第21話 逃げたい。会社からも、人生からも。
そこは、どこかのオフィスのようだった。
目の前には、窓を背にして鬼のような形相をした壮年のサラリーマンが立っている。男は書類の束を乱雑に掴んでいた。何か激しい口調で執拗に叱責される。そのうち、男が手に持った書類の束を顔に投げつけてきた。
『申し訳ありません』
そう何度も繰り返した。何度も頭を下げた。
足元に散らばる資料が、滲んで見えた。
急に視界が変わる。暗い。
どうやら、夜のオフィスのようだった。
天井の照明は落とされ、デスクライト一つだけをつけて作業をしていた。
周りには他に同僚や上司の姿はない。ぽつんとひとり、オフィスに残って仕事をしているようだ。
デスクには、ノートパソコン。その周りには強いカフェイン飲料の瓶が何本も転がっている。カタカタとキーボードを打つ音が、夜の
もう一度、視界が変わる。今度は明るい。
どこかの路上に立っているようだ。自分の周りを次々と人が通り過ぎて、目の前にあるオフィスビルに飲み込まれていった。
『行かなきゃ』
そう呟くものの、足が動かない。
胃を突き上げるような激しい吐き気が襲ってくる。
『だめだ、行かなきゃ。僕が行かないと、みんなに迷惑が』
視界が滲んだ。
『……行きたくない』
…………。
バチン、と再び頭の中に静電気が走るような衝撃があって、千夏は我に返った。その途端、足の力が抜けて床へ崩れ落ちそうになる。
その寸前、誰かに後ろから身体を支えられた。
「大丈夫か?」
聞こえてきた落ち着いた声。晴高だった。
「……はい。いっきに流れ込んできたから」
そのままゆっくりと座らされ、ようやく、ほうと息を吐いた。
元気に掴まれていた男の霊は驚いたのか、今日は飛び降りることなくそのままスーッと消えてしまった。
消えた後をじっと見つめながら、ぽつりと元気が言う。
「……パワハラと過労……そういうのが原因の自殺だったんだろうな」
その言葉に千夏も頷く。やはり今回も、元気にも千夏と同じものが見えていたようだ。
「うん。会社に行きたくない。行くのが辛いって……。この霊が出没するのが日曜から月曜にかけての深夜っていうのも、そういう理由だったんだろうね」
「月曜は、自殺者も一番多いらしいからな。こいつもそうだったんだろう。ほら」
晴高に腕をひっぱりあげられて、千夏は立ち上がった。
月曜の朝には、千夏だって仕事に行きたくない気分になることはある。今の職場はなんだかんだで気に入っているのでそうでもないが、前の職場で上司から虐められていた時は日曜の夜になると具合が悪くなるくらい出社が辛くなるときもあった。
千夏は、いつの間にか自分の胸元をぎゅっと掴んでいた。あのときの、辛さがよみがえってくる。
それでも仕事は面白かったし、支えてくれる同僚がいたから何とかやってこれた。
あの霊は、自分が感じた苦痛よりも遥かに辛い苦しさの中にいたのだろう。
一人で抱えて、追い詰められて。
結局、死を選ばざるを得なかった。それしか逃げ道がないところまで追い詰められた。それはもしかしたら、自分にもありえた未来だったのかもしれない。
「ほんとに、大丈夫?」
「え?」
気が付くと、目の前に元気の顔があった。高い背をかがめて、千夏の顔を覗き込む心配そうな彼。
「どっか、体調悪いのか?」
ううん、と千夏はゆっくり首を振る。
「大丈夫。ありがとう。ただ……今も飛び降り続けている彼を、なんとかしてあげたいな、って思って」
「そうだな……」
彼に死んでいることを気づかせるためには、どうしたらいいんだろう。もう死んでいるんだから、会社に行く必要も、嫌な上司と顔を合わせる必要もないのに。
そんなことを考えていたら、後ろから鋭い声が飛んできた。
「おい」
びくっとして振り向くと、晴高だった。いつもの仏頂面がさらに険しい目つきで千夏を睨むように見ている。
「……は、はい」
「あんまり霊に感情移入するな。……初めてお前が霊と同調してるのを見たが、その方法はあまりに危険だ。下手すると同調したまま戻ってこれなくなるぞ」
「え……、そうなん、ですか……?」
戸惑う千夏に、
「もう、その方法はやめろ。やっぱり俺が全部除霊する」
晴高はきっぱりとした口調で言い捨てる。
「で、でも。こうすると、霊の未練とか掴みやすくて」
「だからって、危険を犯してまでお前がそれをする必要はないだろ!」
つい声を荒げてしまってから、晴高はここが深夜のマンションだということを思い出したのかハッと口をつぐむ。そして、千夏に睨むような視線を向けると、その腕を掴んで大股でエレベーターホールの方へと歩き出した。
「わ、ちょ、ちょっと……待ってください!」
そう千夏は抗議の声をあげるが、晴高は止まらない。そのままエレベーターホールまで来ると、さっき千夏たちが昇ってきたときそのままに十四階で止まったままになっていたエレベーターに引っ張りこむようにして乗り込み、叩くように一階のボタンを押した。
千夏は晴高の様子に驚いて、もはや声すらでない。
「おい。お前どうしたんだよ」
元気が晴高に怪訝そうに声をかけるも、晴高は元気をもキッと睨みつけた。
「なんでお前はそんなにのんきにしてられるんだ。ああ……そうだよな、お前は幽霊だが、幽霊のこと自体については素人だもんな。いいか、よく聞けよ、お前ら。霊は、人間と同じで良い奴ばかりじゃない。いや、死んだときの思いに固執しやすいから悪質なのも少なくない。いままでお前らが同調してきた奴らが、たまたま善良な魂だったから良かったものの。そんな悪質なのとシンクロしてみろ、あっち側に引っ張られたまま戻ってこれなくなるぞ」
「それは死ぬかもしれない、ってこと、ですか……」
晴高が言わんとしていることが、千夏にも段々と理解できてきた。
千夏の質問に、晴高は小さく首を横に振る。
「いや、もっと悪い。成仏することもできず、悪霊として永遠にこの世を
チンという軽い音を立てて、エレベーターが一階についた。エレベーターから出る
とき、
「その幽霊男だって、いつ悪霊化するかわからんぞ」
晴高が千夏たちにぼそりと呟くのが聞こえてきた。
先にエレベーターを出た晴高の背中に言い返そうと口を開きかけたが、それよりも早く元気が声をあげた。
「晴高!」
名前を呼ばれて、晴高は足を止めて振り返る。元気は千夏の横を歩いて通り過ぎて、晴高の前に立った。
「晴高。今の俺は、悪霊になりそうな
元気にそう尋ねられ、晴高は怪訝そうに眉を寄せた。そして、元気を上から下までじっくり眺めてから、
「いや。今のところはない。だが、人間の感情は移ろいやすい。いつ負の感情に偏るか」
「だったら!」
晴高の話を遮るように元気は言う。
「もしそうなったら。もし、そうなる兆しが少しでも出たら。……そんときは、お前の手で俺を除霊してくれないか」
元気が言い出したことに、千夏は驚いた。何を言うのだろう。以前、晴高に除霊されかけたときの彼の苦しそうな様子が脳裏を
こんな明るくて朗らかな元気が、悪霊になるなんて考えたこともなかった。
「俺だって。本当は俺みたいな成仏もできない霊が千夏のそばにいていいはずがないのはわかってるんだ。何度も、千夏の家を出なきゃって思った」
元気の言葉にさらに驚く千夏。そんなこと考えていただなんて、まったく知らなかった。もしかすると、元気は何も言わず出て行こうとしていたのだろうか。
千夏は元気の元へ駆け寄ると彼の腕を掴もうと手を伸ばした。しかし、当然のように千夏の手は彼の身体をすり抜ける。
最近は忘れがちになっていたが、こういうときは実感せざるをえない。彼は、幽霊なのだ。空を切った手を見ると悲しさが湧いてきたが、それでもその手で
「でも、千夏と一緒にいるのが、心地よくて。迷惑かけてるのわかってたのに。つい、好意に甘えて今までずるずるときてしまったんだ」
千夏はぶんぶんと首を横に振る。
「迷惑なんかじゃない。一緒にいてほしいって思ってたのは、私も同じ。だから、勝手に出て行ったりしないで」
そう伝えると、こわばっていた彼の表情にホッと笑顔が広がった。
「……ごめん。そうするよ」
その返答に、千夏の顔にも自然と笑みが戻る。
そこに、はぁと大きなため息が聞こえてきた。晴高だ。
「……どうでもいいから、ここでいちゃつくな」
「な!?」
「いちゃついてなんか……!?」
二人で抗議の声をあげたが、それすら煩わしそうに晴高は手で制すると、
「……とにかく、だ。除霊してほしかったら、除霊代くらいよこせ。業務外だろ。あと、これから霊と同調するときは事前に俺が安全な霊かどうか確かめてからにする、いいな」
「は、はいっ」
千夏はこくこくと頷いた。それを見ると、晴高は千夏たちからふいっと視線を外して駐車場の方へとすたすた歩いて行ってしまった。
後について歩きながら、いまの晴高の仕草が少し心に引っかかる。彼は、向きを変える直前、右手の薬指にしているリングを左手で触っていた。無意識にした仕草だったようだが、あのリングのことは前から気にはなっていたのだ。
職場でしか会わないせいかもしれないが、晴高が他のアクセサリーをつけているのは見たことがない。ただ、あのリングだけは初対面のときからずっと彼の指にあったのを覚えている。
右手の薬指にされた、シンプルなデザインのシルバー色のリング。
あれは間違いなく、恋人か奥さんとのペアリングだと千夏は思う。
しかし、彼と一緒に仕事をはじめて一か月がたつが、彼からは恋人や妻がいるという話はおろかそんな気配すら感じたことはなかった。そもそも、あの愛想というものがまったく欠落している晴高に、そういう相手がいるということ自体信じられない。
そんなことを考えていたら、隣を歩いていた元気が軽く伸びをした。
「さてと。千夏に、投資口座も開設してもらったし。俺の除霊代、稼がなきゃなぁ」
なんて元気がいつもののんびりした口調で言うので、千夏は苦笑気味に「頑張ってね」と言うしかなかった。
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