花守幽鬼伝
青柳朔
第一章 一葉落ちて天下の秋を知る
第一話
この地に穢れが満ち、人々困窮す。
一人の女が天より与えられし花を咲かせると、あらゆる不浄が払い清められ、大地は平穏を取り戻した。
女は
*
「もう……まただわ」
季節は涼やかな風が吹く秋。
花守である香雪は、冬に向けて秋の花々を育てなければならないのだが、どうにもうまくいかない。
これは冬越しのための最後の準備だ。ここで手を抜くと、冬を無事に越せるか怪しくなる。冬はただでさえ邪気が増える季節なのだから、備えは多ければ多いほどいい。
しかしここ数日、冬越しの花の準備がまったく進んでいなかった。
「手順に間違いはなし、気候も例年と大きく変化していない、加えて水やりも忘れていないし、土も他の花と同じだから問題ない……と」
香雪は指を折りながら要因となりそうなことを確認する。
香雪は花守としてまだ経験が浅い身ではあるが、彼女の落ち度ではない。
花守の仕事は、花を育てること。花守が育てた花々は
遥か昔、まだこの地が志葵国ではなく、四つの国に分かれていた頃の話だ。戦や疫病でたくさんの人々が息絶え、地には邪気が溜まった。それを天花を使い払い清めたのが四国の一つ、春珱国のとある公主である。
そののち四国は
もとより都である
冬は他の季節に比べて花が少なくなる。だからこそ香雪は毎年冬に備えて、まだ暑いうちから多めに花を育てて乾燥花や精油を作っているのだ。
しかし。
「三日前に芽が出た子たちもみんな弱々しい……このままじゃ大きくなる前に枯れてしまうわ」
顔を出したばかりの小さな芽は、たった数日で色も悪くなり元気がなくなる。香雪も最初は病気か何かと考えていたのだが、どうにも違う。
「人にはまだ影響が出ていないみたいだけど、邪気が増してきているってことでしょうね」
邪気は何もせずとも自然発生するものではあるが、幽鬼の類の影響をよく受ける。邪気が増え過ぎれば疫病が流行り始めたり、不作が続いたりと、国の
香雪はいつもと変わりなく仕事をしていた。手を抜いたわけでもなければ、大きな失敗をおかしたわけでもない。
ならば考えられる要因はひとつだ。
「
太陽が沈み、藍色に染まった空に月が浮かんでいる。今夜の月は灯りもいらないほど明るかった。
香雪としてはすぐにでも苦情を入れたいところだったが、こちらにも仕事がある。昼間はとにかく花の世話に追われて、出かけるような暇はない。
それに、夜のほうが何かと都合がいい。
志葵国には季節の名を冠する一族がある。それらはまとめて
花を育て邪気を払う花守……
女の一人歩きは危険だが、香雪はそんなことは気にしない。引き連れて歩くような従者はいないし、一人のほうが動きやすい。
夜の
歩み寄る間に、月が雲に隠れる。月明かりが消え、夜に相応しい闇が辺りを包み込んでいた。
「ねぇ、あなた、冬家の人よね?」
男は抜き身の剣を片手に振り返る。灰色の髪に、青灰色の瞳の青年だ。
筋肉馬鹿と香雪が言うように、その身体は夜闇の中で見てもしっかり鍛えられているのだとわかる。
「そ、そうですが……? こんな夜に女性が一人で何をしてるんですか」
青年は困惑しながら香雪を見た。
「わたしは……」
香雪が口を開いたとき、雲に隠れていた月が再び顔を出す。月光が惜しみなく地上を照らし、闇夜に紛れていた香雪の姿も、青年の目にはっきりとうつる。
邪魔にならないようにと二つに結った金の髪が月明かりに照らされ輝いていた。男を見る瞳は翡翠色。志葵国の者ならばそれだけで香雪が何者かわかる。
「……花守?」
青年は香雪を見てそう呟いた。
黒髪黒目が一般的な志葵国の民の特徴であり、四季家の者でも限られた者だけが『色』を持つ。
春家において、その色は金と翡翠だった。それはすなわち、花守となる者である。
「そうよ。あなたが冬家の現当主? もっとおじさんだったと記憶してるんだけど……」
香雪が何度か顔を合わせたことのある冬家の当主は、もっと岩のような大きな中年の男だった。青年は背も高くたくましい体格をしているものの、岩というほどではない。
「俺は当主代理です。先日代替わりしました」
「……ふぅん? だからここ最近、幽鬼が増えているの?」
香雪の問いに青年は渋い顔をした。
――冬家の役割、それは鬼と成り果てたものを狩ることだった。
幽鬼。幽霊や鬼といったものは見える人間と見えない人間がいるだけで確かに存在している。
人は死ねば冥界へ下り、裁きを受けたのちに生まれ変わることができる。
しかし地上に何かしらの未練があると素直に冥界へは行けない。地上に縛りつけられたまま彷徨う幽霊になる。
それを花の力で慰め冥界へ行けるように手助けするのが花守の役目ならば、彷徨い続けた結果、邪気に侵蝕され鬼と成り果てたものを斬るのが冬家の当主の役目である。
「あのね、とても困っているのよ。幽鬼が増えて穢れも増してる。おかげで冬越しのための花が全然育たないわ。このままじゃ冬を無事に越せるか怪しいんだから」
青年の手にある剣は暗闇でも青白くほのかに輝いている。
志葵国が生まれた折、花守が冬家に贈ったとされる
「わかってますけど、困っていると言われても困るんですよ! こっちだって必死でやっているんですから! 昼は陛下の護衛について夜は幽鬼狩りで、ここ最近ずっと寝不足でふらふらなんですよ! 見てくださいよこのクマ!」
「月明かりじゃクマまでは見えないわよ」
青年が自分の目元を指さすが、比較的明るい月夜だとはいえまじまじと見なければクマなんてわかるはずがない。
「近づけばきっと見えますよ」
「近づいたら悲鳴をあげるわよ」
そこまで嫌がらなくても、とぶつぶつ言いながら青年は律儀に香雪と一定の距離を保った。
妙な沈黙ののち、少し頭が冷えたおかげで互いに名前を知らないことに気づく。
「……申し遅れました。冬家当主代理を務めております、
丁寧に挨拶され、香雪は目を丸くする。
突然文句を言うために現れた香雪に礼を尽くすというのなら、香雪も応えねばならない。
「……
春家と冬家は同格の家であり、かしこまる相手ではない。役目を抜きにすれば明らかに年少の香雪が敬語を使うべきだろう。
いつも年長者相手にはきちんと敬語を使おうとは思っているのだが、時々忘れてしまうのは香雪の悪いところだ。
「これは癖みたいなものですから気にしないでください」
随分と腰の低い人だ、と思いながらとりあえず香雪は頷いておく。
同じ四季家といえど、かたや代替わりしたばかりの当主代理、かたや自分の仕事ばかりでろくに人前に現れない花守ともなれば、お互い顔を知らないのは不思議ではない。
「それで、そちらが激務というのは承知しているけど、今までは何も問題なかったでしょう? それとも冬家は代々寝不足に悩まされていたっていうの?」
「いえ、その……」
「その?」
「えーっと……」
「はっきり言いなさいよ」
目を泳がせながら言葉を濁す青雲に、香雪はイライラしながら睨みつける。
「……嫌なんですよ! 幽霊だの鬼だの! あんな得体の知れないもの怖いでしょう!?」
香雪の視線に耐えかねた青雲が、ようやく白状する。
「…………」
何も言葉が出てこなかった。香雪は同意しかねるし、そうですねなんて優しく同調する気にもなれない。
まさかあの、武芸では右に出るものはいないと言われている冬家の、しかも当主代理を務める男が幽鬼が怖いだなんてなんの冗談だ。
「……なんためにそんなに身体を鍛えているのよ」
「幽鬼ですよ!? 物理が効かない相手なんてどうしろっていうんですか!」
「あなたの持ってるその剣なら物理が有効になるんだけど?」
普通の剣ではろくに斬れない鬼も、祓鬼剣ならさっくり斬れる。使ったことはないので実際どれほどのものか知らないが。
「それは知ってますよ! 使ってますから!」
「それならなんの心配があるっていうのよ! あなた、そんな調子でどうやって幽鬼を狩っていたのよ!」
「目をつぶってどうにか!」
――目をつぶってどうにか!?
香雪は青雲が言い間違えたのかと思ったが、彼は馬鹿真面目な顔をしている。
「そ、それはそれですごいけど! そんなの効率悪いでしょう!? 寝不足なのはそのせいなんじゃないの!?」
「そっちだってもっとちゃんと仕事してくださいよ!? 俺が役目を継いでから鬼が増えすぎじゃないですか!?」
青雲は青雲で、香雪が手を抜いていると思っていたらしい。
「なっ……失礼なこと言わないでもらえる!? わたしはちゃんと仕事しているわよ!」
いくら香雪が青雲よりも年少であろうとも、この言葉は受け入れられなかった。香雪が花守としての役目で手を抜くなんて、ありえないのだ。
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