第71話 山奥の温泉宿
「お邪魔しましたぁ」
僕らが母の実家を出たのは昼の3時だった。
祖父・従兄たちは皆酔いつぶれており、祖母と伯父と伯母が見送りに来てくれた。いつもなら伯父も酔いつぶれるのだが、昨夜転倒した祖父に異変が起こった場合に備えてセーブしていた。
伯父が帰りにこっそり、
「温泉でいっぱいしてもらって、女らしくなってこいよ」と僕に言ったので、真っ赤になった。伯母が僕の反応を見てクスクス笑っている。
「なんや、まだしとらんのか?外人さんは意外と手が遅いの」と僕を見て大声で言う伯父の背中を思いっきり叩き、僕は急いで車を発進させた。母は寝てしまったので、伯父に手伝ってもらって後ろの座席に寝かせてある。
「ねえ、おじさんなんて言ってたの?マナ真っ赤だよ」
リアムが昼寝から目覚めてすっきりした顔で聞いた。本当のことを言うのはなんだったので、違う話で誤魔化した。
「ん…明日ね、僕たち二人で温泉に泊まりに行かないかって。おじいちゃんが怪我したから行けなくなってしまったからさ。どう?」
「え?!マナと温泉?行きたいよ、嬉しいなぁ」とリアムはのんきに喜んでいる。
ふー、と僕は心の中でため息をついてしまう。
(女らしく…か)
僕が男装を始めてからいつも言われる言葉だ。もちろん悪気がないのだから仕方がない。
でも母の実家に来ると、こういうのがあってとても疲れるのだ。皆真っ直ぐで僕を大事に思ってくれるいい人達だとはわかっているのだけど。
それもあって母はあまり実家に僕を連れて行かなくなったのだろう。
「じゃあ、行ってきます」
「気を付けてね」
パジャマの上に布団並みの暖かそうなちゃんちゃんこを着た母は僕らを玄関で送り出した。完全防備だ。
「行ってきます」とリアムが嬉しそうに母に手を振った。
僕たちは母の車を借りて温泉に出かけた。まだ5時だから暗い。二日連続で早起きだ。
「嬉しいな、マナと温泉だなんて」
「そうだね、なんかワクワクする。そういえばこやってちゃんと旅行なんて初めてだね」
彼と車で遠出するのは初めてだ。
今日の為に昨夜は早く寝た。リアムに何かあったら僕は彼の家族に顔向けできない。彼の夜更かしの誘惑を振り切って、布団に一人潜り込んだのだ。
「マナがすんごく早く寝たから、俺すごくつまんなくて、お母さんと遅くまでテレビ見てた。日本の時代劇、あれ怖いね。武士が刀持ち歩いてプラプラしてるなんてさ」
「そうだね…僕らがアメリカに住む人が銃を持ってるのを怖がるのと似てるかも。でもね、武士が街中で刀を抜いたら、お家断絶で大変なことになるからめったなことでは抜かなかったって聞いたことがある。ねえ、リアムの住むアメリカでは銃ってどういった存在なの?」
きっと彼らは新撰組か忠臣蔵を見たのだろう、新聞のテレビ欄に載ってた気がする。僕は『御家人斬九郎』とか『三匹が斬る!』みたいに笑える時代劇は好きだが、オールシリアスものは観ない。
「うーん、いざとなったら家族を守る為に使うっていうお守りみたいな感じかな?うちはグランマが銃を嫌ってたから所持してないけど、ちゃんと申請して持ってる家もある。ハワイ州は全米の中でも厳しい銃規制が設けられている。だから銃犯罪の発生率が全国でもっとも低い州なんだ」
「へぇ~」
「ハワイに住むの怖い?事件にあったからいろいろ考えゃうよね…俺はマナがハワイに住むのが嫌で日本にほとんどいたとしても、結婚していたい。本当は毎日一緒にいたいけど…マナの邪魔はしないよ」
「リアム…」
(そんな風に考えてくれてたんだ…)
高速道路に入ってひたすらナビの通りに真っ直ぐ進む。僕は涙が出そうで困る。リアムはもっと自分勝手だと思っていたのだ。
彼が正直に言ってくれたので僕も告白した。
「僕は…本当のことを言うとハワイに住むのが怖い。銃で撃たれたら防げないし、もし子供が産まれて育てるときも、完全に守る自信はない。
でも、それでも、リアムと一緒にいたい。
だから、大学を24で卒業したらリアムのいるところに行こうと思う。ハワイでもエジンバラでも敦煌でもキトでも、リアムがいるところが僕の住むところだと思ってる…もちろん仕事はしたいけど。いいかな?」
僕は前を見ているので彼の表情がわからなくて不安だ。
(アメリカ社会で大人の女性が、ずっと夫と一緒に居たい、仕事を辞めて付いていくなんて言ったら夫に依存してると思われるのかもしれないな…)
少しの沈黙の後、
「マナ…ごめん。ずっと俺ばっかりマナのこと好きだから不公平だと思ってた。許して…」とリアムがぼそりと言った。
「やだ、バカだね。僕はずっとリアムのことが好きだって言ってる」
「ん…そうだったね。俺もマナの事、どうしようもなく好きだよ。マナを失ったら、どうなるかわかんないくらい…」
「じゃあ、失わないようにお互い努力していこうね」
「はい…」
リアムは素直に返事して僕の肩で涙を拭いた。
彼の泣く所を見られなくて残念だ。
僕はサドなのだろうか、彼が泣くたびにときめいてしまう。こんな綺麗な人が僕の為に涙を流していると思うと、多幸感で胸がいっぱいになってめまいがしそうだ。
高速道路のサービスエリアに立ち寄って朝ごはんを食べつつ4時間程走り、インターを降りて川に沿った山道をまた4時間走った。気になる場所を観光したり、昼ご飯を食べながら目的地に向かう。
3時過ぎに着いたのは山深い川沿いにひっそり佇む温泉宿だ。
そこには船でしか行けないので、鉄筋の柱の青い塗装が剥げてしまったぼろい船着き場に車を止めて、しばらく待ってから定期船に乗り込んだ。
船の客は僕たち二人きりだ。周りにはびっくりするくらいなにもない。うっそうとして今にも動きそうな生き生きした山だけだ。
「船で温泉旅館に行くんだ…日本ってすごいね」
(いや、こんなの日本だって他にはないんじゃないかな…?)
「僕だって、こんなの初めてだよ…」
母が温泉好きなので結構いろいろ行ったが、船は始めてだ。
小学校6年生の夏休みに母が10日間休暇をとってくれて、北海道各地の温泉を楽しんだ。中でも知床半島にあるカムイワッカ湯の滝は、母と一生懸命に沢登りをして温泉に入ったので思い出深い。
どんどん船で川を上って10分ほどで、山にへばりつくように宿が建っているのが見えてきた。2階建ての建物は大胆に半分川にせり出している。パンフレットには部屋から釣りができると書いてあって不思議に思ったが、これなら確かにできるだろう。
「リアム、部屋から釣りができるってさ…ここ」
「はあ…」
彼も呆れている。いったいどんな人がこんな船でしか来れないところにこんな旅館を立てようと思ったのか…本当に不思議で仕方がない。温泉ありきなのだろうか。それにしてもだろう。
「着きましたよ」
船頭さんに言われてリアムが
「マナは落ちそうだから」と言うと、船頭さんがそれを聞いて笑った。外国からの観光客が多いのだろうか、英語が聞き取れるようだ。
桟橋から旅館の石畳の玄関まではものの5メートルほどしか離れていない。船頭さんに案内してもらいながら、質問する。っていうか、質問したいことが多すぎるのだが。
「ここは外国の人がよく来るんですか?」
「そうだね、結構有名だから来るよ。芸能人も良く来るね。映画とかドラマによく使われるから」などとざっくばらんに船頭さんは教えてくれた。僕が訳すと、
「へー、すごいもんね。夜とか妖怪が出そう。グランマの故郷に少し似てるかも」とリアムが言った。
ああ、確かにそうだ。閉塞感と解放感。どこか違う場所と繋がっていそうな、産道のような。ここはそんな感じがする。
「大牧温泉にようこそ。お支払いは済んでおりますので、こちらにお名前とご住所だけご記入お願いします」
着物姿の美しい女将がこれまた美しい英語で受付をしてくれて、部屋まで案内してくれる。迷路のような廊下で、リアムが一緒でないと絶対に迷いそうだ。
「実は今日は団体さんが入ってたんですが、北陸の大雪で高速道路が通行止めでしてね。出られなくなったらしくて来られません。なのでお客様ともうひと組だけですわ。まだいらっしゃってませんが、今日は貸し切り露天風呂ですね」
「楽しみだね、露天風呂!」
露天風呂マニアの僕はテンションが急激に上がった。
「一緒に入れるの?」とリアムが期待を込めて聞いた。
(一緒に入りたい、ってことか?まだ恥ずかしいんだけど…)
「いや、別って書いてあったよ。そうですよね?」と僕は女将に確認した。
「は、はあ…まあ。夕ご飯はどうしましょう、6時くらいで宜しいですか?」と女将が聞いた。
僕らは、6時でいいね、と言い合った。
僕は久しぶりの露天風呂温泉にかなり浮かれていた。
古びた赤じゅうたんが敷かれた縦横上下にうねった廊下を通り、案内された部屋に入った。
広い。10畳はある。団体客が来られなくなったので、広い部屋を用意してくれたのだろう。
大きい窓から見える景色は迫力の岩肌と川だ。中国の水墨画のようで美しくて見とれてしまう。二人で信じられない光景に息を飲んだ。今の建築基準法ではまず許可が下りないだろう。
縁側で木製の窓枠をガラガラと開けると下はすぐ川だった。パンフレット通り、ここで釣りができる。子供お断りの理由がよくわかる。
がけ崩れとかあったら一巻の終わりだな、と思いながらリアムと呆然としながら外をしばらく眺めていた。
時計を見るとまだ夕飯までには時間がある。
「時間あるし…さっそく温泉行く?」と誘うと、
「いいねぇ」と嬉しそうな返事が返ってきた。彼も温泉が好きなのだ。
僕たちは備え付けの浴衣とタオルを持って露天風呂にウキウキしながら向かった。
部屋を出てまた迷路のような廊下を進む。
リアムはなぜかちゃんと把握しており、僕は彼について曲がったり登ったりした。一度建物を出て、外階段をまた登る。これは足腰が弱っているとしんどそうだ。今の祖父は絶対無理だったろう。
「じゃあ、1時間後ね」
「うん」
そう言って僕たちは太い木で作られた門に掛けられたエンジと紺ののれんを押して別れた。温泉の入口にしては立派過ぎる門。100年続く料亭の入口にある門みたいだ。
脱衣場は
木製の引戸を開けると、すぐに野趣あふれる半露天風呂になっている。少しスペースがあるのでここで洗うようだ。石鹸と鏡がある。
奥に見える露天は湯煙で見えないが、思ったより奥に広がっていそうだ。
僕は早く温泉に入りたい気持ちを抑えながら髪と身体を洗った。
「ふわぁ、やっと入れる!」
僕は一応タオルで控えめな胸を隠しながら、湯けむりの中をどんどん奥に進んだ。どこまで行けるのか興味があったのだ。
行ってみると一番奥は川沿いになっており、柵の向こうを覗くとはるか眼下に川が流れている。結構高い場所だ。
「へー、すごいなぁ…」と岩に座ってだんだん暗くなる景色を眺める。すごい解放感だ。
ふいに後ろから声をかけられた。
「え、マナ?」
ありえない。でも振り向くとそこにはリアムがいた。
言うまでもないが、お風呂なので裸だった…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます