リーベ

@yagitune

第1話

「いらっしゃいませ。」

あどけなさの残る女性の声が奥から聞こえた。

雨の降る日の午後、僕は一軒の古本屋に立ち寄った。買い物の途中で雨に降られ、幾らか小雨にならないかと思ってだ。外は夜の様に暗く、湿気もあって気が滅入りそうだった。まだ何も買っていない袋をくしゃくしゃにして脇に挟み、店内を見回す。決して広くないその店には所狭しと本が置いてあった。有名な本には店員さんの手書きと思われる紹介の紙が添えてあった。大学のレポートの役に立ちそうな本や、単純に興味のある小説は無いかと、店内をゆっくり歩いた。

静かな店内には僕の他にお客が二、三人、店の奥には店員と思われる若い女性が店番をしながら、本を読んでいた。恋愛か推理物を読んでいるのかな、と思って表紙を覗いてみる。そこには、「獨逸文学」と書かれていた。僕は彼女に心の中で謝罪した。彼女はとても聡明な女性の様だった。とても同年代とは思えない、素敵なお嬢さんと言った感じだ。

店内を一通り見回し、雨も小雨になってきた。何も買わずに帰るのは悪いと思い、僕は本を買う事にした。取り敢えず、外れはないだろうと、「文学賞受賞作」の棚に置かれた本を一冊手に取った。

買い出しを終えた僕は部屋で机に向かった。難解そうな本を読む彼女に影響され、自分も勉学に励もうと思い立ったのだ。いつか使うかも知れないから、と言われ母に持たされた昔使っていた教科書と大学の講義のメモを見比べる。何回も頁を遡り、一つ一つ、頭に定着させる。彼女も、こうやって一所懸命に勉強したのだろうか。どうにか受験を終えて上京し、漸く拠点も決まってこれまでの知識がすっかり抜け落ちてしまっていた知識が、蘇った様な気がした。

それから、僕はあの店に通い続けた。静かな古本屋の雰囲気、行くたびに掘り出し物を見つけ、落胆したり、感動したりする駆け引き。そして店員の彼女に惹かれていたのだ。名を鈴という彼女は、この店の店主の一人娘だそうだ。本の整理や査定は店主が行い、店番や簡単な並び替えは鈴が行なっているらしい。そして、仕事の傍ドイツ語を勉強しているのだ。ドイツ語を学ぶのだから医者を目指しているのかな、と思ったりもしたが、彼女は違ったようだ。その理由への質問と僕の推測を聞いた彼女は、

「よく言われます。単純にドイツ、西洋に興味があるんです。いつか素敵な異国の地へ行くために、勉強しているのです。」

「そうなんだ、難しそうだね。僕にはちっとも読めないや。」

鈴との会話も増えた僕は、彼女の読んでいる本を見せてもらった。多少の英語は読めるけど、これにはお手上げだった。

「叔父が小さい頃から教えてくれたんです。あの人には、感謝しています。」

彼女の、一所懸命で、そして勉学を楽しむ姿勢に僕は更に惹かれてしまった。

「イヒリーベディッヒ」

「…………ドイツ語ですか、それ」

彼女が口にした言葉に、僕は首を傾げた。何となくドイツ語だとは分かるが、意味についてはさっぱりだ。

「『あなたを愛しています。』いつか言われてみたいなって」

胸に手を当て思いを馳せる彼女。その姿は、年相応の「恋する乙女」だった。

また別の日、その日は初めて鈴に出会った日の様な雨だった。街を歩いていた僕は、偶然商店の軒先で風呂敷を持っている鈴を見つけた。僕は彼女の側に駆け寄り、

「ひどい雨ですね。よかったら、これ」

自分の傘を差し出す。

「ありがとうございます。でも、そしたらあなたが濡れてしまいます」

「いえいえ、鈴さんは店番の仕事がある。風邪でもひいたら大変ですよ。」

「あなただって、大学があるじゃないですか。……なら、二人で入りましょう」

遠慮していた彼女だが、なんと僕の腕を引き、二人で傘に入る事にしたのだ。小柄な彼女を入れてもこの大きな傘は雨を防いでくれた。

「本を売る約束をしていた人が腰をやってしまって、それを取りに行った帰りなんですよね」

鈴は商店の軒先にいた経緯を話したが、僕は緊張でそれどころじゃなかった。相槌も曖昧なままでいると、

「こういうの、恋人同士でするらしいですよね」

僕の心境を知ってか知らずか、彼女の追い打ちで僕の顔は真っ赤になっていたと思う。彼女に対して恋愛感情があると気付いてから、僕は鈴の事を変に意識してしまっていた。恋は盲目だなんて言うが、正にその通りだった。茶色がかった髪も、あどけない顔立ちも、細い手足も、彼女の全てが僕の心を掴んで離さない。そう感じていた僕は、

「濡れるといけないから、もっと中にお入り」

こっそり彼女を抱き寄せた。

僕と鈴は、そのまま古本屋まで歩いた。彼女がどう感じていたかはわからないが、僕は恋人になったかの様なひと時を過ごすことができた。傘を畳んで水を払い、店内に入る。

「父は、まだ出掛けてるみたいです。」

店の奥に風呂敷を置いた彼女が戻ってくる。

「イヒリーベディッヒ」

僕は、その言葉を口にした。なんとも下手で、格好つけた台詞だ。しかし、僕が彼女への思いを伝えるには、これが一番な気がした。直接的なで単純な言葉。彼女は、一瞬驚いて硬直した。そして

「ダンケシェーン。イヒアオホ」

とても流暢な、しかし聞き取りやすいドイツ語だった。意味はわからないが、好感触だった。僕の中で淡い期待が膨らむ。

「ありがとう。私もです。」

鈴が微笑み、私の手を取る。僕はゆっくりと彼女との距離を詰め、恐る恐る、身体に手を回す。そして、躊躇わず抱擁する。彼女は僕を受け入れ、そっと目を閉じて身体を預けた。

「覚えていてくれたのですね。びっくりしたけど、すごく嬉しかったです。」

あの日から彼女の少し浮ついた様子が目につく様になった。元々本好きの彼女は恋愛に憧れていたらしい。それが叶っての事だった。仕事や、勉強に対する支障は今は起こってない。それに僕自身も少し、そんな様子があるのかも知れない。だから僕は、いや、僕達は、しばらくこの気持ちのままでいようと思う。暖かく純粋な、恋心のままで。

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