十四曲目『イズモとの過去』


 __俺の一番古い記憶。それは、父親と母親の怒鳴り合いだった。


 罵声、怒鳴り声、物が壊れる音、割れる音。まだ五歳の俺は、壁が薄い古アパートの狭い一室の片隅で、膝を抱えて怯えてばかりだった。


 その時の俺にとって音は__恐怖。


 聴きたくない音から逃げるように耳を塞ぎ、早く終われと心の中で思いながら、ずっとカタカタ震えていた。

 そんな俺を唯一、守ってくれたのが……イズモ兄さん。


「……タケル、大丈夫だからな。お兄ちゃんがついてるから」


 俺と十歳離れているイズモ兄さんは、怯えて震えている俺を抱きしめ、何度も優しく声をかけてくれた。

 まだ幼い俺にとって、イズモ兄さんは心の支えだ。

 十五歳……中学生だったイズモ兄さんは部活をせず、友達とも遊ばずに。俺を守るため、生徒会の仕事を早々と終わらせて、すぐに帰ってきてくれていた。

 思春期で遊びたい盛りのはずなのに、イズモ兄さんはそれでも……俺を優先してくれる優しい人。


 そう__俺にとって、イズモ兄さんはただ一人のヒーローだったんだ。


 成績優秀、運動神経抜群、カリスマ性もあって生徒会長をしていた、爽やかな好青年。いつも笑顔を絶やさない、優しくて頼れる、誰もが憧れる人気者。

 それが、イズモ兄さんだ。


「大丈夫だ。絶対に、大丈夫だから。お兄ちゃんに任せとけって」


 そう言ってイズモ兄さんは俺の頭を撫でてくれた。

 優しく、頼りがいのあるその手は大きくて、暖かい。俺はその手が、大好きだった。

 イズモ兄さんはその手で、俺の他にも困っている人がいたらなんの躊躇もなく動き、誰であろうと助ける。手を差し伸べ、守る。


 俺だけじゃなく、誰にとってもイズモ兄さんは__ヒーローだ。


 だから俺は、イズモ兄さんのようになりたかった。誰かを助けるヒーローに、俺もなりたかった。

 弱くてなんの力も持たない俺の、理想の姿。それこそが、イズモ兄さんだ。


「__いいお兄さんね」


 そこで、魔女の声が頭の中で響くとカラカラという音と共に、映像が切り替わる。


 次の映像は__それから数年後。両親が離婚した時の記憶だ。


 俺とイズモ兄さんは母親のもとで暮らすようになり、もうあの嫌いな音を聴かずに済む……そう、思っていた。


 だけど、違っていた。俺に待ち構えていたのは平和じゃなく__地獄の日々だ。


「どうして!? どうしてあんたは、イズモのようになれないの!?」


 母親のヒステリックな怒鳴り声。俺に対する罵声が、聴こえてくる。

 小学生に上がった俺だけど、結局イズモ兄さんのようなヒーローにはなれなかった。

 成績は中の下、運動もそこまで得意じゃなく、何をやっても不器用で上手くいかない。

 そんな俺を、母親は叱りつけた。どうしてイズモ兄さんのようになれないのかと、出来の悪い俺を何度も怒鳴ってきた。

 キラキラと輝いているイズモ兄さんと、目元が隠れるほど長い前髪で猫背……根暗で暗い性格の俺。出来のいい兄と、出来の悪い弟。

 母親から出来損ないのレッテルを貼られた俺は、学校でもイジメられるようになっていた。

 根暗で、暗い性格で、地味な容姿。成績もよくないし、運動も苦手だった俺は__虐めるには格好の標的だ。


「あんたのその目が、その顔が……大嫌いなのよ!」


 母親はいつも、最後にそう締めくくる。

 俺は父親似で、イズモ兄さんは母親似。それがより一層、気に食わないんだろう。

 俺を見る度に離婚した、大嫌いな父親のことを思い出し、母親は俺を罵倒してくる。だけど、俺にはどうしようもないことだ。

 俺は望んでこの顔に生まれた訳じゃない。俺は、イズモ兄さんじゃない。

 

 __俺は、俺だ。


 そう反論したかったけど、状況は変わらずにむしろ酷くなる。それが分かっているから、俺はただ黙って俯き、嵐が過ぎるのを待つしかなかった。

 だけど、ずっと耐えられるはずがない。家では母親に、学校ではクラスメイトに。イズモ兄さんを知っている教師にも比べられ、勝手に落胆される毎日。

 どんどん積み重なっていくストレスに、俺は__心を自分から・・・・壊すことで、殻に閉じこもって自分の身を守るようになった。


「……これが切っ掛けだったのね」


 俺の過去を読み取った魔女が、同情するように呟く。俺が中身のない人形になったのは、これが始まりだ。

 だけど、空っぽの中身に愛情を注いでくれる人がいたから、俺の心はまだ完全には壊れていなかった。


「タケル! お前はお前だ。だから、お前らしく生きろ。大丈夫、俺が応援するからさ」


 それが、イズモ兄さんだ。

 イズモ兄さんだけは俺の味方でいてくれて、どんな時も見捨てなかった。いつも俺のことを心配し、思ってくれていた。

 小学生になっても、俺にとってイズモ兄さんは頼れるヒーローのまま。時々、キラキラと輝いているイズモ兄さんを羨ましくなり、出来損ないの自分と比べて勝手に落ち込む時もあった。

 それでも、嫌いにはならなかった。ずっと大好きだった。

 クラスメイトにランドセルを奪われ、蹴られ、ボロボロにされた時。たった一人で孤独に帰りたくない家に帰ろうとしている俺を、イズモ兄さんはすぐに見つけて一緒に帰ってくれた。


「……ねぇ、イズモ兄ちゃん。どうしてイズモ兄ちゃんは、誰かを助けるの? 怖くないの?」


 夕暮れ色に染まる空の下、イズモ兄さんと手を繋いで歩いていた俺は、ふと気になって聞いてみる。

 誰かが困っていれば誰よりも早く動き、誰かが虐められていたら飛び出して守る。時に喧嘩になりそうな時も、イズモ兄さんは軽くあしらって勝ち、戦った相手とも友達になっていた。

 どうしてそんなことが出来るのか。怖くないのか。俺はそれが知りたかった。

 すると、イズモ兄さんはニッと笑いながら俺の頭を撫でながら、答える。


「タケル! 俺はな、つい誰かが困っていたら飛び出しちゃうけど……本当は、凄く怖いんだぞ?」

「そうなの?」

「あぁ。余計なお世話だったらどうしよう、相手が強かったらどうしよう……そんな怖い気持ちでいっぱいだ」


 苦笑しながら言うイズモ兄さんに、俺は目を丸くして驚いた。あんなに格好いいイズモ兄さんにも怖いものがあるんだ、と。


「怖い気持ちをどうやって抑えているの?」

「怖い気持ち、恐怖心はな__抱えたまま、飛び出すんだ!」

「……抱えた、まま?」

「そうだ! 恐怖心はどうやったって消えない! でも、誰かを助けたい! なら、いっそのこと抱えて、そのまんま飛び出す! それだけだ!」


 イズモ兄さんはカラカラと笑いながら、胸を張って言い放つ。

 忘れていた記憶の奥底に刻まれていたその答えを__俺は、思い出すことが出来た。

 怖くて怖くてたまらない気持ちを、恐怖心を……消さずに抱えて飛び込む。


「……それが、坊やの戦うことへの答え。あなたのお兄さんが教えてくれたことだったのね」


 __もしかして、ダメか? 真似事って言われたら、その通りだけど……。


「いいえ、大丈夫よ。それは真似事じゃなく、あなた自身がそうしたい・・・・・という願い。坊やが決めた、坊やの答えよ」


 イズモ兄さんの言っていたことをそのまま俺の答えにしていたけど、魔女はそれを許してくれた。

 俺自身がそうしたいという願い。俺自身が決めた、俺の答え……か。

 この歳になっても、イズモ兄さんは変わらず俺の頼れるヒーローだった。

 カラカラとまた音がすると、また映像が切り替わる。記憶の映像は小学生から、中学生の時のものを映し出し始めた。

 その頃、イズモ兄さんは大学を卒業し、警察官になった。

 正義感が強く、誰にでも優しい自慢のイズモ兄さんには、ぴったりの職業だ。

 母親は警察官になったイズモ兄さんを自慢の息子だといつも言い、逆に俺のことはいないものとして扱うようになっていた。

 でも、それでよかった。俺に期待しなくなった母親は、俺に対して何も言わなくなったから。

 加えて、学校では何をしても反応しない俺に飽きたのか、誰も虐めなくなった。


 ようやく、俺に平穏が訪れる。引っ込み思案で暗い俺に友達はいなかったけど……それでも、幸せだった。


 誰も俺に干渉しない、言ってこない、暴力も罵倒もない。ただ学校に通うだけの生活が、俺にはようやく訪れた幸せの日々だ。

 イズモ兄さんは警察官になり、エリートとしての道を歩みながらも、変わらず俺のことを想ってくれていた。

 学校はどうだ? 面白いか? 友達は出来たか? お前が酒を飲めるようになるのを、楽しみにしてる。

 まるで父親のようになっているイズモ兄さんが、おかしくて笑えた。

 俺がコツコツ貯金して買ったお守りをプレゼントすると、イズモ兄さんは子供のようにはしゃぎながら喜んでいた。

 誰も干渉しない平穏な日々。イズモ兄さんとの会話。最高の毎日だ。壊した心が徐々に元に戻るのを感じていた。


「あら、幸せそうじゃない」


 暗い人生から一転して明るく楽しい人生になっていた中学生の頃の記憶を見た魔女は、微笑ましげにクスクスと笑う。

 そう、幸せだった……その頃までは・・・・・・


 カラカラと映像が切り替わる。俺が高校一年生の記憶が映し出される。

 ゴクリ、と息を呑んだ。これから襲ってくる、忘れようとしていた記憶の蓋が__開かれる。

 ドクンッ、と鼓動が激しくなっていった。本当なら見たくない。思い出したくない。


 でも、俺はもう__逃げない。


 覚悟を決めて、映像に目を向ける。

 高校一年生の夏。茹だるような暑さの、ある日のこと。

 家に帰ってきた俺を待っていたのは、机に突っ伏している母親の姿。

 母親は俺に気付くと顔を上げ、泣き腫らした目を俺に向けながら、青ざめた表情で__言った。


「__イズモが、死んだわ」


 セミの鳴き声が、うるさく聞こえる。

 喉が渇き、額から流れた汗が頬を伝って床にポタリと滴る。

 最初は母親が何を言ったのか、理解出来なかった。

 そして、ようやく思考が追いついた俺は……。


「____え?」


 ドサっと、手に持っていた鞄を落とした。 

 

 

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