第2話 いったんアレする
アイスバーンというのはドイツ語で元々スケートリンクのことらしい。だから「路面がアイスバーン」になっているというのは「路面がスケート場になっている」という比喩で、単に「凍りついている」なんていうよりもずっとイメージがわいていい。自動車がみんなスケート靴を履いてすいすい滑っている絵が浮かぶ。もちろん急には止まれない。あたりまえだ。つるつるの氷面をでっかい自動車が止まりたくても止まれずにどんどん滑って行く姿が見えるようだ。実感としてあぶねーなーと思える。だったら意味がよくわからないアイスバーンなんて言葉を使わずに「今日は路面がスケート場なので気をつけて」と言った方がはるかに伝えるべきことがちゃんと伝わるのではなかろうか。
というような話をおれが披露していたら、「ブラック、おまえは知っているか、スケートで滑る原理を」とピンクに聞かれた。スケートのブレード、つまり刃が氷面と接する面積が小さいので、そこに全体重がかかってその部分の氷が溶けて刃と氷の間に水の膜ができるから滑るんだろう。と知っている話をしたら「違う」と言う。どう違うんだと聞くと、「氷が溶けて水になってそれが潤滑をよくするのは合っているが、人間の体重くらいじゃ氷は溶けない」という。では何故だと尋ねると「摩擦熱だ」という。摩擦熱? 「そう。スケート靴の刃と氷の間に摩擦熱が発生するからだ」という。おかしな話もあるものだ。スケート靴はどんどん滑っている。一カ所に留まっていない。次の瞬間、次の瞬間、常に新しいところに移動し続けている。摩擦熱が発生する頃にはその場を通り過ぎているじゃないか。
そう抗議しているところにオレンジがやってきて「やられた」と吐き捨てた。どうしたと聞くと「スイスの口座だ」と言う。スイスの口座がどうしたと聞くと「資金が引き出せない」と言う。どうしてだと聞くと、「ブロックされた。資金を動かせなくなった」と言う。するとつまり資金がアレされた、とおれは言いさして止まってしまった。資金がブロックされたということか。「いまそう言ったろう」。ああ。たしかに。おれは腹の中で思う。なんだ? どうしてうまくしゃべれなかったんだ? 「だいたいお前らは何だ?」オレンジは八つ当たり気味に言う。「おれがスイス銀行のイタリアなまりのねえちゃんや、ドイツなまりのにいちゃんや、フランスなまりの鼻持ちならないマネージャーと掛け合ってる間に話しているのはスケート談義か。のどかなこった。人が熱くなって交渉しているってのに、のんびりバカンスのご相談かい。だからおまえらは冷たいってんだ。おまえらの血は」
だしぬけにピンクが怒鳴った。「ふざけんな。トンネルを設計したのは誰だ? 忙しい忙しいと言って手伝いもしないお前らに代わって、毎晩徹夜して穴を掘り進めたのは誰だ? え? 言ってみろ。地下金庫まであと少し、トンネルの9割を掘り進めたのは誰だ? 航空券を手配したのは誰だ? スイスに電話一本かけるのがそんなにエラいのか?! しかも何だ? 引き出せないだと? その資金を当てにして始めたんじゃなかったのか? ええ、おい。スイスの口座があるから逃亡資金は大丈夫だっていうから計画に必要な手続を全部進めたんじゃないのか? どうすんだよ。機材は買った。逃げる段取りもすませた。穴ももうあと少しまで掘り進んだ。なのに逃亡資金がないだと。くそっ。じゃあなにかい? この計画は、この計画は」
まあまあ。おれは言いよどむピンクをなだめた。実際ピンクの言う通りだ。一番若いのをいいことに、おれたちはピンクを働かせ過ぎている。それをのどかだの、のんびりだの、おまえらの血は、血はアレしているの言われたら腹も立とうというものだ。スイス銀行の口座が、口座がアレなのは予想外だったが、計画は、計画そのものはアレすることなく順調に進んでいる。何も中止する必要はない。ほんの一時的に計画を、計画をアレすればいいだけだ。
くそっ。最初から何かおかしいと思っていたんだ。なんでアイスバーンの話なんかしたんだ? 本当は確か別なことを言いたかったのに浮かばなくて、それでアイスバーンって言葉が浮かんだんだ。何だっけ。道路の表面に氷が張って、そういうのを何て言うんだっけ。路面が、路面がアレして。「どうしたブラック。顔色が悪いぞ」おかしいんだ。わからないかオレンジ。「おかしい? 十分おかしいさ。どうしてスイス銀行は」それだよ。スイス銀行の口座はどうなっているんだ。「どうなってるって? アレだよ、アレ。ブロックされて、資金の移動ができなく」だからそういうのを何て言うんだよ。「きんかんなまなま!」ピンクが意気込んで言った。なんだって?「なんだって?」おれとオレンジが同時に聞き返す。「ああ違う」ピンクはもどかしそうにもじゃもじゃ頭をかき回す。「なんか近いんだけど違うんだ」
おまえもか。まあいい。出ないものは出ない。オレンジ、ピンク、計画はやめない。ただアレする。「アレってなんだ」アレはアレだ。「アレじゃわからん」だからアレだよ。くそ。出てこない。なんだっけ。ほら路面がアレするんだよ。口座がアレして資産がアレされるんだ。なんだっけなんだっけ。だめだ。その言葉がアレされている。おれたちの頭の中のどこかで氷に閉じ込められたようになって、自由に引き出すことができなくなっている。そういうの、何て言うんだっけ? アレだよアレ。なんだっけ。アレ。おれの頭の中でアレされてると言葉はなんだっけ? とにかく、プロジェクトはいったんアレだ。
(「凍結」ordered by ハンサム-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます