第37話 恋と熱病

 少し寝て目覚めた。


(まだ熱で頭がクラクラするな…こんなの何年振りだろう)


 身体に溜まっていた熱が外に出る時期だったのだろう。これくらいの熱ならやり過ごそうと彼が用意してくれた薬には手を付けないことにした。


 ふと気配を感じて横を見るとルリが座っている。

 僕が眼を覚ましたので額に手を優しく置いた。気持ちがいい。水枕も新しいものに代えてくれたようだ。


 窓の外は少し暗いので天気が悪そうだ、正午を少し過ぎたくらいだろうか。


「…あ、ありがとうございます…」


「喉乾いたわね、少し飲みなさい」


 彼女は枕元に用意してある清涼飲料水のストローを僕の口に運んだ。

 吸い込むと身体中に水分がいきわたる感覚がある。


「いい子ね…マナ、もう少し寝たら治るから…おやすみ」


 ルリに頭を撫でられながら、催眠術師のような彼女の声に導かれて僕はまた眠りについた。




 ここはお菓子の国の広場のようだ

 わかりやすい夢


 広い青空の下、広場はペラペラのパステル系のピンクや黄色で塗ってあるコンパネで囲まれている

 そこに巨大化したグミやアメやチョコーレートなどのカラフルなパッケージに包まれたお菓子がごろごろ散らばっている


 地味な僕にしてはカラフルだ


 そこにはお父さんやおばあちゃん、ナユがいて楽しそうに話ししてる

 あと…ルリ…も


 瞬間ぞっとした


 なんでルリがその中に混じって話してるんだ

 もう勘弁して欲しい

 これ以上僕の大事な人が死ぬのは嫌だ




「やだっ!」と宙に手をかざして目が覚めた。その手をルリがそっと掴み、ベッドに降ろした。


「もう熱は下がってる。良かったわね、マナ…」と慈愛の眼差しで僕にささやいた。少し疲れて歳をとったように見える。


 まだ半分夢の中にいてぼんやりしてるが、熱はなくなっていた。

 身体が軽い。


「ルリさん…僕の夢に来ました?」


「ふふ、あなたのお父さんとお祖母ちゃんに会えたわよ。お父さんがマナとそっくりだった」


 僕の頭を優しく撫でた。


「そうですか…もしかして『治療』をしてくれたんですか?」


 そう疑いたくなるくらい、僕の身体は軽く、快活に満ちている。


(僕を治療したせいで彼女が疲れているのではないか?)


「もう治りかけだったので、少し元気になれるおまじないをしただけ」


「ルリさんを疲れさせてしまうなんて…部屋まで送ります」


 僕が身体を起こして立ち上がると、


「こらこら、マナ!ダメだよ、立つなんて…」と部屋に入ってきたばかりのキアナが驚いたように僕を見て、ベッドに押し戻した。

 心配で見に帰って来てくれたのだろう。


「心配かけてすいません、本当にもう大丈夫なのでルリさんを部屋に送って行きます。看病で疲れさせてしまって…」


「だめ!私が送ってくから、マナは寝てて。リアムに本気で怒られちゃう…グランマ、何かお茶でも入れるから出ようか。マナが心配してる」


 キアナはあまりルリの変化には気が付かないようだ。毎日一緒に居るからわかりにくいのかもしれない。


 僕は飲み物を口にし、トイレに行ってからシャワーを浴びて身体を丁寧に洗い、時計を見た。

 夕方の5時。

 窓の外を見ると雨が降っている。ハワイに来て初めての雨。


「この時間ならリアムの歌に間に合うな…」


 すっかり治った僕は素晴らしいことに思いついた気分で、嬉しくて心が弾んできた。




「マナ、本当に身体は大丈夫?」


 キアナが心配している。

 彼女は違う予定を入れてしまったので、僕をリアムが歌うバーまで送ってくれた。


「大丈夫。ありがと」


「リアムに電話がつながらない…体調が悪くなったらすぐに私に電話してね。帰りはリアムと帰ってきてもいいし、良かったら電話して、迎えに来るから」とひとしきり心配してからキアナは車を発進させた。


 忙しいのに無理させて申し訳なくて遠ざかる車に頭を下げる。

 でも、これでこの旅の大きな目的の一つ、リアムの歌が聴ける。なぜだろう、僕は彼の声がとても好きなのだ。


 始まるまで40分もあるので、僕は彼に会いに楽屋へ向かった。熱で寝込んでた僕がバーにいるとびっくりするだろうから来ていることを伝えたかった。




「リアム?」



 ここにいる、って聞いたのだが、その狭い箱のような楽屋には誰もいなかった。飾り気のない部屋に机と椅子、透明なプラのコップがいくつか置いてある。

 奥にまだ部屋があるようで、物音がしたので入ってみた。

 

(驚かせちゃおう)


 そんな風に思って静かに足をすすめた。



(ここ?)



 物音がする部屋のドアが少し開いていたので、僕は何も考えずにひょいと覗いた。


 その仮眠室のような小さな部屋では、褐色の肌に栗色の髪の女性がソファーでリアムとからみ合って…いや、交わっていた。聞きたくないのにひそひそ声となまめかしい声が耳に入ってくる。


「…今日はしないっていってたくせに…どうしたの」


「恋人が日本から来てるんだ。今夜聴きに来るはずだったけど、熱出しちゃったから」


「可哀想ね」


「でしょ、熱が出てとても可哀想なんだ。今夜は早く帰るよ」


「違うわよ、その子リアムが私とこんなことしてるから、可哀想、って言ったの。本当にあなたバカなのね」


「…今日ね、恋人とすごくけど、我慢したんだ」


「なによ、彼女とできなかったから私とってわけ?失礼しちゃう…」


「じゃあ止める?」


「もう…あなたは仕方ない人ね…」



 二人の言葉が消え吐息に変わると、僕は金縛りが解けたみたいにやっと動けるようになった。

 油断すると獣の断末魔のような声が口から漏れ出そうになるのを我慢して部屋を出て、タクシーを拾った。




「僕日本に今すぐ帰りたい…」


 僕の部屋についた。そこで待っていた彼女に会って初めに出た言葉がそれだった。

 ルリはこうなることがお見通しだったようで、涙でぐちゃぐちゃの僕を強く抱き締めた。


「ルリさんわかってたの?…だから僕を治したの?」


「…あなたたちの関係が深くなる前にマナに知って欲しかった」


「…うぇ…っ…」


 ルリの僕を想う優しさはわかっているが、悲しみで頭がついていかない。今は早く家に帰りたい、それだけだ。


「リアムは恵まれ過ぎたのか、ああいう子に育ってしまった。決して悪気はないの…いつかは彼を許してあげて欲しい。ごめんね、マナ…」


 僕はルリの言葉を聞いていたが、頭には入ってこなかった。ただ苦しくて悲しい。息がうまく出来ない。


「私たちは今日で会うのは最期になるでしょう。だからマナの願いを叶えるわね」


 そう言って、ルリがもうすでにまとめてくれてあった僕の荷物をさっさと持って一緒に部屋をでた。僕が帰るって言うのがわかっていたのだろう。


「あ…」


 僕はふいに左手を見て思い出した。部屋に戻って、リアムから貰った指輪と御守りを丁寧にベッドの上に重ねて置いた。




「あぁ、グランマがいらっしゃるなら家まで迎えに行きましたのに!」


 ホテルの支配人がうやうやしくエントランスで出迎えてルリの手にキスした。背筋が伸びた素敵な老紳士だ。

 リアムたち家族も呼んでいるが、グランマと言うのは彼女の愛称のようだ。


「お部屋をすぐにご用意致しますので、こちらでお待ち下さい。お嬢様の明日の日本へのフライトはすべて私におまかせ下さい」


「ありがとう。じゃ、甘えてしまおうかしら。ここで少し話させてもらいますね」


 僕らはハワイの高級ホテルの会員制ラウンジにいた。

 深いグリーンとゴールドの壁紙の部屋は僕に全く似つかわしくなくてゴージャスの極みだ。深いボルドーのソファーも最高級品だと座心地でわかる。うちの家の19800円のソファーとは全く違う。


「ふわわ、ルリって何者?」


 あまりの驚きのせいで悲しみが薄まった。


 そうだ、現実を見なければならない。

 ルリの言う通りで、彼と肉体関係を持ったあとでは僕の衝撃がかなり違っただろう。と思って恨んだかもしれない。

 僕は他の男性となんて考え付きもしなかったが、リアムは違う。ただそれだけだ。法律的にも全く問題ない。僕本人が選んだ男性なのだから、文句を言う筋合いもない。

 僕がそんなことを考えていると、


「私は不動産とホテルの女王と呼ばれてた。いい気になってたの。今のリアムに似てるわ。あんなに節操なしではないけど」とルリは笑って言った。


 僕が気持ちに一気にケリをつけようとしてるのをわかっているようだ。


「僕には理解できないけど、リアムは自分を好きな人なら誰でもよさそうに見える。彼には愛がたくさんあって、僕との恋愛はリアムが皆に分け与えるたくさんの愛のうちの一つだったんだなって…」


「違うわ、マナ。あの子が自分から女性を選ぶのは初めてなの、だから皆が驚いてたでしょ?」


 確かに「俺の恋人!」とリアムが嬉しそうに言いまわるのを聞いて誰もが驚いていた。

 

(でもそれが何なんだ!どっちでも同じじゃないか?)


 彼女は僕の考えたことが分かったようで少し笑った。


「違うわ、リアムはマナを強く求めてる。ただ、人を愛する方法をまだ知らないの。お願い、あの子との関係を完全には切らないで。私の最期のお願いだから」


 僕は彼女がリアムを想う気持ちで胸がいっぱいになった。浮気されるような僕では役不足だし、何もかも持っている彼の為に僕に出来ることなんてなさそうだ。でも目の前のルリから最期の願いだと言われると弱い。僕は、


「…わかりました、ルリさんの為に約束します。ただし、恋人は無理ですよ」と答えるしかなかった。


「ありがとう…安心したわ」


 彼女はそう言ってチャーミングに笑った。




 ルリは家に帰るのかと思いきや、「夕御飯まだよね?」と言って、僕をディナーショーに誘った。


 あでやかな衣装に包まれているがとても鍛えられた男女の肉体の動きは素晴らしくて本当に感動したし、ピエロが僕らの席に来てくれていたずらをしたので僕らは笑いこけた。

 女子高生みたいに深夜まで二人で騒いで騒いですっきりした。

 もちろん食事も素晴らしく美味しかった。




 ルリは帰る時に「リアムに言うことある?」と聞いたので、僕は少し考えて、


「友達になろう、って伝えてくれますか?」と答えた。


 それを聞いたルリはひとしきり笑ってから、


「あなたの事、いつも思ってる」と真剣な顔で言った。


 先日キャンプ場で読んだ本に出てきた『サウダージ』という言葉がまさに今にぴったりだった。

 僕らはぎゅうぎゅう一つになるくらいに抱き締め合ってから、顔を見合わせた。もう生きては会えないとルリが思っていることは明らかだった。

 笑ったルリの目から涙がポロポロと美しくこぼれる。この人は贖罪しょくざいの為に生きているからこれほど透明で美しいんだろう。

 僕もぼろぼろ泣きながらそう思った。




 朝一番でスイートルームを後にし、僕は支配人が運転するハイヤーで空港に向かった。彼がチェックインまで済ませてくれたので、お礼を言って別れた。とてもありがたかった。


 もうすぐ機内の人になる。携帯の電源を切ろうと画面を見たら、リアムとキアナからの猛烈な着信履歴があった。

 迷ったが、キアナにだけ『電話に出られなくてごめんなさい。急用ができたので日本に帰ります。本当にありがとうございました。感謝しています』とメッセージを送った。


 相談もなく急に帰国したらリアムの家族もいい気はしないだろう。

 でも今は何でもよかった。どう思われてもいいからとにかく帰りたい、のんきな母がいる自分の家でベッドに寝転んでマンガを読んで安心したかった。




 出国手続きにぼんやり並んでいると、ふいに乱暴に手首を引っ張られて列から外された。

 

(こんなことをする人は決まってるよね…)


 見るとやはりリアムだった。


 もう会うことはないのかもと思っていたのでびっくりしたが、彼を前にして変に落ちついた自分がいる。

 リアムが僕に与えたショックはもちろん大きかった。でも、死期が近いルリとの最後の別れの衝撃が大きすぎたのだろう。

 とりあえず怒りが湧いてこないので酷いことを言わなくて済みそうだ。昨夜会っていたらボコボコにしてたかもしれない。


 彼は僕を探していたのだろうか、茶色の美しい眼が今は赤い。

 

「…マナはひどい、こんなの酷すぎる!!何も言わずに僕を捨てるの?」


 彼がいきなり殴るように言葉をぶつけてきたので、僕は面食らった。


(なんで僕でなくてリアムが怒る?)


 彼が泣き始めたのを見て、僕の気分は醒めてきた。

 そんな気がしていたが、やっぱり彼には自分が浮気して相手を深く傷付けた、という自覚がないようだ。

 本当に言いたいことはなにもなかったが、これからの彼の恋人の為にもはっきり言っておいたほうがいいのだろう。


 僕は手首を強くつかんでいる彼の手を遠慮なくがした。


「ごめんね、リアム。僕は君と付き合うのは無理だ。昨夜バーでリアムが、素敵な女性とソファーでシてるの、見ちゃったんだ。個人的な行為をのぞいてしまって悪かったよ。でも正直かなりショックだった。リアムは僕でなくても愛せるんだって。

 リアムと僕は違う。僕はたった一つの愛が欲しいんだ。君の周りにいる女子みたく『みんなのリアム』でいいだなんて嘘はつけない。

 でも僕らは今ならまだ友達に戻れる。そうだろ?」


 僕はキャンプに来た子供たちに教えるときみたいに、丁寧にゆっくり説明した。でも彼は子供以上に泣いて騒いだ。つまりはこんな聞き分けない子供は見たことなかった。


「嫌だ、別れるなんて絶対に嫌だ!なんでわかってくれないの?俺が他の女の子とすることなんて全然関係ないしどうでもいい。俺はマナが恋人じゃないと嫌だ。マナが俺を捨てて他の男と愛を見つけるなんて絶対に許さない!胸が苦しくて辛くて死にそうなんだよ…わかって…」


 でもリアムは絶対に心動かなさそうな僕の表情を見て急に黙り込み、停止ボタンを押されたおもちゃみたいにピタッと動かなくなった。


「君の気持ちわかるよ、リアム。僕だって君が他の女性といると苦しい。でも君は変われない。じゃあ関係を変えるしかないだろ?

 さ、僕の飛行機もうすぐだから、行くね。リアム、本当に楽しかったんだよ。ありがとう、みんなに宜しく」


 僕は頭を下げてリアムが行くのを待ったが、彼は大粒の涙をぼろぼろ流しながら立ち尽くしていた。

 そう言えば彼が泣くところを見るのは二度目だ。泣いていても彼は綺麗だった。そしてこれが彼を見る最後になるだろう。


 僕は仕方なくもう一度列に並び直した。


 振り返らなかったが、彼が「大丈夫ですか?」と周りに心配されながら泣いているのが聞こえた。すぐにそばに行って慰めたい気持ちを全力で抑え込み、なんとか彼を振り切った。




 帰りの飛行機はビジネスクラスだった。支配人が気を利かせたのだろうが、困る。こんなちゃんと働いてもいない若造が高いクラスの席に座るなんて僕のなかではあり得ない。

 恥ずかしくて毛布をかぶって寝たふりをしていると、5才くらいの子供が僕の毛布を引っ張った。


「どうもすいません…こらっ、ダメでしょ!お兄さん寝てたのに!」


 日本人の親子だった。しかし、お兄さんか…こういうのハワイではなかったから新鮮だ。


「いえ、寝てなかったら大丈夫ですよ。退屈だよね、何かしようか?」


 僕らは暇潰しにそこらの紙とボールペンで絵を書いた。運動はだめだが美術は好きだ。


「僕がお兄さんの絵を描くから、お兄さんは僕を描いて!」


「いいね、じゃあ、紙貰おっか」


 僕らは客室乗務員さんに紙と色鉛筆を貰って、似顔絵を書き始めた。

 彼の顔をよく観察して紙に落としていく。


 リアムを書いてみたかった。

 とても綺麗な絵が出来上がりそうだ…そう思っていたら、いつの間にか泣いていた。


「お兄さん、大丈夫?」


「大丈夫だよ、ごめんね、心配かけて…お?どうしたの?」


 子供がお母さんの膝から降りて僕の膝によじ登った。


「抱っこしてあげる。お父さんに言われたんだ、もしお母さんが泣いてたら、男なんだからぎゅうってしてあげてって」


 温かい固まりが僕に抱きついてきたら、不思議と涙が引っ込んでいった。気持ちがいい。しばらくじっとしていたら彼は寝てしまった。

 人気者のリアムは本当は寂しくて、誰でもいいからこの温かさが欲しいのかもしれない、ふとそう思った。


「ごめんなさいね、この子お父さんが単身赴任で離れて暮らしているから、寂しくて仕方ないんです。あと、女性ですよね、本当に失礼しました…」


 彼女は頭を下げた。


「いえ、よく間違われるのでいいですよ。…旦那様を大事にしてるんですね、顔に書いてあります。羨ましいなぁ…」


「若いのに羨ましいだなんて…あの…何かあったんですか?良かったら話して下さい」



 知らない女性に僕はポツポツとリアムの話をした。


 僕が間違っているのかもとか頭が固すぎなのかなとか思っていたが、やっぱり恋人でも一般的に浮気はNGのようで安心した。


「僕ね、別れ際に恋人が人目もはばからずに泣いてたのを思い出すと、胸が痛くてたまらないんです…もう友達にもなれないかもしれない」


 そう言った僕を、優しい彼女はいろんな言葉で慰めてくれた。


 僕は初めての恋を終わらせる。この熱病を終わらせないと僕は僕らしくいられない。

 好きだから黙って我慢も出来るとは思う。

 でも我慢すれば一生つけ込まれて彼に人生を支配されてしまう。そんなの絶対に嫌だった。


 頭では理解しているのに、まだ悪意のないだらしなさを持つ彼が恋しくて仕方ない。そんな自分が、とても嫌だ。

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