4-10 赤い悪魔と青の炎

 

 式区詠唱完了。

 突如、空間が振動した。舞い降る雪の形が変化する。

 空気の乾燥が加速する。圧力が著しく低下していく。

 体感温度がマイナス一〇〇度を下回る。

 刹那――異変が起きた。

 炎の海と雪の国。

 互いに超えてはいけない絶対領域であるその境界線が――崩れ始めた。

 絶対零度の如く極冷気が、炎の海を押し潰すように、形を残したまま凍結していく。

 じわじわと塗り替えられる異常現象。

 湧き上がる火の粉、陽炎、暖気、炎の『色』ですら容赦なく蹂躙し、奪い取っていく。

「貴様ッァアアアアアア‼」

 エノアの顔から余裕が消えた。

 残ったのは、焦り、憤り、後は――。

 カチィィインン‼

 甲高く美しさすらも匂わせる冷たい響音が、空間に木霊する。

 炎の海は、術者エノアごと冷気団に飲み込まれ、ここに完全凍結した。

「ハァ……ハァ……ハァ……ハァ」

 雪愛はその場で膝を折る。

 心臓の鼓動が激しく打ち合っている。

 今も全身が微かに震えていた。

 雪愛は力を使い切った。火力重視の魔術師として、正しい戦術とは言えないかもしれないが、エノア相手にはこうするしかなかった。

「やっ……た……ハァ……ハァ」

 遠くで氷象と化したエノアを見る。

「――はっ⁉」

 心臓が飛び跳ねた気分だった。思わずゴクリと息を飲んでしまう。

 エノアが感情として残した最後の情は、焦り、憤りではなく『歓喜』――狂笑だった。

 ドク、ドク、ドク。

 ――大丈夫。落ち着いて。あの人はもう。

 ドク、ドク、ドクドク。

 ドク、ドク、ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。

 脈が異常を訴えている。振戦が激しくなる。

 汗腺が仕事をしないのか、発汗が下着をやたらと濡らす。

 圧迫感が全身を支配し、動悸が止まらない。

 余りの気持ち悪さに嘔吐してしまった。

 ――どうしてこんな……勝ったのは私なのに……あの人の心肺は停止していて、もう少しだけ環境変化を保てば、すぐに出夢先輩が来てくれて。

 メラッ。

「ハッ⁉」

 再度、エノアを見る。何も変化はない。

 しんしんと舞い降る雪。一面を支配する銀世界。

 自分だけが見慣れた世界。

 そこに在るのは、何かに怯えている自分と微動だにしないエノアの狂笑だけ。

 …………だけ?

 メラッ。

 薄い白い煙がエノアを中心に微かにだが広がっている。

 あれは冷気だと雪愛は思い込む。当たり前だと。それ以外に何がある。

 ボワッ。

「えっ……」

 今、一瞬だけエノアの心臓が『青』に光った?

 ボワッボワッ。

「……やめて」

 今度は二度、『青』の光がアルコールを掛けたように燃えて消えた。

 雪愛はカチカチと奥歯を震わせ、唇が乾燥し、青ざめていた。

「……や、やめて……も、もう……こないで」

 急激なストレス反応と恐怖のせいで、今にも失禁してしまいそうなのを必死で我慢する。

 冷気とはかけ離れた白い煙が、蒸気スチームのように濃くなっていく。

「…………ズッ……ズ」

 溢れ出てくる涙が止まらない。情けなく鼻水を啜る。

 ボワッボワッボワッ。

 青い炎が三度、明滅する。

 着火――頭部燃焼の記憶が蘇る。

 五年前、黒焦げになって引きちぎられた頭部が脳裏を過る。

 雪愛は自分の情けなさに、腕を覆って泣き喚いた。

「……ウヴッ……ウァアアアアアアアア」

 雪が溶けていく。

 空間の気温が上昇していく。

 氷象が割れることもなく薄く、薄くなっていく。

 ただ何か、この世には産まれてはいけない女の形をした悪魔がゆっくりと、嗤いながらコツ、とヒールを地面に落とし、産まれた。

「泣いてくれるくらい悲しんでくれて嬉しいよ……」

 びくりと雪愛の肩が震えた。

「ま、以前は自力で脱出出来なかったからな……」

 目を赤く腫らしたことなど気にせず、ただ声の主をそっーと見た。

「ヒッ⁉」

 釣りあがった頬。剝き出しの白い牙。肉付けのよい唇。獰猛な赤い瞳。流れるように伸びた赤髪。

 その左半身は未だに凍結した状態だった。

 握り潰すように右手を携え、そこに湧き出る『青い炎』が、ボワッと灯る。

 青い炎は右手から蠢くように離れ、左半身に点火。そのままゆらゆらと、揺らめきながら優しく氷を溶かしていく。

 その揺らめきは、主の心情を表すように静かに燃えていた。

 そして火焔の魔女は、青いソレを重く冷たい声でこう囁いた。


 ――「Agniアグニ」――と。


 ***


 出夢は、二階の最奥の部屋、血塗られたベッドのある部屋、童男殺しチルドレンマーダーが性魔術を行使していた場所へと戻って来ていた。

「解」

 石扉に貼られた白紙の和紙――【解呪の護符】に淡い光の文字が羅列されていく。

 やがて石扉に描かれていた魔法陣は、色を失うように消えていく。

 ガッタンと石がぶつかり合う音を立てて、石扉は開いた。

 エノアを雪愛に任せて魔力マギアロックの解除に三十五分、出夢の中では最短記録に近しいのだが、そう喜んではいられない。

 何せ雪愛が今相手にしているのは、怨敵火焔の魔女だ。

 出夢は特殊犯罪部門に来たばかりの雪愛が、廃人みたいだったのを知っている。そのせいか余計に不安な気持ちが、どうしても脳裏をチラつかせる。

 だが事態は一刻を争う。

 自分の役目を果たすのが優先だ――と気持ちを整理した。

「よし」

 石扉の先は、地下階段に繋がっていた。

 視界が悪く、『身体強化』の魔術で強化した目が無ければ、降りていくのもままならない。

 階段は螺旋式になっており、小柄な大人が一人通れるか通れないかの狭さだ。

 出夢は腰を下げ、天井に頭を打ち付けないように、コンクリート壁に手を預けながら降りていく。

「っ⁉」

 そうして三階程降りた所で、柔いオレンジ色の明かりがあるのに気付く。

 頭上に最新の注意を払いながら、急いで光の先へ目指す。

「おい誰かいるなら返事を……」

 辿り着いた先で出夢が目を見張らせる。

 約七畳程の部屋には、十五人程の人が座って敷き詰められていたのだ。

 大人が四名、その他は年齢はまばらだが皆が子供だった。

 その中には、響希や使用人の田中もいた。あと一度だけ会ったことのある二十代半ばの地味な女職員もいた。

 だが皆の顔色は酷く青ざめて見えた。よく見れば不安な幼児達は、職員や年長のお姉さんたちに身を寄せている。

「出夢兄さん……どうして」

「響希君? 何故こんな場所に?」

「母さんから聞いてここに来たんじゃないの?」

「響子さん? どういう意味だ?」

 そこで使用人の田中さんが割って入ってきた。

「私が当主に連絡したんです。当主はそこを動くなって仰られて。てっきり助けに来るのは当主かと」

「そ、そんなことが……それより皆無事か?」

 事態が今一度飲み込めない出夢だったが、今は救助を優先すべく響希の顔を見た。

「う、うん。でも赤髪の女の人が……」

 そこで一度だけ出会った事のある女職員が、立ち上がり出夢の元へやって来る。

「あなたはこの前の……もしかしてこの件と関わりが? これは一体何なのですか! 私達は誰かに気切させられて、気づいたら皆ここにいました。そして……髪の赤い女性の方が……変なマネをしたら全員殺すって……」

 女職員は余程の恐怖したのか、その唇は震えていた。

「落ち着いて下さい。今からあなた達をここから逃がします」

「え?」

 その場にいた全員が出夢を見た。

「本当に、私達は助かるのですか⁉」

「はい。その為に来たんです! いいですか、今から指示通り付いてきて下さい」

 その瞬間、その場に居た全ての者たち表情が弛緩し、職員達は思い思いに子供達を抱きしめていた。


 ***


 宮田を抱えた月歌は、舞咲おひさま学園へと辿り着いていた。

 ――やけに静か。

 月歌は正門の門扉から中に入る。

 ――出夢先輩と雪愛さんは先に着いているはずなんだけど。

「――っ?」

 そこで小さな遊具や砂場がある広場が、焦げたり抉れたり、所々破壊の痕があることに気付く。

「もしかして……」

 元々「身体強化」の魔術を行使しながら宮田を運んできていたので、そのまま両目にも強化を施す。

 赤渕メガネの奥にある焦げ茶色の瞳が、薄緑色の光に包まれる。

「やっぱり」

 そこで月歌が確認出来たことは、広場の中央付近に流れる魔気エーテルの歪みだった。

 これは一般的に、空間地形魔術が行使されていることを示す証拠。本来在ってはいけない現象により、空間の魔気エーテルが元に戻そうとする現象から歪みが生まれる。

 魔術師はこれに反発することから、空間地形魔術の『環境変化』は、多くの魔力マギアフォースを吸われる。

 ――ここで雪愛さん達が……早く行かなきゃ。

「ウ……ッ……」

 そこで背中に担がれた宮田の呻き声が聞こえてきた。

 ――まずは宮田さんを安全な場所に連れていかなきゃ。

 月歌は急いで施設へと入っていく。

 施設内は案の定、誰も居そうな気配がしなかった。二階へと上り部屋を見て回る。そこでちょうどベッドのある一室を見つけ、宮田をそこに預けた。

「とにかく今はここで休んでてね……」

 シーツを軽く被せた月歌は、ベッドから離れようとした時、腕を握られた。

 弱弱しい力だった。

「宮田……さん?」

「…………月歌……様……どうか……ご無事で」

 そう言って宮田の意識は再度、眠りに落ちた。

「宮田さん……」

 月歌は宮田の血で汚れた冷たい手をそっと握った。

「ありがとう……皆を助けてくるね……」

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