渡せる。右手のカウンターを素通りして、目的の棚へとまっすぐに歩む。娯楽小説の棚だ。その棚に入っているほとんどの本は古いものだ。新しいのは滅多に入らない。入ったとしても、すぐに誰かに借りられてしまい、棚に戻ることは稀だろう。戻る頃には古くなっている。ティエリーはいくつか物色して、一冊の本を選んだ。表紙には著者とタイトルしか書かれていない本ばかりなので、内容は読んでみなければ分からない。でも、ティエリーの選んだ本の著者は、これから返す本と同じだった。カウンターへ持っていき、本の裏表紙の内側にある二枚のカードに自分のクラスと名前と今日の日付を記入する。一枚は元へ戻し、もう一枚はカウンターの図書管理部の人間へ渡す。返却する本からもカードを抜き取って、日付を書き込んで、カードを本に見えるように挟み、渡す。これで、返却と借りる手続きは完了だ。ティエリーは借りた本を持って、図書館を出る。出たらまっすぐ進み、エントランスを通り過ぎて、外へ出た。涼やかな風を感じながら、日陰の空いているベンチを探して歩く。学園の敷地は広く、寮までが敷地内に収まっている。その寮と校舎の間にあるのが、緑地公園と言っても良いほどの庭だった。ベンチのほかにガゼボも点在する。夏は虫が多いのが玉に瑕だが、秋は読書をするのにちょうど良い。ティエリーは珍しく空いていたガゼボのひとつに入って、中の石でできたベンチに座る。少し暗くて、文字を読むには向いてないかもしれないが、ここだと人通りが気にならない。集中して読書が楽しめた。のだが、数ページもめくらないうちに、同級生に見つかってしまった。

「ティエリー、ここにいたのか」

 顔をのぞかせたのはジル・ファビアン・エルランジェだった。黒っぽい、少しクセ毛の髪をした少年だ。緑の瞳は太陽の光を浴びた木の葉のように輝いていて、それだけで明るい性格だと分かる。ティエリーとは反対の性格だ。だけれども、ジルはティエリーと同じようにコレージュからテルミナルまで進級してきた数少ない同級生の一人で、自然と一緒にいることが多かった。

 ティエリーの所属する学校は中等教育のコレージュと高等教育のリセが一貫となっている学園で、進学校でもある。落第、スキップがあるため、一概に何歳から何歳までというくくりはできないが、おおよそ、十歳から十九歳までの男子が学んでいる。コレージュが四年制、リセが二年制で最高学年がテルミナル(一年間)だ。ティエリーとジルは同じ年に十一歳で入学し、落第もスキップもなく一緒に進級してきていた。進学校だが、五人に一人が落第していた。スッキプしていく生徒もいるので、七年間一緒というのは珍しいことだった。

 ジルはガゼボの中に入ってくると、当然のようにティエリーのすぐ側に腰掛けた。

「君はいつもいつも、暇なのか?」

 ティエリーは嫌味を言う。

「まあ、暇だな」

 ティエリーの嫌味など、どれほども感じていないのか、ジルは明るく肯定した。

 ジルは成績が良かった。本来ならスキップしても良いくらいの成績を取り続けてきたのだが、一度も、飛び級することはなかった。飛び級は任意だから、教官に飛び級はしないと自分で言っているのだろう。それくらい優秀だから、自由時間の多くを勉強に充てなくても良いのだ。そういう生徒は他にもいるが、大抵はより飛び級をするために勉強していたり、個人研究をしていたりする。

 一方、ティエリーは常に平均をキープしてきた。大学に進学した時、振り落とされないくらいの力をつけるので精一杯だった。この小一時間の読書は夕食まで好きなことをするとティエリーが決めたルールだ。

「今度は何を読んでいるんだ?」

「東洋の翻訳ものだ」

「前のと同じ作家のか。面白いのか?」

「前のが面白かったから、次も同じ作家のを読んでいるに決ってるだろう」

 ただ、面白いと言えばよいことなのに、ティエリーはどうにもひねくれたことしか言えなかった。

「なら、次は俺に貸してくれよ」

「正規の手続きを踏んでくれ。又貸しは禁止だぞ」

「みんなやってることだろうに。まあ、そういうところも好きだけどな」

 ジルは言うと、ティエリーにくちづける。

 勢いで押し倒される。

 甘いくちづけは、なかなか拒むことができない。

 だけれども、ジルの指がシャツ越しにティエリーの胸の小さな突起に触れられた瞬間、ティエリーは声を上げそうになって、本でジルの頭をひっぱたいた。

 くちびるが離れ、ティエリーは身体を起こす。

 でも、ジルはそんなことは既に慣れっこだった。いつものことだ。ティエリーはくちびるは許すものの、その先は決して許さなかった。ティエリーが顔を真っ赤にさせているのを見れば、ジルはまたいたずらをしたくなってしまう。ティエリーもそれを許す。そんなループを六年近く繰り返していた。

 顔を赤らめたままティエリーは警戒姿勢を保っている。仕方がないので、ジルは少しティエリーと距離をとる。そこで、ジルは何かが落ちているのを見つけた。手紙のようだった。ジルは警戒を続けるティエリーに代わって、その手紙を拾った。

「何か落としたぞ」言って、ティエリーに差し出す。

「手紙?」

 ティエリーは受取って宛名面を見てみる。

『Cher Cyrille』

 ティエリー宛ではない。無論、そんな手紙を書いた記憶はティエリーにはなかった。裏には『Raffarin』とだけある。

「本に挟まってたのか?」

「そう、だろうね」

 ティエリーは本の貸し出しカードを見てみる。ティエリーの前に借りていたのは宛名にある名前と同じだった。だけれども、返却日は一年近くも前だった。

「この、シリルっていうのが忘れたのか。去年リセの第二学年か。後輩か、同級だな。知ってるか?」

「知らない」

「開封されてないな」

 ティエリーとジルは見合わせる。

「本当に忘れたんだろ」

「今時、手紙なんて、ラブレターでもないよな。よっぽどシャイなヤツでないと」

 でも、他に手紙を書くとしたら、どんな時だろうか。

「ラファランは? 知ってるか?」

「知らない」

「っていうか、ラブレター、だよなー……」

 封筒はラベンダー色の落ち着いた色合いのものだ。なにより、宛名も差出人の名前も男性名だ。秘められたものであるような気がする。

 貸し出しカードにラファランの名前はなかった。学年も分からない。

「名簿とかで調べてみるか」

「別に、いいんじゃないか? シリルに返せば」

「興味ないの?」

「興味って、プライバシーの侵害だろ?」

「まあ、そうだけどなー。とりあえず、シリルを探すか」

「そうだな。明日の放課後に」

「えー、明日ー?」

「もう捕まえるのは難しいだろ」

「ティエリーはもうちょっと、冒険とかしたほうがいいと思うぞ」

「ジルはいくつになったんだい? 君はもうそろそろ冒険は卒業した方がいいよ」

「何事も冒険だろー?」

「冒険は小説の中だけで結構。君ももう少し本を読めばいいんだよ」

 ティエリーは知っている。ジルの読書量はティエリーよりも上回っていることを。でも、ジルの読む本に小説というものはほとんど含まれない。小説はティエリーが貸した本しか読んでいなかった。頭が良いはずなのだ。でも、勉強をしている素振りなど見せないのが、ジルの魅力のひとつだとティエリーは思っている。

「ティエリー、その本、読んでくれよ」

「言われなくても、読んでいる」

「そうじゃなくて、朗読してよ」

「なんで」

 ティエリーは少しイラっとした。

「そうしたら、俺も一緒に読んだことになるじゃんか。読み始めたばかりなんだろ? いいじゃないか。それに、それ、短編集だろう?」

「じゃあ、君が朗読すればいい」

「ええー、それじゃあ、ティエリーの声が聞けないじゃないか」

「もう、君は今日テニスサークルに誘われていたんじゃないのか?」

「ああ、そうだけど、なんで知ってんの?」

 ティエリーはテニスサークルには入っていない。だけれども、好きな人の名前と言うのは、離れたところで話題になっていたとしても、ちゃんと拾ってしまうものだ。

 ティエリーは赤面する。

「うちのクラスのテニスサークルの連中が話していたんだよ」

「確かに誘われて、了承したけどさ、そもそも、サークル活動なんて自由じゃんか。約束を破ったとか、そういうのを気にする連中でもないし」

 確かに、そういう気風はある。誰もがいいかげんで、教官でさえ、遅刻したりなどというのは日常茶飯事だ。誰も気にもしない。すべてが個人の責任だった。

「ティエリーは、本当に堅いよなー。そういうところが好きなんだけどさ」

 ジルはいちいち、好きだという。

 ティエリーの性格は、そういう気風の中では異質で、嫌われる対象だ。それを好きだと言ってくれる。でも、それは本当だろうか。というか、そもそも、ジルの「好き」とはどれくらいのレベルのものなんだろうか。ジルの好意はとても計りにくい。かと言って、どれくらい好きなのかとは、絶対に聞くことはできなかった。矛盾していた。本当に好きならば、嬉しい。でも、結ばれることがないのであれば、その好意はジルを忘れようとした時に邪魔になるだろう。この恋愛が、遊戯であれば良いと、ティエリーは思っていた。


   ***


 翌日の放課後、ティエリーとジルはシリルを探すために、教室をまわっていた。結局、シリルは下級生らしいことが分かって、下級生のクラスのある階へと足を延ばした。最初にのぞいたクラスでシリルのことを訪ねると、聞いた少年はシリルのことを知っていて、シリルのクラスを教えてくれた。

 そのクラスへと向かう途中で、ジルがティエリーに耳打ちをする。

「なあ、ひとの少ないところで渡した方が良くないか?」

 ジルの提案はもっともなことで、ティエリーも頷いた。本当なら、それとなく渡せば良いはずなのだが、もし、この手紙がラブレターならば、あまり大っぴらになってしまっては可哀想だ。いや、もしかしたら、ティエリーたちのどちらかがラブレターを書いて渡したなんていう誤解が生まれるかもしれない。それは避けたかった。

 教室につくとシリルを呼んでもらった。

 シリルはまだ幼さが残る少年だった。男に好かれても、女には好かれそうのない、男らしさのかけらもない顔立ちをしていた。身長もティエリーよりも低い。ティエリーがシリルと同じ年齢であった時よりも低いだろう。とっても小柄だった。楽器でもやってそうなインテリっぽさもある。気の小さそうな印象だ。

「君がシリル?」

「はい。シリル・イヴォンです」

 ジルが気さくに声をかけると、変声期はまだなのかというくらい高い声が返ってきた。

「俺はテルミナルのジル。ジル・ファビアン・エルランジュ。こっちがティエリー・オーギュスト・ショヴィレ。渡したいものがあるんだけど、ちょっと、来てもらってもいいかな? 用事ある?」

「いえ、寮に戻って勉強するだけなので」

「ホント? 時間もらって悪いね」

「いえ。支度をするので、少し待って頂けますか?」

「うん。廊下で待ってる」

「すみません」

 シリルはきびすを返すと、教室の自分のロッカーへと向かった。それを見て、ティエリーたちは、少し下がって、廊下の壁に寄りかかってシリルを待った。

 ジルの言葉は巧みだ。シリルに「渡したいものってなんですか?」という質問を口にさせなかった。おそらく、当然、疑問に思っているはずだ。

「お待たせしました」

「いーえ。悪いね」

 シリルはすぐに戻ってきて、ティエリーたちは歩きだした。

「どこで渡す? ガゼボがいいかな」

 ジルはティエリーに意見を求める。

「うん。寮に戻るなら、通り道だし、いいんじゃないか?」

 もしかしたら、多少は通行人が気になるかもしれないし、ガゼボがちょうど空いているかも分からないけれど。

「ガゼボが空いてなかったら、僕の部屋でもいいよ」

「ああ、そっか。そうだな。てか、最初からティエリーの部屋に行くか」

「シリルが、それでも良ければだけど」

 当然だが、下級生が上級生の部屋へ入るというのは、緊張するものだ。ましてや、自分よりも身長の大きい人間二人と一緒なら余計にだ。

「僕は、かまいませんけれど、いいんですか?」

「かまわないよ」

 この時だって、シリルは気になっているはずだ。一体、何を渡されるのだろうかと。それでも、黙ってついてくる。ちょっと、おかしいのではないかと、思うほど。

 ティエリーたちは、広い庭園を抜けていく。庭園を抜けると、バカでかい寮の建物が見えてくる。寮は何棟にも分かれているのではなく、全校生徒全員が入室できるひとつのビッグマンションだ。出窓が外壁をびっしりと埋めつくし、巣のようだ。下級生は四人部屋や二人部屋で、テルミナルになると、一人部屋が与えられる。毎年、引っ越しで大騒ぎになるのだ。

 寮は円形をしているため、日の当たらない北側が下級生、南側が上級生という風に区分けされている。ティエリーの部屋もジルの部屋も南側だ。寮の入り口も南側にあるので、校舎へ向かうにも一番アクセスが良い。これが、最上級生の特権だ。

 寮に入ると、階段を上る。ティエリーの部屋は三階だ。ジルの部屋は二階にある。ジルの部屋でも良いのかもしれないが、ジルがとにかくティエリーの部屋に入りたがった。だから、二人が寮で一緒に課題なんかをする時は決まってティエリーの部屋だった。

 三人はティエリーの部屋に入った。一室は五十平米以上ある。余裕でソファーが置ける広さだ。造り付けのベッドも大きめだ。ミニキッチンもある。シャワー室もある。洗濯室は部屋にはないが、それでも生活に不便はない。

「お茶を出すよ。コーヒーがいい? 紅茶がいい?」

「俺、コーヒー」

 すぐにジルが注文を出す。

「あの、でも」

 シリルは流石に遠慮しているようだ。何かを渡されるだけだというのに、お茶までもらうというのは変だ。ましてや、初対面でだ。

「いいよ。遠慮することはないよ。ここまで来てもらったんだもの。それとも、勉強が忙しい?」

「いえ、そんなことは」

「スキップしてるもんな」

「一級だけです」

「普通はさ、スキップしたって、なかなかスキップした先の学年でついていけるもんじゃないよな」

「僕はスキップしてなくても、ついていくのがやっとだもの」

「適当に座って」

 ジルはいつもの通り、すでにソファーに腰掛けている。シリルは落ち着かない様子で、サブチェアーに腰かけた。「あの、それで、渡したいものって何でしょうか」

 ティエリーは答えなかった。ジルも、ティエリーの様子を伺っていた。

 ティエリーがコーヒーを三つ持って来てから、話しは始まった。

「この本、知ってる?」

 ティエリーはジルの横に座ると、例の本をシリルに見せた。

 瞬間、シリルの表情が強ばった。

「知ってます。以前、図書館で借りました。でも、それが何か?」

「この本にね、君宛の手紙が挟まってたんだ」

「手紙……」

「もちろん、中身を読んだり、なんてことはしてないけど、まあ、もしかしたら、秘められたものなんじゃないかと思ってさ」

「手紙なんて、僕知りません」

「まあ、未開封だったからね、そうじゃないかと思ってさ。これが開封されたものならわざわざ君を呼びだして返したりしないよ」

 シリルは俯いて黙ってしまった。

「差出人はラファランってヤツ。心当たりがあるんだろう? 意味深だもんなぁ。君が読んでた本に挟んであるなんてさ」

「これが、その手紙だ」

 ティエリーはラベンダー色の封筒をテーブルに置いた。

 シリルは変わらずうつむいたままだった。

「単なるラブレターなら、別にいいよな。でも、そうじゃないなら、余計、君はこの手紙を読むべきだと、俺は思うけどね」

「別に、僕たちは、君が男からラブレターを貰ったとか吹聴したりはしないよ。誰にも言ったりしない」

 そう言っても、シリルは顔を上げなかった。両手を膝の上で強く握りしめているようだ。何かを、堪えているように。

「ラファランは君の友人?」

 ジルが聞いても、シリルは答えない。

 どうしたらいいのか、ジルもティエリーも困ってしまう。二人は顔を見合わせた。

 どうにも、ただのラブレターではなさそうだ。

「相談なら乗るよ」

 ティエリーは言った。

 何だか、可哀想に見えてきたのだ。相談なんて乗れるほど、恋愛経験豊富でもなんでもないのに。

「手紙、読んでみたら?」

「いいんです。……読んだら、忘れられない」

「忘れたいのか? ラファランを?」

「嫌なことされたのか?」

「そんなんじゃありません!」

 小さな声でしゃべっていたシリルが声を荒げた。

 ティエリーもジルも少し驚く。

「忘れたいのに、忘れられないわけか」

 ジルの言葉にシリルははっとしたように顔を上げた。でも、すぐにまたうつむく。

「ふうん。ラファランってやつのことが好きなんだ。なんで忘れたいわけ?」

「そんなこと、なんで先輩に言わなくてはいけないんですか!」

 それもそうだ。とティエリーは思う。

「でもさー、じゃあ、これ、どうすんの? 捨てちゃっていいの?」

 ジルの少し意地悪なものいいに、シリルは即答できなかった。

「好きな人からもらったもんって捨てられないよなー」

「下手に捨てられないだろう。これは。君の名前が書いてあるんだから」

「俺たちが見つけてよかったってもんだよなー」

「預かっては、頂けないでしょうか?」

 シリルは怯えたように言う。

「いつまでだよ」

 ジルの問いに、やはり、シリルは答えられない。

「ジル、そんなに苛めなくても」

「だってさー、読んでもいないのに、うじうじ悩むっていうのはさー、なんていうか、アタマ悪くないか?」

「こらっ」

 ティエリーはジルを小突く。

「じゃあさ、俺たちが読んでもいい? それでさ、大ざっぱな内容を君に伝えるよ。その方がなんとなくショックが小さいだろ」

「ジル、君はただ好奇心で読みたいだけなんじゃないのか?」

「だって、話が進まないじゃんか」

「読んでもいいのか?」

 ティエリーが伺うが、シリルは何か言いたそうにするものの、その口はなかなか開かなかった。

 その間に、ジルはすでに手紙を開封していた。あ、とティエリーが振り向くも、もう遅い。シリルもジルが手紙を読むさまを、息を殺し凝視している。

 手紙を読み終わると、ジルは息を吐いて、考える素振りを見せる。

「シリル、やっぱ、これ預かっとくな」

 その台詞に驚いたのはシリルだけではない。ティエリーも驚いた。でも、シリルは、少しして「お願いします」と言った。

「なら、この話は今日はお終いな」

 ティエリーは手紙の内容が気になったが、それは好奇心と同じものだ。自分からは聞くまいと誓った。

「まあ、コーヒーでも飲んでから帰れよ。な?」

 まるで自分が煎れたもののようにジルは振る舞う。別にかまわないのだけれど、と思いながら、ティエリーも勧めた。

「冷めちゃったから煎れ直すよ」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

 まだ顔は強ばったままだったが、シリルはコーヒーを飲んでから、頭を下げてティエリーの部屋から出て行った。

 ティエリーは少しほっとした。ティエリーも知らず、緊張していたのだ。

「じゃあ、ジル、手紙はきっちりと保管しておいてよ」

「え、ティエリー、手紙のこと気にならないの?」

「気になるけど、僕はひとの手紙を読むような趣味は持ち合わせてないよ」

「えー、読んでもいいって言ったじゃん」

「言ってないだろ!」

 まったくと、ティエリーはため息をついた。

「ティエリー、俺さ、ラファランに会ってみたいんだけど」

「会ってどうするのさ」

「確かめるんだよ」

「何を?」

「シリルのことをまだ好きかどうかを、さ」

 ティエリーはジルが何を考えているのか、なんとなく分かった。ようは、まだ好きなら、シリルと引き合わせようという魂胆なのだ。そうでないのなら、このままずっと手紙を預かっておけばいい。もしくは、ラファランに返すか。

「お人好しだね。君は」

「だって、両想いなのに別れるとか、おかしいだろ」

「何か事情があるんだろ」

 ジルの言葉から手紙の内容や、シリルとラファランがどういった関係だったのかが伺い知れる。

 二人は付き合っていたのだ。でも、何かしらの事情があって、シリルから別れを切り出して、一方的に別れた。でも、未練のあるラファランは手紙を書いたのだ。

(でも、本に挟むって……賭でもしてたのか?)

 ティエリーは本を手にとって見る。まだほとんど読んでいなかった。冒頭を読んだ限りでは、貧乏人の少年と金持ちの家の少年の友情ものがたりのようだと思ったが、二人にとって何か意味があったのだろうか。ティエリーは考えを巡らせた。

「なあ、俺、ラファランのこと調べてみるからさ、会う時は一緒に来てくれない?」

「どうして?」

「えーだって、下手したら男にこの手紙を渡すことになるんだぜ。一人じゃやだよ、そんなの。俺にはティエリーがいるのに、誤解されたらどうしてくれんだよ」

 ティエリーはまた深いため息をついた。息が床に届くくらいの盛大なものを。


   ***


 ジルが「ラファランに会いに行く」と言ってきたのは、シリルに会ってから数日たってからだった。

 ラファランは卒業生だった。ジルは名簿で探し出し、通う大学の学部も調べていた。

「問題は顔が分からないことだよなー……」

 ジルはつぶやく。

 放課後になってから、ティエリーたちは学園の敷地から出た。週末になれば教会へ行ったりするので、外出するのは別に珍しいことではないし、特別許可が必要だったりはしない。

「それで、どこへ行くんだ?」

「ここ、フォレスト・パーク・ガーデン」

「大学は隣町のフィルマンだろう?」

 フォレスト・パーク・ガーデンは学園のすぐ向かいの森林公園だ。手入れが行き届いていて、緑が多く、夏は涼しい。息抜きの散歩にはちょうどいい場所だ。

「ラファランがさ、手紙にここでずっと待ってるって書いてるんだよ」

「ずっとって……」

 そんな言葉はにわかには信じられない。手紙が書かれたのがいつかは分からないが、少なくとも十ヶ月は経っている。待っているはずがない。

「本気で待っていると思ってるのか?」

「そりゃあ、本当にずっと待ってるとは思ってないけどさー。でも、もしかしたら授業終わってからは来てたりするんじゃないかって」

「フィルマンからここまで? 毎日歩いて?」

「汽車があるじゃないか」

「いくら、学生が割引料金だからって、汽車の本数は少ないし、歩いた方が早いだろ」

「まあね。でも、俺だったら、もし、この手紙を俺がティエリーに向けて書いたとしたら、俺なら毎日来るね!」

 熱烈な告白に、ティエリーは呆れてしまう。ジルなら、ありえるのではないかと思える。なら、ラファランも同じだろうか。

 ティエリーとジルは公園の奥へと歩む。学園の庭も心地よいが、こうまで広いと、学園の庭はミニチュアに思えてくる。

 しばらく歩くと、ひらけた場所へ出た。芝生が敷き詰められていて、多くの人がそこで読書をしていたり、ちょっとしたスポーツを嗜んでいたりしている。

「ここかな」

 ジルが立ち止まった。

 そこには、シンボルツリーのような大きな木が立っていて、近くにベンチもある。

 二人はそのベンチに座った。

 涼しい風が吹く。

「暇だな」

「本でも持ってくれば良かったな。てっきり、大学へ行くのかと思ってからな」

「大学の講義が終わるのって、どれくらい?」

「六時くらいだろう? それからここまで歩いて来たとしたら、七時くらい?」

「夕飯の時間になっちゃうじゃんか」

「そうだね」

「今日が早い日だといいけどなー」

「そんな都合良くいくかな」

 帰ろうかな、とティエリーは早くも思い始めた。

 ジルは横で講義が四限で終わったら、と時間の計算をしている。四限で終わりなら、五時半にはつくだろうか。それにしても、まだ三十分以上はある。最初は大学へ行くつもりになっていたティエリーだが、考えてみれば、大学に行ったとしても会えるとは限らない。

(住所とかを調べて、こっちから手紙を書いた方が早くないか?)

 ティエリーはぼんやり思う。

「これ見よがしに手紙を出しとくか」

 ジルはポケットから手紙を取り出した。少ししわになっている。

「あー暇だなー……ティエリー、膝枕してくれよ」

「バカか」

「えー、いちゃいちゃしてないと、間が持たないよー」

 本があれば叩いているところだ。さすがに、素手では叩けない。これでも、ティエリーはジルのことが好きなのだ。かと言って、膝枕など、こんな公共の場ではとんでもないことだ。ティエリーの部屋ではしばしば許してきたが、ティエリーはそれを後悔した。でも、無為に時間を過ごすのはもったいない気もする。ティエリーがぐるぐると悩んでいる間に、ジルはすっかりその気で、ベンチを占有して頭をティエリーの膝に乗せてきた。

「それっぽい人が来たら起こしてー」

「寝る気か?」

「眠くなってくるよなー。ティエリーの膝枕は」

 ティエリーは短く息を吐くと、なんだか自分まで眠気を覚えてくる。ジルの胸で組まれた手の下にはラベンダー色の手紙がある。

(それっぽい人ってなんだ? だいたい、本当に待ってるのか?)

 きっと、この公園は二人のデートコースだったのだろう。でなければ、この公園の、こんなピンポイントで待っていると言うわけがない。そして、おそらく、シリルは別れて以来、この公園に足を踏み入れてはいないだろう。そうならば、偶然でも会っていそうなものだ。

(シリルの別れなくちゃならない理由ってなんだ? 必死になって忘れようとするほど、好きなのに)

 そんなことを考えているうちに、ティエリーのまぶたも重くなって、本当にうとうとしてくる。ついに意識が飛んで、どれくらいたったのだろうか、ティエリーたちは老婦人の声で起こされた。

「ごめんなさいね、そこに座りたいのだけど、いいかしら?」

「ああ、すみません、どうぞ」

 ティエリーはジルを軽く叩いて起こした。

「うあー、すみません」

 ジルは起きるとすぐに婦人に場所をゆずる。

「ふたりとも、アツアツなのねぇ」

 婦人はにこにこと微笑みながら言う。

「いやー、そうなんですよ」

 ジルが冗談っぽく言う。

「ごめんなさいね、お邪魔してしまって」

「アツアツではありませんから、いいんですよ」

 ティエリーもにこにこと言う。

「リセの学生さん?」

「はい」

「前もね、仲良しのリセの学生さんがそこの木の下でおしゃべりをしてたのよ。最近は片方しか見ないけれど……きっと、大学に通うようになって忙しくなっちゃったのね。残念だわ。私の目の保養だったのに」

 それは、シリルたちのことだろうか。

「その片方の方って、今でも!?」

 ジルは話に飛びつく。

「ええ、今でも、背の高い子は見かけるわ。アパートが近くなのかしらね」

 この辺りに大学はない。普通は大学の寮に入寮するが、現在ではなかなか卒業できない学生が増えて、その分学生という身分の人間が増えて寮の部屋が足りていないという。個人でアパートを借りてこの近くに住んでいたとしても、おかしくはない。この国では何より学生が優先される。部屋代もそんなに高くはない。

 そして、やはり大学生は忙しい。恋人と付き合っているようでは、卒業できないと言われるほど、勉学に集中しなくてはならないと言われている。もしかしたら、シリルはそのことを心配したのかもしれないと、ティエリーは考えた。

「あ、ほら、あの人よ」

 婦人は指を指す。

 その方向に、確かに背の高い青年がこちらへと歩いてくるところだった。

「ラファランさーん!」

 ジルが素早く立ち上がって、彼の方へと走って行く。彼が、ラファランかどうかも確かではないというのに。しかも、初対面の相手だというのに。ティエリーも驚いたが、その青年も何事かと身構え、驚いているようだった。

「あら、お知り合いだったの?」

「あ、いえ、先輩ですからね」

「ああ、そうね」

 ジルは青年と話をしている。本当にラファランなのだろうか。様子を見ていると、ジルがティエリーに向かって手を振っている。こっちへ来いという意味だろうか。ティエリーは腰を浮かした。

「ティエリー、ビンゴだった。ラファランさんだって」

 ジルはティエリーに告げると、自己紹介を始めた。それが終わると、ラファランは切り出す。

「それで、俺に何の用なんだい?」

「大学はフィルマンですよね? ここへ来るのって、やっぱりシリルに会うためですか?」

 ジルの言葉に、ラファランは顔を硬直させた。

「シリルを知っているのか?」

「この間初めて会いました」

「それで、なぜ俺に?」

「シリルに会いたいですか?」

 ジルは、ラファランの問いには一切答えずに、核心に触れた。

「会いたい」

 ラファランの答えは、ティエリーの心を震わせた。なんて羨ましいことだろう。こんなに想ってもらえて。彼のその切実な願望が切なくて、まぶたが熱くなった。


   ***


 ラファランに会って翌日、さっそくシリルの元へ向かった。ティエリーたちの顔を見るなり、シリルは表情を固くした。

 もしかしたら、これは残酷なことではないのだろうか。シリルは、好きで別れたわけじゃない。ラファランが大学生になったからとかではないだろう。これだけ、愛し合っていたのなら、そのくらいなんてことないはずだ。ティエリーはそう思うようになっていた。

「ちょっと来てもらいたいんだけど、時間ある?」

 ジルはあくまで軽く言う。だけれども、そこに断る余地などない。今日がダメなら、明日。明日がダメなら明後日と言うだろう。シリルもそれを十分に感じ取っている。ティエリーたちは嫌な先輩に見えることだろう。シリルは黙ってうなずいた。何も言わずに、支度をしてくる。また、三人一緒に校舎を出た。だけれども、寮には向かわない。そのまま、学園の門をくぐって、敷地から出た。公園の入り口は目の前だ。

「待って下さい。どちらへ行かれるんですか?」

 シリルは足を止めていた。

「公園だけど、嫌か?」

「なんで、公園……」

「ラファランとの思い出の場所なんだろ?」

「なんでそれを」

 ジルは意地悪な笑みを見せる。ティエリーにはしない顔だ。

「手紙に書いてあった」

 ジルは言って公園に入っていく。ティエリーも続く。でも、シリルの足は重かった。

「なになに、ラファランに会っちゃうかも、とか思ってんの?」

「そんなことは」

「だったらいいじゃん」

 シリルはうなずくしかない。三人は公園の中へと入って行った。

「あの、ご用事はなんでしょう?」

「いいじゃんいいじゃん。ちょっとくらい散歩してもさ」

「あの、でも、困るんです。テルミナルの方と何度も会ったりするのは……」

 シリルの言うことは分からないでもない。その相手が、人気者のジルならばなおさらだろう。

「えー、なんで? てか、シリルのクラスにも、俺の友達いるんだけど」

「それは、そうかもしれませんが、ジル先輩とも、ティエリー先輩とも同じ学年になったことは一度もありませんし……」

「えー、でも一学年違うだけなんて、そんな変わらないだろ?」

「気にすることないだろう。学年が違くても、サークルが同じとかはザラだしな」

 ティエリーも加わる。あまり、説得力はないけれど。ティエリーは何のサークルにも参加していないからだ。

 そんなことを話しているうちに、例の、シンボルツリーのところまで来てしまった。すでに、先客が、ツリーの下にいる。

 シリルがそれを見つけて後ずさった。今にも出口に向かって走り出しそうなシリルを、ティエリーは何気なく牽制した。

 ラファランが気がついてこちらへやってくる。シリルはラファランに対して背を向けた。

「シリル、会いたかった」

「僕は、会いたくなかった!」

「俺のこと、好きだから、来てくれたんじゃないのか?」

「違う! そんなんじゃない!」

 好きではないと言われたラファランは、口をつぐんでしまう。

「違うだろ。ラファランのこと好きなんだろ? だから、会うの我慢してたんだろ?」

 シリルは答えない。

「シリル、俺たちは結ばれないって言うけれど、違うだろう? 結ばれるだろう?」

「結ばれない。結ばれるわけない! 誰も、誰も認めてくれない」

 シリルは、既に泣いていた。ティエリーには、それが見えていた。

「誰も認めてくれなくても構わないさ」

「そんなわけにはいかない」

「それは、俺のためを想って言ってくれてるのか?」

 わざわざ聞かなくても、そうだろう。とティエリーもジルも思う。

「そうなら、それは俺の問題だ。シリルが気にすることじゃない」

「気にするよ! 気に、するよ……」

 そうだ。好きな人が、自分と一緒にいるせいで認めてもらいたい人に認めてもらえなかったら、それはどれだけ苦しいことだろう。ティエリーの胸も重く沈んだ。

「俺は、誰かに認めてもらえないことより、シリルが側にいないことの方が辛いよ」

 それは、きっとシリルも同じだろう。

「シリル、この手紙、君に返すよ」

 ジルはシリルにラベンダー色の封筒を渡した。

 シリルは、それを受け取って、大事に胸に抱えて泣き崩れた。

 ティエリーとジルは、その場を離れる。

 もう、二人は大丈夫だと、そう思ったから。

(よかったな、シリル。好きな人に、欲しい言葉を貰ってさ)

 ティエリーは、ジルからも、そんな言葉が欲しかった。くれないのなら、別れようと、何度も考えてきた。ジルは、いつ、ティエリーの欲しい言葉をくれるだろうか。

 ティエリーは、嬉しそうに歩くジルを静かに見つめた。


   ***


 あれから、ティエリーはジルから距離を置いた。居留守さえ、使った。今年はクラスが違って良かったと、ティエリーは思った。

 ティエリーは借りていた本を読み終えていた。友情ものがたりだと思っていたが、違った。夢の中で「僕たちずっと一緒にいようね」と言おうとしたところで、お金持ちの友人は消えていて、現実でも、その友人は帰らぬ人となっていたのだ。なんて切ないのだろう。主人公の言葉は、泡のように消えてなくなってしまったのだ。一緒にはいられなくなってしまったのだ。

 自分たちも、そうなんだと思った。「ずっと」なんてない。いつかは、一緒ではいられなくなる。家族には、なれないから。

 でも、ティエリーの限界はすぐそこまで来ていた。ちょっと離れていただけで、こんなに苦しい。なら、いっそのこと、このままつき合って、いつか別れた時に死んでしまえばいいじゃないかと思えてきた。

(それでも、やっぱり、言葉は欲しい。欲しいよ、ジル)

 こんな苦しみを十ヶ月も我慢していたシリルはすごいと思う。ティエリーには無理だ。死んでしまう。

 最近は寮の部屋の扉がノックされることもなくなった。ジルは、もう自分のことを忘れただろうか。ありえそうで、ティエリーは怖かった。

 ジルを避けて二週間と三日、ティエリーは隙をつくることにした。

 放課後、園庭のガゼボで昼寝をした。

(ジルは、僕のことを見つけてくれるだろうか。欲しい言葉を、言ってくれるだろうか)

 そう思いながら、目を瞑る。

 言ってくれたとしても、軽そうだな、と思うと、ふと笑ってしまった。

(それでもいい。だって、そういうものだろう)

 そこまで考えて、気がついた。

(ジルも、僕の言葉が欲しいのだろうか)

 うーん、あんまりそんな風には見えないなーとやっぱり思う。根本がティエリーとは違う。ポジティブシンキングなジルは、どんなに好きだと言っていても、そんなに重いものではないだろう。

(このまま大学に行ったら、自然消滅しそうだもんな)

 そう思ったら、悲しくなってきた。

「ティエリー、泣いてるのか?」

 突然のジルの声にティエリーは驚いて顔を上げた。その勢いで、目から涙がひとつぶこぼれた。

「なんで、泣いてるんだ? 誰かに……まさか、俺たちのことがバレたとか? だから、俺を避けてたのか?」

「ちが、そんなんじゃ」

 ティエリーは涙を指でぬぐう。

「じゃあ、なんで……」

 ジルの声が暗くなった。

「俺は別れないからな! き、嫌いになったっていうんなら……ティエリーが、そんなに、俺のこと想ってないのは知ってるけど」

 ティエリーはぎょっとする。誰が、そんなに想ってないだって?

「でも、俺は、俺はそれでもいいから! ずっと、プラトニックでも、いいと、思ってるから……嫌いになったのか?」

 ティエリーはまだ驚いていた。こんなに必死なジルを見たのは初めてだった。

「ジル、ありがとう。でも、僕、欲しいものがあるんだ」

「欲しいもの? 両親に認められたいとか、そういうのか?」

「そんなのはいらないけど。ラファランだって、そう言ってたじゃないか」

「じゃあ、何? 俺がいたら、手に入らないのか?」

 ティエリーは必死なジルがおかしくて、笑ってしまう。

「僕の欲しいもの、くれるまでは、僕は君とは付き合わないよ」

 言って、ティエリーはガゼボのテーブルにつっぷした。

「え、何? 物なの? え、俺買える? 買えるもの?」

 ジルはそこではっと何かに気がついたようだった。

「ちょ、ちょっと待って、明日……じゃ買えるか分からないな……あー、でも、必ず、君に渡すから、それまで、誰かのものにはならないでよね!」

 ジルの、知らないが故のとんちんかんな言動に、ティエリーは心配になる。いったい、何を買おうとしているのかと。でも、これ以上ヒントをあげるわけにはいかない。

「絶対だよ! 絶対だから、待っててよ!」

 そう言ってガゼボ出ていくジルに、ティエリーはうんとも言えずに、ただ見送った。


   ***


 それから週末を挟んでの五日後、ジルはわざわざ、ティエリーのクラスに来て、放課後会う約束を取り付けて行った。

(いったい、何を買ってきたんだろう)

 ティエリーには皆目、見当もつかなかった。これまでに何か物が欲しいなどと言ったことはない。

(あんまり高価なものじゃないといいけど)

 それでも、さして心配していないのは、ジルが上流階級の人間だからだ。

 ティエリーは先に約束のガゼボへと来た。

「ごめん、待たせた!」

 ジルはそれからすぐに来た。

「そんなに待ってないけど」

 ジルは走って来たようで、息が上がっていた。テニスで一試合したってケロリとしている彼が、息を上げているのは、余程全速力で走って来たのだろう。ジルの息が整うまで少し待った。

「あー……えっとさ」

 ジルはもじもじとしている。本当に珍しいことだ。

 ジルはズボンのポケットから箱のようなものを出した。どこかで見たことのあるような箱だ。貝のように、パカっと開くタイプの。

「俺と、ずっと一緒にいて下さい!」

 箱の中身は指輪だった。銀だろうか、プラチナだろうか、もしくは、銀メッキだろうか、シンプルなデザインの指輪が、あった。

 ティエリーは驚いていた。欲しかった言葉を、聞き流してしまうほど。

「え、これじゃなかった? 違った?」

 ジルは俺ってかっこわりーと赤面して頭を抱える。

「違ってない」

 ティエリーはそれを言うのが精一杯だった。口元を押さえなければ、嗚咽がもれてしまうから。

「ティエリー、泣いてくれてんの?」

 嬉涙は、なかなか止まらなかった。

 指輪をはめて、キスを交わす頃には、空の色がオレンジから紫へと変わる時間になっていた。

「ジル、ありがとう。ずっと一緒にいよう」

 たとえ、現実がそれを許さなくても。その言葉が幻になったとしても。


    おわり

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欲しい言葉 真乃晴花 @10nenmanoriko

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