4-13 全知全能―神童


「アグニ」

 エノアが確かにそう云ったのを、雪愛は聞き逃さなかった。

 それはかのインド神話にて語れる火の神。

 古いものであればインド最古の聖典『リグ・ベーダ』。後には叙情詩『ラーマーヤナ』などに登場する『ローカパーラ』では八神の一柱である。

 アグニはブラフマーの創造した蓮華から誕生した、とする説から様々な生誕の説がある。また誕生後すぐに両親を食い殺したもあるとか。

「待たせたな氷雪……それじゃあ殺し合い手合わせ願おうか」

 エノアの凍結していた半身は、既にされていた。

「…………こないで……」

 雪愛は震える身体を何とか抑えようとする。だが恐怖に支配されきってしまった身体は、立ち上がる力さえ与えてくれない。

 そして『青い火の玉』の証言が、エノアの仕業だという事にもゾッとした。

「? おいおい、何のマネだ。さっさと立て」

「イヤッ、こないでぇ!」

 途端――エノアの両足が同時に凍結する。

 エノアの表情に苛立ちが走った。

 瞬間――青い炎がエノアの両足に着火する。

「無駄だ」

「なん……で……」

「もう……分かるだろう? お前の半端な魔術じゃ私の炎を止められない」

「やだ。こんなのって……こんなの……うっ」

 雪愛は両肩を抱いて喚いた。

「……またそうやってまたあたしを落胆させるのか。最初の勢いは何処にいったあ? ああ? 氷雪‼」

「…………」

 完全にうずくまってしまった雪愛を、鼻白むようにエノアは見た。

「お前は何で魔術師なんかになった?」

「え」

「お前みたいな半端な奴見てるとイラつくんだよ。そんな奴に負けたあたしはもっとだ。何だ、手前の正義感で犯罪組織でも無くそうってか。ハッ、無駄だ。

 人にとって力の大小なんてちっぽけなモノで、幾らでも恨みや憎しみ合えるクズの集まりだ。もちろん魔術師、いいや術師って奴は、頭一つ抜けてどうしようもない奴らだからな。力を求め、手に入れた所で争うのみ。そこに在るのは自己愛と承認欲求だけだ。下賤な一般社会と同じとは、皮肉だな。

 だから機関に所属してようが、フリーだろうが、犯罪組織だろうが変わらねぇよ。ただ純粋に術を追い求め死ぬ。それ以外に一分の価値も、無い」

 そうしてエノアの全身には、青い炎が揺らめくように纏いはじめる。

「要はお前みたいな奴は一生救われないんだよ」

「……っ」

「ハッ、今更気付いたのか。随分と甘ぬるい奴だとは思っていたが、ここまでとはな。だからあたしは、お前みたいな欺瞞と嘘で塗り固めた――本当の弱者に――鉄槌を――裁きの浄化を下す」

 エノアは奥歯をギシりと擦り合わせ。

「術師世界に――弱者は要らない」

 パチンィと指を鳴らす音が鳴り響いた。

点火イグナイト

 青い炎はエノアを起点に雪面を這い、蹲るうずくま雪愛に向かっていく。青炎は全ての雪を溶かすのではなく、浄化させて無へと帰していく。

 ――いや。もういや。もう……。

「ハハハハハ。じゃあまずは平等に片腕から頂こうかァアア! アハハハハハハハ!」

 青炎が雪愛の右腕の袖に触れ、一瞬にして灰になった。

「イヤァアアアアアアアア!」

 阿鼻叫喚。

 肉体に青炎が触れる――瞬間。

 が雪愛に降り注ぐ。

 次にドガァアアアアアアン! と遅れて上空から耳を塞ぎたくなるような、爆音が轟いた。


 ――弱者に救いの手を差し伸べる――仲間なら、家族なら、命を正義に賭けて守り抜く。


 空間のどこから女の声が反響する。

「……誰だ⁉」

 エノアは天に向かって叫ぶ。

 突如、ぐにゃりと『環境変化』で造られた空間が、捻じ曲げられるように歪んだ。

 歪んだ空間を手に現れたのは、黒コートに身を包む黒髪の少女。その体格、顔には幼さが残る。

「ほう……また馬鹿が場を弁えずに入り込んで来たか?」

 エノアは蔑んだ瞳で少女を一瞥する。反対に少女の瞳は怒りに満ち溢れていた。

「……月歌……ちゃん」

 雪愛は恐怖と驚きが入り混じった大粒の涙を、ボタボタと溢れさせていた。

 そして雪愛はもう一つの真実にも驚愕していた。裾だけは消えてしまっていたが、自分の腕が灰になるどころか、しっかりと残っていたことに。

「遅くなって申し訳ありません雪愛さん。後は……私に任せて下さい」

 雪愛は月歌の真剣な眼差しに、ただ頷くことしか出来なかった。

「随分と生意気な小娘だな。まあいいさ」

「あなたが火焔の魔女――エノア・アトレアですね」

「それがどうした?」

「宮下夫妻殺害……正確には、夫のみ殺害及び、河川敷に児童白骨遺体事件の協力、又はその実行犯ですね」

「えっ……?」

 雪愛は意味が理解出来なかった。

「だからどうした。フッ、もしかしてだか、あたしを捕まえて地下アンダー監獄プリズンに突き出すってか?」

「否定はしませんね」

「もうそこまで分かってるんだ。今更否定して何になる?」

「ならあなたは魔術師でも何でもない――只の人殺しです」

「……フッ……お前このアタシを知ってそれを言うのか。もしそうだとしたら近年稀に見るレベルの大馬鹿者だ」

 エノアは白い牙を見せ、高らかに嗤う。

「月歌ちゃん! 気を付けて、その人はもう……」

「大丈夫です」

「それに私、これ以上『環境変化』維持出来る程、魔力マギアフォース残ってないよ」

「雪愛さん」

 月歌は雪愛に振り向く。その表情は気のせいか、いつもより優し気に微笑んでいた。

「仲間の……」

 月歌は被りを振る。

「大切な妹の力を信じて下さい」

「うっ……グッ……う、ん……」

 雪愛は情けなく鼻水を啜った。

 月歌は深呼吸をする。

 意識を極限まで集中。

 対象をエノア・アトレアに照準。

「お前ら纏めて浄化の炎の塵にしてやるよ」

「すぅ……」

 月歌の瞳の色が、表情が、纏う雰囲気が切り替わった。

 そっと右手を雪面に置く。

 ぶわっと風が辺り一帯に波状し、雪が拡散。

 同時に前髪が掻き上げられる。

 両眼を瞑り、導きを――綴る。


「――神覚情報、起動

 ―――分析牽引、開始

 ――――運動随意性、統御

 ――――――――同調……完了」


 雪愛とエノアはそこで初めて気付く。

 大気中の魔気エーテルを搔き集めて行使する魔術とは似ても似つかない。

 むしろ魔気エーテルの方から月歌のへと自然に収束していく。

 欲しくて駄々を捏ねる仕方のない、子供のように。


「―――脳力ブレインフォース―――解放」


「なっ⁉」と声を発したのはエノア。次の瞬間。

 周囲の圧力が爆発的に膨張した。


「―――神話―――顕現―――」


 それは神代の神秘――故に神のみぞ許される領域。

 直後、ドガァアアアアアアン! と天から月歌に直撃するように雷が落ちた。

 普通ならまず鼓膜が破けていただろう。現にエノアの耳から血が噴き出している。

 だが雪愛と月歌には、それこそ傷一つ見当たらない。

 ただ雷撃を身に纏う月歌の瞳が、スパークした。


「―――Zeusゼウス―――」

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