第10話 声変わりの効用

 どうぞ、と声をかけると、男が部屋に入ってきた。私の顔に浮かんだ失望の色を読み取ったのだろう、その若い男は困ったような表情を浮かべて何か言った。何か言っているらしい、という以外は何も聞き取れなかった。私は思わず鋭く聞き返す姿勢をとってしまった。いささか威圧的に見えたのだろう、若い男はますます萎縮した顔つきになり、気弱そうな笑みを浮かべて自分の喉元を指さし、調子が悪くてうまく声が出ないんですと言った。かすれたり、裏返ったりして聞き取りにくいことおびただしい。


 大丈夫ですか、と型通りに思いやる仕草をしながら、恐らくその時の私は疑わしげな表情を浮かべていたに違いない。いや、怒気すら含んでいたと思う。なぜならまず第一に、男は若過ぎた。よりによってこの肝心な時にこんなに若い男を送って来るなんて。なめられたものだ。第二に、事前の情報ではベテランが来ることになっていた。そのニックネームを聞いて私は年輩の人物を予想し、また期待していた。百歩譲って、仮に若くとも経験豊かなスタッフなら認めてもいい。でもどうみても男は十代の半ばで、おまけにその声は声変わりの最中としか聞こえない。声変わりだって? 豊かな経験からはほど遠いではないか。第三に、おどおどしたこの態度。私は安心を得るために機関に連絡を取ったのだ。不安を募らせてどうする。


 若い男が昔のパントマイマーのような仕草で片手を上げ、私の注意を引きつけた。若いくせに年寄りじみたジェスチャーをするものだ。苦々しく思いながらその男を見つめた。青年がまた何かを言った。相変わらず聞き取りにくい音だった。ところが、今度は不思議にその言葉の意味はすんなりと頭に入ってきた。彼はどこです? そう男が言うのを聞いて、こちらです、と手を差し伸べ私は男を案内した。頭の中に響いたその声は、有無を言わさず自信に満ち、何よりも大切なことに出会うべき相手への尊敬と思いやりに満ちていた。


     *     *     *


 マハリール師は生涯を通じて私の導き手だった。出会いは、かつて私が国の北東部の僻村に暮らす貧農の五男坊としてうちでくすぶっていた頃に遡る。前触れもなく師はうちにやってきた。その時私が何をしていたか正確に覚えている。村中から少しずつ盗んで集めた藁を編んでコースターをつくっていたのだ。コースターは当時その村では気の利いた贅沢品と思われていた。私がつくり、私が仕掛けて、私が流行させたのだった。師が訪ねてきたとき、私は戸口に背を向けてそのコースターを編んでいた。十二歳だった。


 月謝が無駄だからと、私は学校にもあげてもらえずにいた。法律では、親は子供に教育を受けさせる義務があることになっていたが、そんな法律は空文に過ぎなかった。稼ぎもしない子供のために月謝まで巻き上げられるなんて大多数の家庭では無理な話だったのだ。師は両親に伝えた。この子供を引き取る。月謝も出すし、面倒も見る。この子が稼いできたくらいの金額を毎月渡す。あなたがたは何も知らなかったと言いなさい。この子には、このマハリールが教えます。国はあなた方からお金を巻き上げたいんじゃない。優れた人材に出会いたいのです。


 学校が月謝も払わず授業を受けている少年たちに気づいた時には、すでに少年たちのほとんどはめきめきと好成績を挙げ、将来を嘱望される状態になっていた。マハリール師が個人的に預かった分、師の生徒たちは一般の生徒が受けるのとは別に、特別な教えを受けていたのだ。マハリール師の神童たち、と私たちは呼ばれるようになった。半数は一学年飛び級し、二学年を飛び級する者が三人、そして私は三学年を飛び級していた。学校が私たちをやめさせるわけにはいかなかった。なぜなら私たちこそ政府が教育に期待する像そのものだったからだ。


 マハリール師の噂を聞きつけて政府の役人が何度も足を運び、ついにはマハリール師を校長とする学校をつくることになった。師はそれを引き受ける代わりに条件を出した。生徒は自分で選ばせてくれと。いままでもそうやってきた。自分で選んだ生徒だからここまで育てられたのだと。政府は難色を示した。なぜなら彼らは政府高官の子どもたちを、かの高名なマハリール師の学校に通わせることで、法外な授業料を巻き上げようと考えていたからだ。結局答えはその妥協点に落ち着き、政府高官の子弟と、マハリール師が選んだ貧乏人の子どもたち、私たちのように、どうせ無駄だからと学校に行かせてもらえない子どもたちの両方がその学校に入れることになった。


 当時だって、教わっていた私たちマハリール師の生徒にはわかっていたことだが、もちろんマハリール師ならどんな子どもたちだって同じように教えられたはずだ。自分で選んだ子どもたちだから、というのは方便である。就学機会のない子どもたちを救うための駆け引きだったのだ。けれども実際に学校が始まってみると、マハリール師の言う通り、高官の子弟たちと私たちの間には歴然とした差がつき始めた。高官の子弟たちの成績は凡庸でムラがあり、何人かの例外はいたが、総じてぱっとしなかった。対するに私たち最下層の貧困家庭の子どもたちは貪欲に知識を吸収し、遅かれ早かれ全員が国の定めた課程を遥かに超えて行った。


 何人もの俊秀を世に送り出し、ある者は優秀な官僚になり、ある者は軍人として要職への階段を登り始め、ある者は社会に出るや起業してたちまち財界の注目を浴びる風雲児となった。マハリール師の学校は大成功をおさめていた。けれどもそうは考えない者たちもいた。それは定められた通りの年数を学校で費やして、冴えない成績で、結局は親の金を使って名門大学に潜り込むしか能のなかった政府高官の子弟と、その親達だった。彼らは自分の子供たちの未来がつぶされた、いや、自分自身が侮辱されたと感じたらしかった。


 マハリール師が教え方に差を付けたとは思えない。全ては受け取る側の動機付けの問題だった。裕福な家庭に生まれ育ち、何でも周りの者がお膳立てしてくれる環境に育った金持ちの子弟には自分から学ぶ動機などなかったのだ。また学んだからどうなるということもなく、何をしていても恵まれた地位と生活が保障されていた。それでは動機など持ちようがない。それが成績の差の真相だろう。そんな子どもたちに対してもマハリール師なら動機付けできたのではないか。今にしてみるとそう思う。そういう意味では師が、彼ら富裕層を侮辱したというのは本当かもしれない。子弟を送り込んだ政府高官たちが結託して、マハリール師への私的な復讐を誓ったのにはそういう背景があった。


 マハリール師が突然逮捕され、政府高官たちによって拷問を受けているというニュースが広まると同時に革命は始まった。私たち教え子はただちに行動を起こした。軍部にも、文官にも、財界にも傑出した教え子たちがいて、即座にそれぞれが手を打ち、しかる後に手を組んだ。それはまるで入念の打ち合わせがあったかのように見えたが、事実はそれぞれがそれぞれの方法で手を打ち、その後に手を組んだのだった。結果は鮮やかなものだった。


 クーデターからわずか一か月半で革命政権の樹立に成功し、マハリール師を救出した。以後、この国は師を国父として新しい世界を築くこととなった。師は私たちを導く大いなる父親であり、私たちを映し照らす大いなる鏡であった。年齢と病が師を蝕むようになるまでは。師は校長室のベッドに寝たきりになり、もはや世界への関心も失ってしまったかに見える。かつての輝くばかりの叡智は曇り、切れ味の鋭い言葉も鈍り、澄んだ瞳も濁ってしまった。


 師がいつまでも元気で生きていることは望めない。それはわかっている。けれどもいまこのまま師を送るわけにもいかない。なぜなら私たちはまだ革命を遂行中であり、師亡き後の国の形を定めていないからだ。このまま師を失っては、内乱が起こり、虎視眈々と目をつける周囲の国々の干渉を受け、たちまち瓦解してしまうだろう。建国してから三十年足らずのこの国は、まだそれほどに不安定なものなのだ。私たちは最後に一度でいいから師の英断を仰ぐ必要があった。私たち教え子が納得して進むためのひと言を貰う必要があった。こうして極東の某国の機関に秘密裏に連絡を取ったのも、そこにはまさにそのような目的にあった達人がいると聞いたからだった。


     *     *     *


 若い男が師との面談を終え部屋から出て来た。例によって困ったような恥じいるような、かすかな笑みを浮かべていた。またしても聞き取りにくい音が口から発せられた。けれども私にはそれが、どうぞ、彼があなたと話をしたがっていますと何の問題もなく理解できた。私はいつになく慌ただしく立ち上がり、校長室にほとんど駆け込むようにして入った。ベッドでやや身を起こして寝ていた師がこちらを見た。それは懐かしい澄んだ瞳だった。マハリール師。私が話しかけようとするのを制して師は両手を広げ、手話で言った。まずその若者に感謝しなさい。彼は私を連れ戻してくれた。


 私が手話と、不慣れな喉音で御礼を言うと若者はとんでもないと全身で表し、マハリール師の方を指し示した。見ると師は流れるような優雅な仕草で両手を操り、こう言った。その青年はおまえに似ているよ。私の授業を受けていた頃のおまえに似ている。親の虐待を受け喉を潰され声が出なかったおまえが、学ぶことの面白さに取り憑かれてどんどん世界を広げていたあの頃にね。私は何と返事をしたものかわからず師と青年を見比べた。若い男は古典的なしぐさで、自分には構わずどうぞと示した。


 ベッドの方で賑やかに動きが見えたかと思うと、いたずらっぽい笑みを浮かべ、マハリール師が出し抜けに尋ねてきた。聞いたかい、その若者のニックネームを。私は若い男をちらっと見た。彼は大丈夫ですよ、と頷いた。そこで私は聞いていた若者のニックネームを師に向かって示した。同じ仕草をして師は大きく笑った。錆びとりジジイ。大したもんだ。錆びとりジジイがジジイの錆をとってくれたわけだ。声のない師の笑いに、声のない笑いを合わせながら、私は何度も目尻の涙を拭わねばならなかった。

 

(「錆とりジジイ」ordered by Zackey!-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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