#ここはどこですか

雨籠もり

泉翔也の視点

 窓ガラスに手を貼り付けて、泉翔也は呆然と東京を見下ろしていた。

「すっげぇ……」

 驚くのも無理はない。彼の眼下に広がる東京には、人どころか車すら見当たらない。午前七時。出社や通学で最も忙しくなるこの時間帯に人が一人もいないというのは、奇跡的としか言いようがなかった。

 思わずスマホで写真を撮る。ズームアップされるスクランブル交差点。普段では考えられないほどに殺風景なその光景。横断歩道の白線の行き来が完璧に把握できるほどにクリアーだ。

早速、翔也はその写真を添付してSNSに投稿する。


『東京に人が一人もいないんだがw怖いww』


 牧草地よろしく草を生やしまくったその呟きが無事に投稿されたのを確認すると、翔也はもう一度、外を眺めた。

 本当に、人気がないなぁ…。交通規制でもしてるのかも。何かニュースで流れていたっけ。

 記憶の山を蹴散らしてくまなく探してみたけれど、道路が規制されたりするような大きな出来事は何もなかったはずだ。

 んー、父さんに聞いてみるか。

 翔也はそう思い立ち、スマホをベッドに放る。アズサ博士と言う名の、行方不明になった研究者が書いた『タイムスリップ』という論文を昨日はずっと見ていたから、今日は少しばかり眠い。だから翔也は目を擦りながら階段を降りていく。

「ねぇ父さーん、なんで今日ってこんなに人がいないの?」

 普段通りならここで返事が帰ってくるはずだ。普段通りなら。

「あれ? 父さん、いないのー?」

 階段をすべて降りて、台所へ向かう。そこには、父さんどころか、母さんも、妹もいなかった。

……あれ、おかしいな…………。

「ねぇ、父さーん? 母さーん?」

 普通なら明るく帰ってくるはずのその返事は部屋の何処からも発せられず、翔也の呼びかけは台所の隅の方に転がって消えてしまった。

どういうことだ……?

 翔也は再び自室に戻る。そしてベランダから街をもう一度見渡す。やはり、どこにも人影はない。それどころか、鳥の羽音も、犬の吠える声もしない。空虚がそこには寝転がっている。

 どうなってるんだ………?

 翔也は焦るように家を出た。見慣れたアスファルト、風になびく暖簾。

 おかしい。これはおかしいぞ。

 親族どころか、世界から人が消え去っているのか? 慌てて家に戻る。テレビは通常通り作動した。ニュースでは平凡な日常が語られている。

 ふと、スマホが数度のバイブレーション。空間を震わすように振動を続ける。父親からだった。なんだ、皆で何処かに行っていたのか?僕が寝坊したからだろうか。…いや、寝坊なんてしていない。まだ七時だぞ?

 僕は何が何だか分からないまま、受話器の形をした緑の丸をタップする。

「もしもし?」と僕が呑気に言う前に、父の怒号が僕の耳をつんざいた。

『翔也?! どこに行ってるんだ! 心配したんだぞ!』

 えと、何を言ってるんだ?

「どこにって、僕はまだ家にいるよ」

『ふざけてないで早く帰ってきなさい。お母さん心配してるぞ』

「いや、帰るも何も、家にいるんだってば。そっちこそどうしたの?朝起きたら誰もいないし。何処かに出かけてるの?」

『…いや、みんな、朝から家にいるぞ…?』

「え…?」

 しばらく言っている意味がわからなかった。

『とにかく、さっさと帰ってこいよ。捜索願まで出してるんだから』

「ちょちょ、待ってよ。だから家にいるんだってば」

 …………あ。切れてる。

 唐突に切断された肉親との会話は嫌な後味を残していった。家族は家にいるのか?いや、僕が家にいるのに、家族が見えないなんてそんなことあるはずがない。それに、捜索願? そんな、僕は、家にいるのに。

 焦る気持ちでSNSを開く。一つ、先程のツイートに返信が来ていて、幾分かほっとする。


『コラ画像乙』


 そのコメントと共に添付された写真には、ニュースと同様、いつもどおりの、人だかりで埋もれた街が写真に撮られていた。

 ネクタイを締めつつ歩くサラリーマン。

 缶ジュースを右手に、スマホを左手に持って仁王の様な形相をしている女子高生。

 迷子の子供。

『寿命、安く売ります!』と書かれたダンボールを肩にぶら下げたホームレス。

 呆れるくらいに何度も見てきた光景が、その一枚の写真の中に収められていた。

 そして、その脇に映るデジタル時計。

『2019年七月二十五日、木曜日、午前7時46分』

 え……。

 それは、紛れもなく今日の日付だった。慌ててもう一度ベランダから街を見下ろす。殺風景。そこにはやはり、生命と呼べるものはなかった。まるでこの街がまるごと死んでしまったみたいに静かだ。翔也は急いでその返信コメントにさらに返信を打つ。


『それは本当に今日の東京ですか?僕の家からは人なんて何処にも見当たらないんですが』


 祈るように返信コメントを投稿する。手にべとりと付く汗が生ぬるい。眼球を動かす度に瞼の裏が擦れて痛い。

 返信は割とすぐにやって来た。


『なら今すぐ動画とってこい。あと今日の日付が出てる時計か、スマホのスクショみせろ』


 お安い御用だ。翔也はカメラアプリを開き、ビデオモードに切り替える。画面上に登場した赤ボタンを素早くタップして上からの映像を撮影する。ガラ空きの交差点。人影のないビル。動かない電車。

 それら全てを動画内に収める。そして、Googleで『今日は何日?』と調べた検索結果を表示する。やはり、2019年、7月25日の木曜日だ。日にちは間違っていない。それをスクリーンショットして、先程撮った動画と一緒にその返信コメントにさらに返信する。


『こんな感じです』


 先程の返信者は待機していたようで、翔也がその返信を投稿した十秒後に、現状がどうなっているかを5文字で示してくれた。


『ヤバくね?』


『ヤバい』。この三文字が頭の中でくるくると回転する。でも、いまいちこの状況が飲み込めていない自分もいる訳で。…確かに、翔也の見ている世界から、人は何処かへ消えてしまった。

 ふと、もう一度スマホが揺れる。確認すれば先程とは別の人が返信している。……いや、それだけじゃない。すごいスピードで、僕のコメントが拡散されてる………? 下にぐぐっとスクロールして画面を更新する。その度に、ざっと十件ほどの返信が来ている。


『この動画ってマジ?』

『編集だとしたら上手すぎる。CGでもここまで上手くいくか?それに、プロフィールには高校生ってあるけど、そこまでして高校生が昼間からこんなことでバズらせる意味も分からない』

『本当だとしたらヤバすぎるよな』

『なに?祭り?』

『厨二病がいて草』


 その中から、いくつか役立ちそうなものを掘り出すために、全体を見渡してみる。

ある一つの返信コメントが、翔也の目に止まった。


『その前電気と水が通ってるかの確認だろ。下手に家から出たら不味いかもしれんし。ツイ主の発言が本当なら、ツイ主のいまいるその部屋は大事な拠点になるから覚えとけ。』


 なるほど、電気と水か。確かに試していないな。スマホの充電器を引き出しから取り出してコンセントに繋ぐ。スマホの画面上の電池マークの中に、稲妻マークが現れる。電気は通っているのか。これなら、冷蔵庫も無事だな。というか、さっきテレビが普通についていたし。

 続いて、水道。蛇口を撚るが、出てきたのは普通の水。飲もうとして……手を止める。…この透明な水が、清潔であるという証拠はどこにもない。第一、人がいなくなったこの街で、果たして浄水場に人がいるのか?水は…………あとで外に出たときにペットボトルごと探すとするか。 

 進展した状況を伝えるために新しくコメントする。


『電気は確保できました。水も出るには出ましたが、大丈夫かどうか分かりません。これから外に出ようと思います。何か質問があれば、可能な限り答えます。』


コメントはすぐに返ってきた。


『電気が確保できたのなら、発電所には人がいるんじゃないですか?』


………確かに。発電所ではいつ何があっても対応が可能なようにいつでも留守番の人間がいると聞く。そうだ。ここで素知らぬ他人と問答を繰り返したところで現状は改善はされない。外に出て、いろいろなことを確認しなければ。翔也は再び書き込む。


『今から外に出ようと思います。何か調べてほしいこと等あれば、返信コメに書き込んでください』


 そうコメントして、僕は台所に向かう。『外に出たら不味いかも』この台詞が妙に引っかかった。引き出しを開ける。いなくなったのは人だけのようで、そこにはいつも通りに包丁が並んでいた。これで身が守れるのかと言われれば返す言葉もないが、ないよりはマシ。ということだ。重苦しいドアに向き直る。僕はどうなってしまうのだろう、考えながら僕はドアを開ける。蝉の鳴き声みたいな音をたてて開かれるその先には、人のいない町、町、町。僕は一歩目を踏み出した。

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