第50話 結界をめざせ

 その先には非常階段があった。柵は腐食して赤さびが浮かび、段もところどころ朽ち落ちている。そんな危険な場所、普段なら絶対に通りたくはない。しかし、今はそんなことは言っていられなかった。


 階段を降りようと一歩踏み出した途端、誰かにぐんと手を引かれる。


(え?)


 いつの間にか、千夏の前に華奢な背中があった。青いワンピースの髪の長い小柄な女性が目の前にいる。その細い腕で千夏の手のひらをしっかりと握り、千夏を導くように手を引いていた。


 背中を向けているため顔は見えない。

 でも、それが誰なのか千夏はわかっていた。


 彼女に導かれるままに後についていく。彼女の通ったところを同じように通りながら。腐食した段を上手く飛び越えて、どんどん階段を下りていった。千夏のすぐ後ろから元気もついてきている。


 振り返ると、黒いモヤのようなものが先ほど千夏が出てきた非常口からも、そして建物の窓からもモヤモヤと大量に出てきて、千夏たちを追いかけてきていた。

 地面がどんどん近くなる。


 庭にはあちこちに墨の水たまりのようなものができており、その水たまりから無数の白い腕がゆらゆらと生えていた。


(地面に着いた!)


 そう思った途端、千夏の手を引いていてくれていた女性の足に墨の水たまりから伸びた手が一斉にしがみついた。


「きゃっ!?」


 思わず千夏は手を放してしまう。ずぶずぶと墨色の水たまりに沈んでいきながら彼女はこちらを振り向いた。さらりと長い髪が揺れるその顔には、微笑みが浮かんでいる。


 ワタシガ ミチビケルノハ ココマデ…………

 イッテ…………アッチデ ハルタカクン ガ マッテル…………


 そう言うと彼女の姿は一瞬にして消えてしまう。

 千夏は驚きと恐怖で硬直しながらも、コクコクと何度も頷いた。


「やばい。行こう」


 元気の言葉に上を見ると、階段から黒いモヤの塊が迫ってきていた。

 結界の線はもうすぐそこ。躊躇っている暇はない。

 千夏と元気は、足を掴もうと迫ってくる腕を払いのけて門へと向かって走った。


 いつの間にか人の背丈よりもはるかに大きく育っていた黒いモヤの塊が、千夏たちを捕まえようと触手のような黒い手を伸ばしてくる。

 そのモヤにはいくつもの人の顔が現れては消えていく。そのどれもが、苦痛と悲しみと怒りに満ちていた。


 …………ニクイ…ニクイ……


 ……ナンデ…クライ、クライヨ……


 …タスケテ……オネガイ……イヤ…イタイ……


 ……コッチヘ、オイデ……オマエモ、イッショニ……コッチヘ……


 アレに取り込まれたら命がなくなるだけでは済まない。千夏も元気もアレらと同じものになって、永遠に苦しみ彷徨さまようことになるのだろう。


 千夏と元気は、必死で走った。しかし、それでも触手が迫る速さに敵わず、千夏の身体に纏わりついた。

 身体の力が急速に抜ける。


(まずい……)


 そう思ったそのとき、前方から何かが飛んできて黒いモヤに刺さる。

 ついで、


「オン・アキュシュビヤ・ウン」


 凛とした声が響いた。晴高の声だ。


 ギャアアアアアアアアアアア


 黒いモヤが悲鳴をあげた。痛みに身を縮めるように触手が千夏たちから離れる。

 黒いモヤに刺さったのは、あの独鈷杵どっこしょというものに似ているもの。しかしこれは両端が五本になっていた。


「急げ! こっちだ!」


 晴高の声がした。あの黒いモヤが怯んだ今が、最後のチャンス。

 千夏と、ソウタを抱いた元気は全速力で結界の線へと走った。

 あの黒いモヤもすぐに立ち直って千夏たちを追ってくる。


 あと少し。あと少しで線を超える。

 そこで、急にガクッと足が動かなくなった。とっさに下を見ると、地面から生えた血まみれの腕に足首を掴まれていた。


「……!」


 前のめりにこけそうになったところを、寸前で元気が千夏の身体を片腕で抱きかかえるようにして、結界線の向こうへと押し込んだ。


 ついに線を、超えた!


 線の向こう側に二人とも転がるようにたどり着く。膝くらいは擦りむいたかもしれないが、そんなこと気にしている場合じゃない。すぐに起き上がって後ろを振り返った。


 晴高が張った結界の線。

 そこにまるで大きなガラスでもあるかのように、ぺたぺたと沢山の手の平がくっついていた。その一つ一つが千夏たちを掴もうとしていたが、その線よりもこちら側には来ることができないようだ。


 やがてその手たちは、あきらめたように一つ、また一つと姿を消していき、ついには一つもいなくなった。

 それを確認してから、三人一同安堵の息を漏らした。


「なんとか、なったな」


 崩れるように地面に座り込んだ晴高。その黒髪もシャツもぐっしょりと汗でぬれていた。それは千夏も同じだ。


「あああ、あせったー」


 元気は地面の上に大の字になって仰向けに寝転んでいた。

 二人の無事な姿を目にして、千夏にもようやく笑顔が戻る。


「良かった、ほんとに……」


 でも、まだこれで終わりではない。千夏は元気の傍にペタンと呆けたように座っているソウタに目を向けた。この子をしかるべき場所に送り届けなければ。


 千夏は彼の傍に行く。彼の手には、今もしっかりとあのキリンのマスコットが握られていた。


「ねぇ、ソウタ君。君をおうちに送り届けたいんだけど、おうちどこかわかるかな……?」


 ソウタは少し考えたあと、こくんと頷いた。


「ホイクエンからならおうちまでわかるよ」


「保育園の名前、って覚えてる? あと、どのあたりにあったのかとか」


 うーんとソウタは空を見上げたあと、もう一度大きく頷いた。


「ボクのおうちね。セーセキサクラガオカのエキちかくだったよ。ケーオーせんなの。ぎんいろのシャタイにムラサキとアオのセンのハイったデンシャだよ」


 妙に細かく教えてくれる。もしかしたら、電車好きな子なのかもしれない。


 保育園の名前も憶えていた。ネットで検索してみると、聖蹟桜ヶ丘駅の近くにほぼこれだろうと思われる保育園がみつかる。これなら彼の家を探すのはさほど難しくはなさそうだ。


 そんなとき、それまで地面に寝っ転がっていた元気が起き上がりがてらソウタにこんなことを言い出した。


「お前、動物園行きたかったんだろ。まだ日も高いし、家に帰る前に行ってみるか?」


 動物園という言葉を聞いた途端、ソウタの目が輝いた。


「ほんと!? つれてってくれるの!?」


 嬉しそうに、座ったままソウタはぴょこぴょこしだす。その隣で元気が「い、いいよね?」と今更確認をとるような眼で千夏を見てくる。そんな申し訳なさそうな目をしなくても、いいに決まってる。


「よし。じゃあ、これから行こうか。晴高さんはどうします?」


 念のため晴高にも尋ねてみるが、彼は疲れた苦笑を浮かべた。


「いや。俺はここに残って、もうちょっと除霊していく。核になってるソイツがいなくなったからだろうな。急激に悪霊たちが力を弱めていってる。勝手に霧散し始めたから、もう少し手をかけてやればすぐにここも綺麗になるだろ」


 晴高は廃病院を見上げた。いわれてみると、最初に感じた禍々しさのようなものが薄れたようにも思える。全体的にモヤがかかったように薄暗かったのに、いまは周りと変わらず普通に日の光が差し込んでいた。


「さて。そうと決まったら、とっとと行こうぜ」


 元気が立ち上がると、ソウタも一緒に立ち上がってぴょんぴょんと飛び跳ねた。

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